第三十一話 不信

「一人? 誰の事?」

「……」

 長い沈黙。それを話すことはとても勇気のいることなのだろう。エタもミミエルにはもうすでにこの時点で返しきれないほどの恩がある。彼女がいなければあと一手足りない状況が続いていた。なら、少しだけ彼女の力になれれば。そう願っていた。ミミエルの心を掴むという打算がないと明言できなかったが、偽らざる本心でもあった。

「ミミエル。この話はタンムズ神に誓って誰にも話さない。君が良ければ話してくれない?」

 また沈黙があってそれからようやく彼女は話し始めた。

「あたしの、あたしのね。あたしの養父が部屋に入っていたの」

「……? 同じ家にいるならそれくらい……」

「あたしの服を手に持っていた。顔に近づけて……あの男の手は自分の……男の……」

 ミミエルは切り株からずり落ち、吐き気を抑えるように自分の口に手を当てていた。

「ごめん。僕が悪かった。もう話さなくていい」

 ミミエルの背中をさすり、少しでも彼女が楽になるように努力する。

 つまり、ミミエルの養父は彼女に欲情していたらしい。その頃ミミエルは十やそこらのはずだ。ありえない。連れ子とはいえ幼い自分の娘に劣情を抱くなど。

 ミミエルの境遇は全体を見れば恵まれていると言ってよい。だが、真っ白な生地にポツンと黒い点があれば一際目立つように、彼女の養父は彼女の心に深い傷を残していた。

「……誤解しないように言っておくけど、あいつはそれ以外なら完璧だった。冒険者としても、商売人としても、夫としても、父親としても」

 ようやく落ち着いてきたミミエルはかすれた声を絞り出す。そこにあるのは怒りなのか、失望なのか。……いや、悲しみであるように見えた。

「みんな尊敬してた。あたしだって尊敬してた。弱者を思いやって、いつも努力して、理想の男だって。理想の冒険者だって! 本気で思ってた! でも何!? それは嘘だったの!? ……嘘ばっかりよ。男なんて、冒険者なんて……」

 憧れていたからこそ、失望も大きい。

 エタも、姉が借金をしていると聞いていまだに信じられないのは姉を尊敬していたからだ。だが、もしも本当に借金をして、あまつさえ夜逃げしていたとしたら? 

 ……その時はどこに感情をぶつけていいのかわからなくなるだろう。

「君が大人の男性や冒険者を嫌っているのはそれが原因?」

 いかにも冒険者という風体をしているターハやラバサルに対する態度は明らかにエタよりもとげとげしかった。その理由も今ならわかる。冒険者や男性に対して決してぬぐえない不信感があるのだ。

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