きみと息をしたくなる
榎木扇海
第1話
高校の時好きな人がいた。
同じ部活の2つ上の先輩で、ちょっと変な、賢い人だった。
最寄り駅が一つ違いだったから、たまに一緒に帰ったり、登校したりしていた。話し上手で気さくな人だから、会話に詰まることがなかった。
過疎部活のおかげで部室でふたりきりになったとしても、困ることはなかった。
彼といると楽しかった。
でもまあ時間って止まらないわけで。
四月が来たら彼は学校からいなくなって、第一志望の大学で薬学を学んでいた。
受かった?って聞いて、受かりましたって答えた彼がちょっとだけ憎かった。
理由はよくわからない。
彼が学校を去ってから、ああやっぱり、と思った。
きっとあれは恋だったんだなぁ、と。
一緒に居たい、とか、一緒にいると楽しい、とか、会うと嬉しい、とかっていうのは、どうやら恋だったそうだ。
私はぼんやり、空を見ながら高校を卒業した。
***
築50年のアパートで目覚めるたび、思い出すことがある。
彼と帰りながら、二人で夕日を見ていた、多分秋。
私は隣で夢を語る彼を見ながら、眩しいような、妬ましいような感情をぶらさげたまま、歩いていた。
階段を降りる時、蹴躓いた彼の腕を抱きしめた。たぶんあれが、最初で最後の彼との接触。
それなりに整った顔の彼とまっすぐ見合ったとき、ぽつりと言った。
「きっと10年後、私たちが隣に並んでいたことさえ奇跡みたいに思える日が来るんでしょうね」
彼はそんなことないだろ、と笑って、がんばれよ、と私を励ました。
私は彼の激励に似合うような高尚な人間なんかじゃなかった。
今も、昔も、ずっと。
先月26になった私は、高校を卒業してから働いていた工場をクビになって、何とかバイトで食いつないでいる。
早く死にてぇなぁなんて毎晩思いながら床にバスタオル引いて眠る。
きっと10年後も同じ感じだろう。
***
「145円になりまーす」
ぞっとするくらいやる気のない声でレジ打ちをしながら、今日の晩御飯について考えていた。
目の前のしゃきっとしたスーツを纏う男性は、丁寧にぴったり出してくれた。
ビニール袋に麦茶を入れて、まぁ渡すときくらいは、と思って顔を上げると、なんだか懐かしい感じがした。
たぶん眠かったんだと思う。
声をかけてしまった。
「先輩?」
彼は戸惑った風に顔をしかめた。
自分の名札を指さしながら、「あの、高校の…早瀬です」と早口で言う。
するとしばらくしてから、彼は、ああ、と笑った。
「久しぶりだね。早瀬さん」
なんかその笑顔がぐっときた、ていうか。
懐かしくなってしまって。
「もうシフト終わるんで、ちょっと話しませんか」
とか言っちゃって。
ホントはもうあと一時間あったんだけど、初恋の人だって言ったら同じシフトのもう一人の子が代わってくれた。
頑張れ、なんてさ。
***
「久しぶりですね、先輩。仕事はどんな感じですか?」
コンビニの前で二人並んで空を見上げる。
彼は、順調だよ、と目を輝かせて言った。
ああほんとに順調なんだ、と思った。
「早瀬さんは?」
ひゅっと詰まりかけた息で、ぼちぼちです、と答える。
彼は、そうか、と眉尻を下げて微笑んだ。
「海外、行きたいって言ってましたよね?留学とか」
彼は笑った。嬉しそうに。
「留学、したよ。ドイツに二年間。すごく有意義だった。行ってよかったよ」
それからこっちを見て、「来年度からついにあっちに配属されるんだ。夢が叶うよ」と答えた。
高校から一切成長していないほめ言葉を口にすると、相手も変わらず照れ臭そうに頬を掻いた。
その指に銀色の指輪が光った。
「結婚、なされてるんですね」
彼はああ、と愛おしそうに薬指をなでて言った。
「うん、先月ね」
先月って、それなりに酷い冗談だ。
「どんなひとですか」
「優しいよ」
とても優しい素敵な人だ、そう笑う彼は私の知らない顔をしていた。
***
「日が落ちるのが早くなったね」
駅前まで歩いて、別れる寸前に彼は言った。
「秋になったんだね」
そうですね
声は出なかった。
***
彼の背中が改札に吸い込まれるのを見届けて、私はバス停に向かった。
空がもうすっかり暗かった。
やっぱり、奇跡なんだなぁ
バスに揺られながら口の中だけで反芻する。
人生って、こんな予想どおりになるんだなぁ。
こつん、とガラスに額を預ける。
あなたと、生きてみたかったなぁ
ガラスに映る自分が、ひどく曇って見えた。
きみと息をしたくなる 榎木扇海 @senmi_enoki-15
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