炎上
佐々木 凛
第一章 それは、突然始まる
第1話 日本政府公認SNS
「私を殺したのは、あなたたちです」
そう言って、彼女は自らの体に火をつけた。二〇三五年の初夏、全国で放送されていた朝のニュース番組で、人気お天気お姉さんの起こした凶行。彼女は数日前に野球選手との不貞行為が報道されてネット上で炎上し、今日が引退放送となる予定だった。そんな彼女が悶え苦しみながら力なく燃えていく姿は、朝のお茶の間を凍り付かせた。
この年、SNS上で行われる誹謗中傷による自殺件数は、未遂も含めて年間三十万件。事態を重く受け止めた政府は、日本政府公認SNS『ヒノボル』の運用を開始した。ヒノボルは各アカウントを戸籍情報と結びつけることで、ほとんど完璧な実名主義を実現。これで今まで泣き寝入りしてきた被害者たちが声を挙げやすくなり、加害者を特定することも容易になる。
運用から三年が経った今では、誹謗中傷のほとんどない安心安全なSNSという認識が広がり、国民の八割以上が登録するに至った。年間の自殺者も、十万人にまで引き下げることができた。
こうして無用な誹謗中傷は消え、日本国内に平和が実現する……誰もがそう思っていた。
だが、世の中に完璧なものなど存在しない。このヒノボルもまた、様々な悲劇を生んでしまうことになるのだった――
「りょうくん、こっちこっち!」
「みさ、ちょっと待ってよ」
「早くしてよ。滅多にパーク内に姿を現さないで有名な、ヒキニーマングースがいるんだから。ほら、走って」
そう言うと、
「もう、りょうくんが遅いからスリーショット取れなかったじゃん。私とヒッキ―のツーショットだけ」
息も絶え絶えな井寺に向かって、岬はそう吐き捨てた。井寺にとっては、もう慣れたものだ。岬は尋常ではないほどお人好しなので距離感の遠い人間にほどその高い共感能力を発揮するが、一転距離感の近くなった人間に関しては途端に共感能力が下がり、棘のある言葉が多くなる。
周囲の友達からは少し距離を取ったほうがいいのではないかと言われているが、井寺はそれを自分に心を許している証拠だと考えている。最近はむしろ、どんどん言葉遣いが辛辣になってほしいとさえ思うようになり始めた。
といっても、困っていることが一切無いわけではない。
「ほらな、岬。この程度の距離も岬についてこれない男が、岬の恋人にふさわしいわけがないんだ。さあ、今すぐ別れなさい。今、ここで、すぐに、さあ」
「もう、お兄ちゃんは黙ってて」
そう。井寺が困っているのは岬の兄、
井寺と岬が二人きりでデートできたことは、付き合ってから二年ほど経った今でも両手で数えられるほどしかない。正直、岬があまり恋愛経験を詰めていないのは、十中八九佐の責任だと井寺は思っている。
「ま、いっか。せっかくレアキャラのヒッキ―と写真取れたんだし、早くヒノボルに投稿しないと」
そう言って岬は、スマートフォンを操作し始めた。それを見た佐は、岬にバレない様にこっそり画面を覗こうとしたが、岬は一切後ろを振り返ることなく佐の行為を咎めた。自分がどのような行動をしたら佐がどんな行動を取るのか、まるで全て看破しているかのようだった。
「よし、ヒノボルに投稿完了……わあ、すごい。やっぱりヒッキーは人気だね。一瞬で一万イイね付いたよ」
「ああ、うん。よかったね」
嬉しそうにスマホの画面を見せる岬。それを見た井寺はその微笑ましい光景に心を奪われ、思わず生返事してしまった。
井寺がその失態に気付いた時には、既に岬の両頬が膨れ上がっていた。
「りょうくんは、私の話になんて興味無いんだね。もういいよ、今日は帰ろう」
「い、いや、そんなつもりじゃないって。ごめん、ごめんって」
井寺は顔の前で両手を合わせて平謝りするが、岬は分かりやすく不貞腐れた態度で井寺に背を向け、ヒキニーランドの出口の方へ歩みを進め始めた。井寺は慌てて追いかけようとするが、それを佐に止められた。
「諦めろ、お前は岬にふさわしくないということだ」
「うるさいな、シスコン変態野郎は黙ってくださいよ」
「シ、シス、シスコン……」
「あ、ごめんなさい」
「お前、俺をそういう風に見てたのか」
「えっと……まあ、そんなことは置いときましょう。それよりもまずは、岬を追いかけないと」
「そんなこと。そんなことだと、貴様」
佐からの面倒なお説教が始まることを察知した井寺は、咄嗟に岬の向かった方へと走り出した。背中越しに佐が呼び止めようとする声が聞こえるが、聞こえないふりをして走り続けた。
しばらくして岬の姿を目に止めると、岬は大声で泣いている小さな子どもに声をかけていた。
「あれ、どうしたの」
「ああ、この子が親御さんとはぐれちゃったみたいなの」
岬から事情を聞くと、井寺は屈んでその子どもと目線を合わせ、優しく声をかけた。最初は泣き声しか上げなかった子どもも、井寺の語りかけを聞くうちに少しずつ落ち着いたのか、徐々に迷子になった時の状況や母親の特徴などを話し始めた。
一通り話を聞いた井寺は、子どもの前に右手を差し出した。子どもはきょとんした顔で井寺の顔に目線を向けたが、井寺の優しそうな笑顔を見て、その手を握った。
「さあ、一緒にお母さんを探しに行こう」
そう言うと、子どもは笑顔で大きく首を縦に振った。井寺は子どもの手を左手に繋ぎ変えた後、ゆっくりと立ち上がった。
「はあ。本当にさ、りょうくんって子どもと距離を近づける天才だよね」
岬が溜息をつきながらそう言うと、井寺と手をつないだままの子どもが、岬の方に左手を差し出した。
「お姉ちゃんも、一緒に行こう」
その言葉を聞いた岬は、少し涙ぐみながらも子どもの手を取り、強く握った。涙を見せたくないようで、顔は子どもや井寺がいる方向とは反対を向いている。
「あれ、お姉ちゃん泣いてるの。なんで? このお兄ちゃんが悪いことしたから?」
「え、お兄ちゃんが何したの」
「知らない」
「え、じゃあなんでお兄ちゃんのせいなの」
「だって、りこは悪くないもん。だから、お兄ちゃんが悪いんだ」
「そうね、このお兄ちゃんが全部悪い」
「やっぱり、悪い人だったんだ。手、離して」
「無茶苦茶だ」
振り払われた右手を見つめ、井寺が呟いた。それを見た岬と子どもは、意地悪そうにひそひそと二人で笑っていた。この短時間で、井寺は初対面の子どもにもからかわれてしまった。
といっても、井寺にとってそんなことは既に慣れっこであったが。
五分ほど三人で歩くと、「りこ。りこ」と、何度もその子の名前を呼ぶ声が聞こえた。三人が声の聞こえる方向へ歩いていくと、そこには右往左往しながら人の波に漂う女性の姿があった。
「あ、ママ!」
その女性の姿を見た子どもは、岬の手を振り払って走り出した。右往左往していた女性も気付いたようで、子どもの方に駆けよっていった。
「ありがとうございました。あなたたちのような優しい人に助けてもらって、本当によかったです。ほら、りこ。お兄ちゃんとお姉ちゃんになんて言うの」
「ありがとう」
こうして一人の迷子を母親と再会させたところで、井寺と岬のデートは終了した。帰路の途中、二人は自分たちのスマホにたくさんの通知が入っていることに気付いた。内容を確認すると、全てヒノボル内で送られてきた、二人に対する称賛のメッセージだった。
「なんでこんなにメッセージが」
「あ、りょうくん見て。ほら、迷子と一緒に母親を探す心優しい人々って書き込みで、私たちが映った動画がヒノボルに投稿されてる」
「それでか。はあ、ヒノボルってこういうところが嫌なんだよな。アイコンも顔写真だから、少し調べれば簡単に特定されるし」
「まあ、いいじゃん。褒められてるんだしさ。それより、なんかお兄ちゃんどこかに行ったみたいだし、このままご飯でも食べて帰ろうよ」
「いいね。何食べたい」
「やっぱり、外食と言えばお寿司だよね。もちろん、りょうくんの奢りで」
「デート代を男が払うという文化は、もう十年位前に死に絶えました」
そんなやり取りをしながら、二人は暗い夜道を歩くのだった。
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