青野海と赤居苺8

 ライブの直前。一人の人間の小さな声、小さな衣擦れの音、あるいは目に見えない期待の音。そういうものがいくつもいくつも重なりあって、大きなひとつの怪物の気配のようなものになる。

 どの回も同じ気持ちで望んでいるし、差異なんてないけれど、やっぱり初日の緊張感は他のものとは比べものにならない。お客さんはちゃんと盛り上がってくれるだろうか、意図が伝わるだろうか、ちゃんと楽しい時間を過ごしてくれるだろうか。

 衣装の重さが肩にかかると、それだけでもう何かが目前に迫ってくるような気がする。そろそろ楽屋から出ないといけない時間だ。

「海さんってせっかちですよね」

「えっ」

 急に声をかけられて体がびくっと飛び上がった。横に花梨が座っていて、まだお菓子なんか食べている。

「そんでもって緊張しいですよね」

「ちょっと衣装汚れるってば」

「大丈夫ですプロなんで」

「なんのプロよ」

 ふふ、と笑って花梨はなぜか事務所のスマホを渡してきた。

「まだゆっくりしてても大丈夫っすよ。裏行っても海さん緊張する時間長くなるだけだから、ぎりぎりまでここいましょうよ」

「ていうかなに、これ」

 このスマホはライブ配信をしたり、写真を撮ったりする以外に使わない。だからほとんど夕陽と花梨の専属機のようになっている。

「やっぱり忘れてる。次は海さんの番ですよ、ブログ」

「ブログ?」

 それならちゃんと定期的に更新している、と反論しようとしたところで思い出した。そういえば、今回のライブ用にページを作って、そこで日替わりでブログをあげるとかいうことになっていた気がする。

 初日を迎える前にもうはじまるとかなんとかいうことも、言っていたような気がする。正直それどころではなくて完全に頭からすっぽぬけていた。

 ポン菓子を一粒ずつぽりぽりと食べながら、花梨は突然つらつらと語り始めた。

「私、昔から雑誌の対談を読むのが好きで、全然しらない人同士の対談とかも片っ端から呼んでいくタイプなんですけど、やっぱり媒体によってちょっとずつ色があるじゃないですか。同じ人が喋ってても、別の雑誌だとちょっとなんか、違う人に感じることがあるっていうか。それ、ライターさんが違うからなんだなーってアイドルはじめてよくわかったんですけど」

 なぜこんな時のそんな雑談をはじめたのだろうと思いながら、私は答えた。

「こんな喋り方してないって思うことはよくあるけど」

「生の音とは違うっすもんね」

「まぁでもそのまま一言一句載せるわけにもいかないし」

 関西弁の文字起こしを関東人がやっていると、関西の人はときどき身の毛がよだつと聞いた。

「そうなんですよね。で、それってテレビとかでも一緒じゃないですか。編集って結局切り取りだし。あと、自分にしても、不特定多数に向ける用の言葉って、やっぱり少なからず本当からは遠ざかるなって思っていて」

 あ、嘘ってわけじゃないんですけど、と花梨はいった。それは納得できる。ストライクゾーンの大きい、誤解のされない言葉は、どうしても本音が薄くなる。

「だから結局、私たちの生の声って、こういうライブとかじゃないと、届けられないんじゃないかなって」

「まぁそうだね」

 真偽がどうかなんて、受け取る側にはわからない。だから、根も葉もないネットの噂話も、ちゃんと取材を受けて答えた本当の言葉もきっと同じ土俵の上にあるのだろう。

 花梨は何かを伝えあぐねているように、じれったそうに続けた。

「でもライブだとほら、テンションがあがって意味わかんないこと言っちゃったりするし、そもそも、なんかライブすぎるというか。あとほら、ファンの子のブログとかSNSの感想とか、めちゃくちゃ嬉しいじゃないですか。やっててよかったーって思いません?」

「好意的なのならね」

 私は悪意のある数々の言葉たちを思い出していたけれど、花梨の顔つきは穏やかだった。

「ああいうのって、時間をかけてるってことがもうひとつの価値だと思うんですよ。時間をかけて、言葉を積み上げていくと、もしかしたら主観とか、ちょっとした作り込み? みたいなものもあって、本当とは遠ざかっちゃう部分もあるかもしれないけど、だからこそ本当より本当だっていうか」

「う、うん」

 正直何が言いたいのかよくわからない。すると、花梨は伝えることをあきらめたのか、もういいや、と言って私の持っているスマホをぱんぱんと叩いた。

「だから、ブログ書いたんですよ。私たち」

「え?」

「それが私たちの支えになるんじゃないかって思って。だから、ちゃんと読んであげてくださいよ」

「あげてくださいよって」

「まだ時間あるんだから、読むまできちゃだめっすからね! それで、ちゃんと海さんも書いてください」

 そういって、花梨はスマホだけを残して急に立ち去っていった。いつもならとっくに裏で準備している時間だ。だけど、今日はたしかに緊張しすぎている。すこし整えてからいかないといけない。

 そう考えながら、何気なくブログを開いた。

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