青野海と赤居苺7

 本格的にライブの準備がはじまると、やはり苺の声はときどき不安定になった。酷使しすぎないようにと思うけれど、猪突猛進型の苺にはその調整が自分では出来ないようだった。

 また今日も声がうまくでないらしく、何度も何度も練習しようとするのを、なんとかみんなで止めた。絶対に悔しいだろうに、そういう顔をせずに笑っている苺を見るのがみんな辛そうだった。

 その日のレッスン後、私たちはスタジオをはじに集められ、事務所の偉い人がその前に立った。

「とりあえず、歌は基本全部被せでいくから」

 それは妥当な判断だったと思う。私たちのグループは割合に生歌が多いことが特徴だったけれど、今のこの状態でそれに挑むメリットはひとつもない。

 そもそもアイドルで被せていないグループなどほとんどいない。それを批判する人間もいるけれど、生歌で勝負するアーティストとはそもそも戦っている土俵が違うのだ。

 私たちは歌うことだけをやっていればいいのではない。歌もダンスも顔も喋りも、その全部を高い水準で保っていないといけない。そうして、そのすべてを成立させるための時間が私たちにはないのだ。

 でも苺はなかなか納得しなかった。

「一曲だけでいいから生で歌いたい」

 苺はこうなると、なかなかに頑固だ。葉子が困ったようにこちらを見た。こういう時はいつも人まかせだ。それでいいところばかりかっさらっていく。

 仕方なく私は口を開いた。

「苺、あんたまだ完全じゃないって自分でわかるでしょ?」

「今からよくなるんだもん」  

「なるかどうかわからないって話をしてるの」

「なるもん!」

 今まで苺はわがままに聞こえるようなことを言ったことはあったけれど、こんなに聞き分けがなかったことはなかった。なにか理由があるには違いないが、何を聞いてもやりたいとしか言わなかった。

 他のメンバーはどうしていいかわからない、という顔をしている。

「わかった。じゃあ、やりな。一曲だけ。あんた一人で歌って踊りな」

 私の言葉に戸惑いながら口を開いたのはすみれだった。

「一人、ですか」

 みんなでやるのなら、誰かしらがフォローできる。生歌でやるとしても、最低限メンバー全員と一緒にというのが条件になるだろう。でも一人でやるとなれば、声がでなかったらそれですべてが台無しになる。

 けれど苺がやりたいと言っているのはそういうことだ。

「ライブは苺のことだけ見に来ている人ばっかりじゃないんだよ。それでも一人でやれるの?」

 苺は黙った。そんなことは苺が一番よくわかっているはずだ。真ん中に立っているというだけで、今までどれだけ理不尽な批判を受けてきたか。

 けれど、苺は顔をあげた。

「やる。やれる」

 もはやその声が枯れている。

 私には苺がそれをして、どうなりたいのかわからない。これだけの思いをして、ライブに出るということだけでも十分なのに、まだ自分に何かを課す必要があるだろうか。

 でも、それがセンターに立っている人間の矜持なのかもしれなかった。それを放棄した私のような人間にはわからない何かが、そこにはあるのかもしれない。

 メンバーはみんな不安そうな顔をしていたし、大人たちはいつものややこしい真顔でこちらを見ていた。私は、その中で思い切り頭を下げた。

「ワンコーラスだけでもいいんで、苺に歌わせてください。お願いします」

 床しか見えないので、他の人間がどんな反応をしているのかわからない。でも場が固まったのはわかった。思えば、私たちは結成当初からあまり我のないグループだった。

 それぞれ個性は違うけれど、真面目に仕事に取り組むのが得意な人間が集まっている。だから基本的には大人たちのいうとおりにやってきた。仕事とはそういうものだ。私たちは、遊びでアイドルをやっているわけではない。

 でもそれは大人たちのいっていることが基本的にいつも正しくて、それに納得してきたからだった。今回だって、どう考えても大人たちのいうことの方が正しい。場が固まってしまうのは当然だ。

 その固まった空気の中を、バカみたいに軽い声が横切った。

「あ、じゃあ私からもお願いしまーす」

 なにも考えていないということを、声だけでここまで表せられるのは葉子の才能かもしれない。でも私たちはいつもその声に救われている。

 葉子の声に続いて、他のメンバーもぽつぽつと「お願いします」と頭を下げるような気配があった。そうしておそらく、頭を下げていないだろう桃が最後にいった。

「だめだったら私とすみれで漫才するから」

「え、な、なんでですか」

「じゃあ、夕陽と花梨はアクロバット飛行すんね!」

「客席降りもしよ!」

 年下組の明るい声や雰囲気で、完全に場の空気が変わった。それに、特に事務所からの信頼が厚い夕陽と花梨の声が大人たちの心を動かしたらしい。

 なんとか協議して、ライブの冒頭の数分、苺のソロダンスとワンコーラスの生歌をいれてもらうことになった。結局、一番ハードルの高い演出になってしまった。

 これで苺は正真正銘たった一人でステージに立つことになる。自分でけしかけておいて、本当にそんなことが出来るのかと不安になった。

 そんなことをさせてしまっていいのだろうか。

 苺は笑っていなかった。

 笑わずに、ただ頭を下げた。

「みんなありがとう。私、一生懸命がんばります」

 これでよかったのか、本当に正解がわからない。がんばるということが、果たしていいことなのか。頑張れば頑張っただけ、悪い方向へ進んでしまうのではないか。

 でも、そんな心配をしていられるのはほんの少しの間だけだ。私たちにはいつだって時間がない。人へいいものを届けようと思えば、一分一秒、次々と何かしらの判断しなければいけない。

「海、ちょっと」

 ミーティングが終わって、帰ろうとするところを呼び止められ、リハーサル室に逆戻りする。ライブの進行にまた何か変更があったのかもしれない。

 うちのグループには進行のできる人間が私とすみれしかいないので、こういう会議になると他のメンバーは帰ってしまう。せめてリーダーは残るべきじゃないか、などと私は気軽に構えていた。

 けれど、振付師とマネージャーとその他数人の大人にまじって、普段現れることのない社長がそこにいることに気がついて、そうではないのだと悟った。さっきの話をもしかしたら社長もどこかで聞いていたのかもしれない。

 社長はいつものにこにことした無遠慮な柔らかい顔をして言った。

「苺のソロ、ダメだったときには海がやりなね」

「え?」

 間抜けな声が出た。けれど、考えれば、それこそ当たり前のことだ。

 苺の声がでるかどうかなんて、その日になってみないとわからない。苺はなりたくてそうなっているのではないのだ。裏を返せばそれは、いつそうなるかは誰にもわからないということ。

 プロのアイドルが金を取ってやるショービジネスに、失敗するかもしれない、なんていう余地は許されない。

 信じるとか信じないとか、そういう話ではないのだ。でも――。

「なんで私なんですか」

 苺の代役ならば、どうかんがえても桃が一番いい。今、グループの中でオーラを含んだパフォーマンスで苺に適うかそれ以上なのは、桃しかいない。

「それは海が一番よくわかってるんじゃない?」

 社長の目は、あのときと同じだった。

 あの日、私が逃げたときと同じ。

 本当にそんなことが可能だと思っているのだろうか。冒頭の苺のソロは、あたりまえだけれど苺のために作られている。グループで踊るときには全員のレベルに合わせているから、普段あの難度のダンスを私たちが踊ることはない。

 苺だから、踊れるのだ。

 デビューしてからいろんなことに追われて、私は必要最低限のレッスンしかできていない。あんなダンスが自分にできるはずがない。

 そう。誰も変わりができないから、苺がセンターなのだ。

「じゃ、よろしくね」

 返事を聞かずに社長はその場を去った。

 これを信頼と取らえられるほど、私の性格はまっすぐじゃない。これは罰だ。あの日、逃げるように苺をセンターに推した私への罰。

 私だって、やってやるという気がないわけではなかった。あのときだって、今だってそうだ。苺に何かあることを望みはしないけれど、もしそんなことがあっても、代わりに会場を納得させるものを見せてやると、思う。ずっと思っている。

 でも、強い気持ちなんて、才能の前にはなんの力にもなりやしない。

 リハーサルをするたびに苺の声にはみるみる張りが戻り、ダンスのキレもどんどんよくなっていった。憑依型だとかなんとか言われているけれど、今までの苺のパフォーマンスにはかなりムラがあったのだ。でも今は、ライブが近づくにつれて着実に完成度があがっているのがわかる。

 この世のすべての色を飲み込んでいくみたいに、日に日に苺は完璧に近づいていった。

 こうして何度置いていかれただろう。

 そのたびに私は大きな何かを諦めてきた。ほとんど才能がすべての世界にいると、自分の才能のなさを何度も思い知らされる。毎日毎日、気の遠くなるような努力を続けて、やっと普通になれるような世界だ。

 それで羨むことができればよかったけれど、苺が捨てることのできない自分の才能にどれだけ苦しめられてきたのかを一番近くで見てきたから、簡単に羨むことさえできなかった。

 どちらの苦しみがよりいいのかなんて、誰にもわからないのだ。だって私は苺になれないし、苺も私になってくれることはない。私には、才能のある人間の苦しみを受けることもできない。

 止めなければ一生走り続けることのできる才能。その才能の苦しみ。全部、私にはない。わたしには、一生そのときが訪れない。

「苺、あんたちょっと休憩しな」

 優しさと思いこんで私がやろうとしていることはすべて、苺の足を引っ張ることなのかもしれない。凡人の私の言葉など、苺にとってはすべて毒なのかもしれない。こんなことだって、もう何万回も考えた。

 そしてそのたびに、この瞳に出会うのだ。

「うん。わかった!」

 苺はなぜ、私みたいな何も持っていない人間をまだ信じているのだろう。

 今でも、私が声をかければ苺は動きを止める。簡単な言葉ひとつ聞き逃さず、こちらの機嫌の良し悪しに拘わらず、いつも隣に寄ってくる。そういうことを煩わしいと思ってさえいるのに、自分が安心したいときだけこうして利用する自分の卑しい心に耐えられない。

「あのね海ちゃん、私ね、本当に海ちゃんにありがとうって思ってるよ」

 私は、こんな風に何一つ汚れていない感情を向けられるような、立派な人間じゃない。赤でも青でも、白でもない。真っ黒だ。私は。

「なんで?」

「ん? なあに、海ちゃん」

「感謝されるようなことしてない」

 息なんか切れてないのに、苦しくて仕方がなかった。

 苺がこちらを覗き込む気配があったので、タオルで顔を隠した。汗なのか涙なのかわからないものが、だらだら頬に流れて、気持ちが悪い。

「私なんかのいうこと聞かないで」

「え?」

「あんたは、あんたの好きにやればいい。みんなそれを待ってる」

「海ちゃん?」

「苺は一人でなんでもできるんだから」

 それにくらべて、私にできることなどたかが知れている。

 練習しても練習しても納得のいくものなどできやしない。もちろん苺も他のメンバーも、代役を立てられていることなんて知らないから、誰かに相談することもできなかった。

 この仕事をしていると、こんな風に自分一人で解決するしかない問題がいつでも期限付きで迫ってくる。この仕事だけじゃないのかもしれないけれど、それにしたって、回数が多いし難度が高すぎる。私にはそんなキャパはないのに。

 気がつくと私は毎晩祈るようになっていた。

 どうか苺の声がでますように。苺が万全の状態でライブができますように。そう祈りながら同時に、まったく反対のことも強く望んでいるのだった。

 どうか苺の声がでませんように。

 どうか私にもう一度チャンスがめぐってきますように。

 いつから私の体の中はこんなにも醜い黒いものばかりになってしまったのだろう。白いものが、もうひとつも残っていないような気がした。こんな体では、誰の前にも出られない。誰の好きな色にもなれない。

 私たちは、誰かに愛されるために存在しているのに。

 こんなすべての色が混ざったような黒色では、誰も救えない。

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