青野海と赤居苺4

 やめようと思ったことなど一度もないのに、ふとしたとき、やめることができないという事実に、薄ら寒い感覚になることがあった。底が抜けるような、あるいは高い狭い場所で身動きがとれないような。逃げ場がどこにもないような。

 決してトントン拍子とはいえなかった。けれど世間様からみれば私たちは、たいした苦労をせずに売れたアイドルで、そのきっかけになったのは苺の存在だ。

 苺が普通と呼ばれる生活からどれだけ弾かれ、日常生活にどれほどの支障があるのかということは、私たちメンバーが一番わかっている。

 でも私たちの戦っている世界では、そういった異常が面白さとしてもてはやされることがある。普通とか異常とか、そんな言葉は毒でしかないけれど、この世界の主成分はそれなのだった。

 そうしてどんどん苺はそこでしか生きられない生き物になっていった。

「ごめん、ちょっと二人ここで待ってて」

「はーい」「わかりました」


 苺が売れてから、私も一緒にテレビに出ることが多くなった。うちのグループにはツッコミが少ないし、バランス的にバーターとして出すなら私しかいない。教育係的側面は昔から少しも変わっていない。

 他に誰もいないのに移動車の一番後ろのいつもの席に並んで座る。苺は座るといつでも、どんなときでもまず自分の服のシワを伸ばす。実際にはシワなんてひとつもついていないのだけれど、何度も何度も手の平で伸ばす。衣装でもときどきそれをするので、いつも私は注意する。

「ブログ更新したの?」

 そう聞くと、苺はへらへら笑った。

「まだー」

「もう18時すぎてる」

「うん」

 そう言いながら、苺は横になって私の膝の上に頭を乗せた。

「ちょっとだけきゅーけー」

 私は昼からだったけれど、苺は早朝のラジオに出ている。昨日は昨日でレギュラーのラジオが夜まであったから、あまり寝てないのだろう。本当に毎日忙しくしている。そのうえ今日はたぶん深夜までライブのリハーサルだ。明日も、よくは知らないが予定が詰まっているはずだ。

 横になっているつむじを写真で撮った。

「ふふ。ブログ用?」

 苺はときどき赤ん坊のようにとろとろとした言葉を喋った。

「寝るなら目つぶれば?」

「私のに載せていいやつ?」

「別にそのために撮ったんじゃないけど」

 またふふふと笑う。すべてわかっている、というような態度をされると腹が立つ。本当はそのつもりだったけど、送らず自分のブログに張りつけてやろうか。

 でもそうするとまた、私たちが仲良くしていると嬉しい勢力が盛り上がってしまう。やろうと思ってやっているわけじゃないのに、営業と言われると腹が立った。仲良くなんてない、と誰にも言えない言葉を飲み込んで、ため息を薄くした空気を吐く。

 二人にしかわからない世界がある、などということを言われると、そんなものは存在しないと言い切ってしまいたくなる。

 その一方で、関係性の余地こそアイドルの本分だとも思う。とくに今の世界は、自分ではない誰かと誰かの関係性に癒やされる人間が多い。仮想世界が広がる中で、友愛もまた仮想で補おうとしているのだ。

 それは私たちの望むところでもある。自分たちの関係で誰かが癒やされるということこそを望んでこの仕事をしている。綺麗事だと言われようがなんだろうが、私たちはそうありたいと思っている。

 綺麗なものは存在するのだと言い続けたい。たとえそれが作り物だろうと、それで救える人がいるのなら。

 でも綺麗ごとをなすということは、泥の中を歩いて行くようなものだ。

「ねぇ、とーこちゃん」

 苺はときどき私の名前を呼ぶ。まるでそれで一つの世界ができあがるとでもいうように。魔法みたいに

「なに」

「私、ちゃんとできてる?」

「なにが?」

「真ん中、守れてるかな?」

 背中がびりびりして、息がつまった。

 その頃の苺は以前にもまして、身を滅ぼすような集中力で物事に向かうようになっていた。別人のようだと人は言うけれど、私からすればそれこそが苺だ。私がたった一言声をかけたときから、ほんの少しも変わっていない。

信じたものを、全力で信じて続けている。

 そういう苺を見たとき、私はいつでもなんて声をかければいいのかわからない。人気が出れば出るほど、規模が大きくなればなるほど、批判や批評は強くなり、求められるレベルも高くなる。

 聞きたくない言葉を聞かないでいられるのは、もっと規模が小さい場合だ。これだけ大きくなると、聞きたくない言葉が勝手に届いてくるようになる。

 そうして、その中心にいるのはいつも苺だった。グループの顔として、パフォーマンスの要として、あらゆる中心に据えられ、それこそ逃げられる瞬間などないだろう。

 苺はあらゆる人間に熱狂的に好かれ、熱狂的に嫌われている。

 でも、じゃあ、もうやめればと言えばよかったのだろうか。もう守らなくても大丈夫だと言えばよかったのか。そんなことを言ったら、それこそ苺は壊れてしまったんじゃないだろうか。

「まぁまぁじゃない?」

 だから曖昧に、目をそらしながらそう答えるしかなかった。

「まーまーかぁ」

「悪くはない」

「まだまだいける?」

「ていうか寝るなら寝れば」

 えへへ、とまたひどく子供じみた声がもれる。一体なにが楽しいのか、私と話していると苺はよく笑う。それは雑誌で見る一瞬の煌めきの切り取りや、テレビで見る長回しの自然体の切り取りとは違って、統制の取れていない、曖昧な笑いだ。

「頭、撫でてくれてもいいよ」

「ばかじゃないの」

 苺の髪の毛は柔らかくて一本一本がほのほのあたたかいような気がした。こんなことをしていると、まるで私たちは慈しみあい生きている動物かのようだ。

 そんなことは決してないのに。苺はただの生贄で、私はその祭祀、いや、ただ見ているだけの、救われることを望むだけで何もしない村人だ。

「ちゃんと休めるときに休んで」

「はーい」

 私たちはとてつもなく大きな流れの中にいて、もう自分たちでは外側の世界をどうにかすることはできなかった。止めたいわけではないし、私たち自身が望んだことだから、もちろん喜びもある。

 誰かが私たちのやることで救われているのだという実感もあった。それでも、私たちを愛してくれる内輪の世界が大きくなればなるほど、小さな一人の人間である自分との齟齬に、目眩がする。自分の位置がわからなくなる。

 私でさえそうだったのだ。

 苺は、どれほどのものを感じていたのだろう。

「ハイタッチ会って、今やるのってどうなんだろね」

「あー。それはちょっと思った」

 47都道府県ツアーが発表されてすぐのころ、そう言ったのは夕陽と花梨だった。もうすぐ高校生三年になるというのに、いつまで経っても子供のころと同じように、二人にしかわからないことでケタケタとかしましく笑い合っている。けれどやはり、歴の長さからくる感覚と観察眼にはかなり助けられていた。

「どうって、なにが?」

 話に入っていくと、んー、と花梨は斜め上を見て呟いた。

「まぁエモいってのはわかるんすけど、今のうちのグループの規模的に? 今それやるかーって感じしません?」

「だからこそ、ってことなんじゃないの? 直接触れ合えることもうほとんどないし」

「それはそうっすけど、規模がでかくなればなるほど公平さって必要になってくると思うんすよね」

「ハイタッチは公平じゃないってこと?」

「ハイタッチに拘わらず個別のふれあい的なもの? なんかそういうのって、やっぱ近いじゃないですか。近さって絶対公平にはならないから」

 そんなことは考えたこともなかった。たしかに、私たちは舞台に立ってライブをしていて、ファンの人はそれを下から見てくれている、という距離が本来のアイドルの最短の距離感であったような気がする。

 花梨はくるくると指を回しながら、続けた。

「応援してくれる母数が増えると、愛の深度がふかーいお客さんの数も増えるし、それ自体はどうしようもない、というかそれ自体はまったく問題ないんですけど、それを問題になるレベルまで膨れあげてしまう運営方法には慎重になるべきというか。うちらもそろそろ多少浅くなっても、まんべんなく公平なものを提供するってことを徹底するべきなんじゃないかなーって」

 つらつらと花梨の口から言葉が流れて、それを夕陽が拾う。

「まぁ、アイドルの永遠の課題だよね。ファンにとってはアイドルとの関係って一対一だけど、アイドルにとっては一対一じゃないからね。いかに一対一だよーって夢をみせてあげられるかが腕の見せ所だけど、それでいうとハイタッチとかって大分ズルに近い手法だし」

「だからこそ売れてないときには有効なんだけどねー」

 正直にいって、そんなところまで考えたことがなかった。夕陽も花梨も歴が長いということだけでなく、とびぬけた客観性がある。私はそんな風に関係を割り切って考えることができない。

 いつでも、どんなときでも、目の前にいるお客さんと、あるいは目の前にいなくても、遠くで私のことを思ってくれている人がいるのなら、その人との関係は一対一と思いたい。

 こういう甘い考えが、かえってアイドルに向いていないのではないだろうか。

「ま、そういうのはこれが最後ってことなんだろうね。事務所的に」

 夕陽がまとめると、そだね、と軽く花梨は受けった。これだけ色々なことを考えているのに、この二人は基本的には事務所の決定に素直に従う。そういうところも、私にはまったくない。プロだと思う。

「最後か」

 そういえば苺はハイタッチ会が好きだった。ライブが終わって、楽しそうにしている人間と同じ目線になれるのがいい、とかなんとか言っていたような気がする。

 いつもどんなに大きな会場でも、できる限り多くのお客さんに手を振ったりうちわの要望に答えたり、個別にサービスをしている。私も同じようなタイプではあるけれど、苺は適度ということを知らないし、なんでも要望に答えようとするので、その要請もどんどん複雑になっている。

 でもたぶんあの時間が苺にとっては一番大切なのだ。あれだけ無心に誰かに何かを与えることができるのは、間違いなく苺の才能で、そういうものを持っているのが素直に羨ましい、とそのとき私はそんなことを考えていたのだった。

 いつでも、自分のことばかり考えていて嫌になる。

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