青野海と赤居苺2
うちの事務所の人間は大体みんなそうなのかもしれないけれど、いつ自分が正式にこの事務所の所属になったのかが分からない。
オーディションを受けた人間の中でも、その日に合格と言われて研修生になる人もいれば、レッスンには呼ばれるけれど研修生ではなかったとか、オーディションからかなり時間が経ってから急に合格を言い渡されたとか、人によってまったく違う。
オーディションを受けた理由は、親や兄妹の影響とか、勝手に履歴書を送られたというよく聞くパターンが多い気がする。私は自分で履歴書を送ったので、その時点で少し邪道なのかもしれない。
テレビで見た先輩たちの姿がかっこよくてかわいくて、ああいう洋服を着てみたい、という単純で簡単な気持ちからだった。
母の用意してくれた履歴書に自分の写真を貼ったとき、悲しくて仕方がなかったことを覚えている。昔から骨格がはっきりしていて、顔立ちも濃く、テレビで見た華奢で可憐なアイドルの姿とは似ても似つかなかったから。
だから書類審査に受かったときは、飛び上がるほど嬉しかった。
私たちがオーディションをしたのは、そのころ一番人気のあった先輩グループのツアー会場のリハーサル室で、ともかく人数がたくさんいたことを覚えている。子供の感慨なので、実際はそうでもなかったのかもしれない。
いくつかのグループに分かれて、自己紹介をさせられたり、特技をみせたり、歌ったり踊ったりした。
気がつくとその人数が減っていて、リハーサル室には10名程度が残っていた。でも、その後のことはよく覚えていない。合格とはっきりとは言われなかったのだ。
書類を何枚か渡されて、保護者に書いてもらうように、といようなことを言われた気がする。それがレッスンに関するものだったのか、事務所の所属に関するものだったのか分からない。
なにしろあのころの私はまだ小学生で、生活の中で手続きなどというものを意識したこともなかった。
大人たちに解散と言われて、私たちはぞろぞろとリハーサル室から出た。重たい白い扉を押したときに、横にいた女の子が私の足元に目を向けた。
「その靴、かわいいね」
室内履きを持っていなかった私は、兄が気に入らずに履かなかった古くて新しいスニーカーを履いていた。それがオーディションの結果に響くのではないかと内心気が気でなかったくらいなのに、ただ青いだけのこんな靴がかわいいなんて、信じられなかった。
「そうでもないと思う」
「えー? かわいいよー」
女の子はお菓子のパッケージにいる動物のような顔をしていた。自分のことを棚にあげて、アイドルになれそうもない顔つきだと思った。
「ていうか私たち、受かったのかな?」
そう聞くと、女の子は大きく首をかしげた。
「わかんなーい」
それが葉子だ。その日はそれだけで分かれたので、平野ここみという葉子の本名を覚えたのは、はじめてレッスンに呼ばれた日のことだった。
後に「不毛の12期」と呼ばれることになるこのオーディションの合格者は、今では私と葉子の二人しかいない。でもまったくの同期が同じグループでデビューできることはめずらしいので、不毛と言っていた奴らには全員謝ってほしい。
レッスンは毎日あって、他にやることもないので私はほとんど毎日通っていた。合格といわれなかったので、練習をがんばっていればいずれ合格と言われるのではないか、という気持ちもあった。
私は、やっぱりまだかわいい洋服を着たいということだけ考えていた。ひとくちに研修生といっても、グループに選ばれてオリジナルの曲をライブで披露しているデビュー目前の子たちもいれば、当時の私のように、ただ歌と踊りのレッスンをしているだけの子もたくさんいた。
一年もレッスンを続けていると、研修生がどのようにしてデビューに至るのかということが少しずつ分かってくる。うちの事務所は定期的に研修生主体のライブを開催していて、まずはそれに出て現場で実力をつけるということが必要らしかった。
ライブの中心にいるのはもうグループで活動していて、ファンもたくさんいるような子たちばかりだが、バックダンサーとしてライブに出るようになると、青田買いを狙ったファンがつくことがある
そうし定期的にライブに出るようになると、名前が売れてきて、事務所からの覚えもめでたくなり、そのうちにグループを組めるようになる、という流れだ。
でも私は、私たちはなかなかその流れに乗れなかった。
「どうやったらもっとライブに呼んでもらえるのかな?」
「えー? わかんない」
葉子はたいてい何もかもわかっていない。私も何かためになるような答えが返ってくるとは思っていない。ただ、考え過ぎない葉子の存在は、考えすぎる私には貴重なものだった。
「崎さんはよく呼ばれてるよね」
「そうだねー」
「まきりんとかも」
「あ、でもまきりん辞めるかもとかいってたよ」
「まじ、なんで?」
「さあ?」
同じ12期の中でも毎回ライブに呼ばれるような、いわゆる事務所に推されている子というのが何人かいた。残念ながら私にも葉子にもそんな風が吹くことはなく、欠員が出たらライブに出られる、というような状況が長く続いていた。
ライブに出られても、下っ端の下っ端である私たちの着る衣装はあまり可愛くもかっこよくもない。でも、とりあえず頑張るしかない。
その頃の私に出来る頑張るというのは、ともかくダンスを覚えて、歌を覚えて、魅せ方を研究して、ライブに出られたときになるべくたくさんのお客さんの目に止まるよう、手を振り続けることだけだった。
それを続けていると、いつの間にかお客さんではなく先輩たちにとても可愛がられるようになった。
「がんばってんねー」
「えらいえらい」
「お菓子食べる?」
先輩たちは優しくしてくれるだけではなく、厳しく叱ってくれもしたし、真剣に悩みを聞いてくれることもあった。私はもうどれだけ頑張っても、エリート街道を走る子たちと張り合えるような存在になれないし、何度もやめようと思った。そんな時、いつも私を救ってくれたのは先輩たちだった。
けれど彼女たちも境遇は私と同じで、ある日突然いなくなることが度々あった。そういった人たちは必ず私に「お前はがんばれ」というような言葉を残す。残して、いなくなる。
そのうちに私は、デビューとかいうことよりも、どうしたら辞める人間が減るのだろう、ということを考えるようになった。後輩が入ってくると先輩たちにしてもらったこと以上のことをしてあげようと思うようになった。
今思うと、自分と同じ状況でいて、なおかつ辞めないでいてくれる仲間を増やしたかっただけなのかもしれない。それは、頑張っても認められないという状況を一緒に味わってくれる人、という意味だ。
後輩の面倒を見る、ということでそこにいてもいいという理由が欲しかったような気もする。そうして、私が唯一事務所に評価されたのはそれだった。
「お前が教育係な」
そのうち後輩が入ってくるとそう言われることが多くなった。教育といっても、相手は同い年や年下もいれば、ものすごく年上だっている。
小学生の時の中学二年生なんて、相当な大人だ。でも私は必死に教育係として働いた。誰か振り落とされていないか、悩んでいる人はいないか、辞めてしまうような子はいないか。
どんなものであれ、選ばれたということが嬉しかった。どんな形であれ、存在してもいいという印をもらったのが嬉しかった。
あの子と出会ったのは、そんなときだった。
ダンスレッスンの休憩中、端の方で壁に背中をつけて小さく座っている子を見つけた。ひと目みたとき、なんだか人間っぽくないもののように見えた不思議に思ったのを覚えている。
言葉にしてこれ、と言い表すことはできないけれど、人間ではないものが、人間に化けているような感じがしたのだ。踊っているときとは別人だった。
「あの子はじめてみた」
「んー」
隣にいた葉子にそう言うと、葉子はいつものもったりとしたやり方で壁の方を見た。
「あー、なんだっけ? スクールから上がってきた子」
うちの事務所は研修生たちのレッスンとは別に一般に向けてのダンススクールも開いている。いわゆる習い事のダンスではあるが、ときどきその中から研修生の研修、というような立場の子が上がってくることがあった。
「名前は?」
「しらーん」
私は修学旅行で数日出られない間に新しい子が入ってきたということに、やや焦りを感じていた。ああして一人で場に馴染めずにいる子を出してしまったのは、私が仕事をちゃんとしてないというのと同義だ。
その子の前まで行くと、思ったよりも体が小さく、思ったよりも風貌が幼かった。
「こんにちは」
声をかけてから、顔をあげるまでのタイミングだけで、世間に溶け込みづらい子なのだろうとあたりがついた。変という言葉は便利で楽だけど人を傷つける言葉だ、けれど、その子は変という言葉を使いたくなるような様相をしていた。
私の挨拶には答えずに、その子はくりくりと大きい目で、私の顔を掘ろうとでもいうくらいの強い眼差しを向けてきた。それは敵意ではなく、強い観察の目だった。
そんな目をする子を、私は初めて見た。
「わたし笹原瞳子。あなた名前は」
「なまえ?」
「そう。名前」
「ひろ花だよ」
「なにひろ花ちゃん?」
「のせ」
様相以上に、その女の子は子供っぽい話し方をした。さっきまでダンスをしていた子と同じ人間とは思えなかった。
「そう。のせさん、あなたリズム感がいいね」
「りずむかん?」
「うん。見ていて気分がよくなる。それって才能だから、大事にしたほうがいいよ」
やり取りをする間中、その子はずっと私の瞳を見ていた。それで、すこし前に学校で習ったひよこの刷り込みを思い出した。ものすごいスピードで彼女の頭の中に私という人間が吸い込まれていく。
そういう目を、あのころからあの子はしていたのだ。
「とうこちゃん?」
声をだすことで、その子が自分の外側の世界を、自分の内側へ引き込もうとしているのがわかった。名前を呼ばれたその時、私は大人たちが彼女をここに引っ張ってきた理由がわかったような気がした。
とても特徴的な声をしている。少し掠れていて、でも乾いてはいない。湿度のある印象的な声。
「とーこちゃん」
もう一度名前を呼ばれて、私はただうなずいた。
「とーこちゃん」
それが私と苺の出会いだ。
それから何度も、何度も、あの子は私の名前を呼んだ。
苺はいつまでも人の群れに慣れない動物でいた。団体行動に必要なものが何か、苺を見ていると逆によくわかる。私が普通に暮らしていたら気づかないようなほんの細かい決まり――通常は目に見えない――ものが、苺にはことごとく分からないのだ。
「ひろ花!」
空気が読めない、という言葉は比喩ではなくて、単なる描写なのだと、苺を見ているとよくわかった。
その場にある空気、たとえば人の声の緊張感だとか、立ち上がる人間の気配とか、あるいはもっと単純なこと。嬉しそうな顔だったり、悲しそうな顔だったり、そういうことを感じられないのか、あるいは感じているけれど認識ができないのか、苺はいつも一定の行動をする。
「どうしたの? とーこちゃん」
「ちゃんと話聞け!」
スクールから研修生のレッスンにあがったばかりのころは、獣のように周りと溶け込めずに休憩のときにはただじっとしていた。ときおり私の近くにやってきて、一言二言、それもなにか意味のわかないことをいって、また壁に背中をあててじっと座る。
そのやり取りがおもしろがられて、そのうちに苺がそこにいて、何かを言ったりちょっとした行動をするだけで、周りの空気が爆発して色が代わるようになった。
苺はずっと不思議そうな顔をしていたが、周りに優しくされるとばかみたいに嬉しそうな顔をしていた。
話を聞くと、学校では未だに人に溶け込めず、本人曰くじっと息をしないで過ごしているらしい。苺ほどひどくはなくとも、そういう子はわりに多い。
研修生も長くなると、ライブだけでなくいろんなメディアにでて、そこには当然給料が発生する。そうなると自然と学生との間に意識の差が生まれてしまう。
そうしてどんどん、この場所が生活の中心になる。
苺の場合、それがあまりにも顕著だった。心的な環境という意味でもそうだろうし、なにより苺にとってはここで踊り、歌うという行為が生活という言葉と同義なのだ。
だから歌と踊り以外の生活はひどく疎かだった。
「集中して!」
「はーい」
場を乱す存在が許せなくてたびたび正しているうちに、私はいつの間にか苺専属の教育係のようになっていた。苺がなにかすると笹原を呼んでこい、ということになる。苺の突拍子もない言動にいちいち突っ込んでいたらキリがないのに、やっぱりそれも私の仕事だから、まっとうした。
それに、そのころから急激に教育係としてではない部分で、事務所から評価されるようになった。どういうタイミングだったのかわからない。突然前列に駆り出されるようになって、マイクをもってパフォーマンスをすることが増えた。
「なんか怖いんだけど」
そういうと、同じ時期に同じように急に推されるようになった葉子は、ぽかんとした顔をした。
「なにが?」
「だってなんか、おかしくない? 私がこの位置で、この衣装で」
先輩が着ていたかわいくてかっこいいきらびやかな衣装は、私が着てみるとやっぱりちょうと妙な気がした。骨格がいけないのか、顔がいけないのか。
「普通に年功序列じゃん?」
たしかに私たちはそのころには歴が長い方に入っていた。けれど、この世界に年功序列なんてものが存在していないことくらい、葉子だってわかっているはずだ。
「あはは!」
なぜか葉子は笑った。
「なに」
「そうなりたくて頑張ってきたのに、そうなったら怖くなるって、ほんとツンデレだよね」
「ツンデレとは言わないでしょ」
「じゃあなんだろ、あまのじゃく?」
「それも違う」
けれど葉子の言っていることはもっともだ。そうなりたかったものに近づいているのだから、少しは喜べばいいのだ。でも私は自分が推されてみてはじめて、その怖さがわかった。
選ばれるということは、選ばれない人間を作るということだ。そうして、選ばなかった人間の目線はいつでも気軽で、そうして鋭い。
選ばれるまで、その無遠慮な視線に気づかなかった。
社会はいつでも、選ばれなかったほうが多くて強いのだ。そうして選ばれなかった方は、選ばれたのだからから多少の痛みは我慢するべきだと考えている。そんな不公平なことがあるだろうか。でも、実際に選ばれてみると黙っているしかなかった。
特別であるということは、普通ではいられないとうこと。
「名前もらえるようにがんばりましょう!」
気がつくと私はグループのセンターで踊るようになっていた。といっても公式に事務所から選ばれたグループではなくて、ファン発信の愛称が徐々に公式になりつつある、といったようなくくりだった。
そのころ活動していた9人はみんな実力者揃いで、にもかかわらず今まであまり日の目を見てこなかったような人たちばかりだった。私が憧れて助けられ頼ってきた先輩がほとんどで、みんなこれが最後のチャンスだと口にしていた。
その真ん中に立つということ。
前に誰も立っていない景色。たったそれだけのことで、すべての責任が自分にかかっているような気になる。たとえば歓声が小さかったら、話が盛り上がらなかったら、あるいは、このままデビュー出来なかったら――それは私のせいだ。
そんな風にグループのことで手一杯だったのに、苺は毎日毎日、面倒事を私にもってきた。
「ねー、とーこちゃんリボンなくなった!」
「さっきつけてたでしょ?」
「でもないんだもん」
「もんじゃない。ちゃんと探して」
「どうやって探せばいい?」
「最後に見たのどこ?」
その頃グループの最年少ポジションにいた苺は、先輩にも後輩にも甘やかされて、自由に楽しそうに活動していた。ダンスも歌もうまかったけれど、周りも同じようにうまかったので、そういった部分でも浮くということがなかった。
たぶん、苺にとってはあの頃が一番幸福な時代だっただろう。
苺がどれだけ真剣に考えていたかわからないが、デビューという明確な目標があり、それに対する責任を背負ってくれる人がいて、自分は自分でひとつの強大な戦力で。
思うに、苺は誰かの下でそういう戦士として暮らしていたほうが幸せだったのだ。大将として祭り上げられるべきではなかった。
「とーこちゃんが真ん中にいると無敵って感じだね!」
でも、あの頃の私は、人の気も知らないで呑気にそんなことをのたまう苺のことを、少なからず鬱陶しく思っていたし、どうしてこの子はこんなに普通のことを普通に出来ないのかと、苛立つこともあった。
でも、それと同じくらいの頻度と深度で、苺が私に向かって発する純度の高い好意に対して、安堵に近い気持ちを抱いていたことも確かなのだ。
「とーこちゃん!」
まるで犬のよう。
無条件に主人を愛する犬のように、苺は私を信じてくれていた。
それなのに私は。
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