第8話 心壁(しんへき)
巨大な全面ガラス張りの窓に手を添え、サキノは学園最上階の天空図書館から都市を俯瞰――ガラスに薄らと反射した己をぼうっと見つめながら静かに幼少期の記憶に浸っていた。
× × × × × × × × × × × × ×
畳の敷かれた一室。木製の椅子に座り裁縫を行う母。
『あら、サキノ。どうしたの?』
幼女のサキノはまるで隠している何かに気が付いて欲しい子供のように、部屋の仕切りの前で俯きながら佇む。
『なんでもない』
『何でもないことはないでしょう。そんなに目も腫らして』
『なんでもないっ』
サキノは語調を強めて否定する。
しかし感情の波が押し寄せて来たサキノは母にそっと抱き着き、静かに体を震わせてポロポロと涙を流し始めた。
『あいつら……またおかあさんのこと……』
亜人族の事を快く思わない悪習によって、同国に住む子供達から投げつけられる悪意に満ちた言葉の数々。
『どうしておかあさんがわるくいわれなければいけないの……! おかあさんがなにをしたっていうの……!』
屈辱、悲嘆、憤怒。そして人族への嫌悪。
下界の常識と言わんばかりのただの風習に何も言い返せないサキノは、その場から逃げるように母の元へと帰ってきたのだった。
『私のために怒ってくれてありがとう、サキノ』
母の手がサキノの頭を優しく撫でる。
母は気付いていた。血縁関係にあるサキノ本人にも浴びせられた忌憚の言葉を隠していることを。自分には何もされていないよと、幼いながらに母に心配をかけまいと強い心で。
『でも、人族を恨んではいけないわ。人族の皆は私の事を嫌ってはいるけれど、私は皆のことが大好きよ。嫌いながら生きていくより、全てを愛して生きる方が素敵でしょう?』
母は強かった。
亜人族の定められた荒波にも呑まれず、決して人族を嫌うことをしなかった。
何より、サキノへ弱い心を見せなかった。
『そんなの……きれいごと、だよ……』
幼少期のサキノには母が強い理由も、人族達を愛する心構えも理解は出来なかったが。
『サキノ、貴女は強くて優しい心を持っている子。貴女ならこの人族と亜人族の不和を正すことが出来るかもしれないわね。だから今はわからなくとも【何かを犠牲にした正解は、
穏和な声で母は告げた。サキノが人の心を理解出来るような歳になれば、きっと自分の想いも、世界の想いも理解出来る筈だと信じて。
『私達は必ず分かり合える。手を取り合うことが出来る。私は、そう信じているわ。だから――』
× × × × × × × × × × × × ×
「何かを犠牲にした正解は、
多種族共生のために何も犠牲にしてはいけない。母の教えは今のサキノの証明であり、サキノの証明は母の全てだから。
「サキノ、もう来てたの」
「ココ」
「あんまりサキノに負担はかけさせたくないんだけど、一年に一度の古書入れ替えばかりは全然人手が足りなくて」
間隔の短い足音と抑揚の少ない声の正体は、片手に大きな本を抱えた図書館の長ココ・カウリィール。ココは近寄りながら今回サキノへ正式に依頼を申請した理由を語った。
「ううん、大丈夫だよ。私は、大丈夫」
(元気がない……? ローハートの異世界関与が効いてるの?)
平静を装ってはいるが、どこか元気のないサキノに半眼少女は訝しげに目を細める。
「ねえ、サキノ。少し話は逸れるけどローハートの――」
「私の意志は……変わらないよ」
(私の言葉を遮ってまで、ね。そんな悲しそうな顔して何が変わらないよ)
サキノの中で変化が起こっているのは間違いない。下手に藪をつつくのも場違いだとは思いつつも、サキノを放置しておけないココは援護射撃を放つ。
「ローハートを持ち上げる気は更々無いけど、少しは信頼してもいいんじゃない?」
「信頼……? してるよ。うん……ルカの事は信頼してる」
信頼していないわけがなかった。ラヴィと並ぶほどに近しい距離で毎日を過ごし、笑い、時間を共にしてきたのだ。
だからこそだ。
(そうじゃないの、ココ。ルカを信頼してるからこそ、本当の私の種族を知られて嫌われたくないのよ……人族社会の下界にとって亜人族とはそういう存在だから……)
サキノが懸念しているのはルカと共闘することによって己の種族秘事が露見されることだ。
種族に対して敏感な世界。秘事を知られてしまった暁には、友達でもいられなくなる危険性も孕んでいることをサキノは知っている。
「はぁ。こういう言葉があるわ。『失うを恐るるは信頼に
「どういう、意味……?」
「意味は自分で考えなさい。古書入れ替え始めるよ」
話を強引に切り上げて踵を返すココにサキノは続こうとした――が、一歩踏み出したココの脚が制止する。
「間が悪い……サキノ、
「っ!? ……わかった、すぐ行く。
ココは辺りに人影がないことを確認し、手に持った書物をパラパラと開いた。本は独りでにページを断続的に捲り、ココの足元に亜麻色の幾何学模様が展開され始める。
冷ややかな空気の流れが周囲一帯を支配し、微風がココを包み込む。亜麻色の発光に包まれるココの姿はまるで降臨したての神様のようだった。
「……やっぱり。門番の私は、私が知る人に限り、下界に『いる』『いない』の存在程度ならば感覚的にわかるけど、下界にローハートの反応がない」
「っ!? どういうこと……? ココが
「実を言うと前回も、その前回もローハートは私が
「毎回強制召喚!? 基本的には
「私に聞かれてもわかるわけない」
「うっ……そ、そうだよね。……でもそれならルカが毎回私よりも早く
しかし理解と同時にサキノが抱く感情は、やはり怒りに近いものだった。
(関与して欲しくないのにどうしてルカが……! この感情が理不尽だってわかってはいるけど……! でも、っでも……!)
「サキノ冷静になりなさい」
「あ、ごめん……」
「アンタの使命にどうこう言うつもりはないわ。でもさっきの言葉、忘れないでね」
完成した術式を解放すると、亜麻色の幾何学模様は変色を始め、多彩な光柱を突き上げる。ココが中心から退き頷くと、サキノは礼を告げて颯爽と極彩色の
「――ローハート、後は頼んだよ」
サキノの姿が一瞬で消え、
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「ルカと顔を合わせるのが億劫とかじゃないけど、何だか嫌な予感が……」
嵐の前の生温かさを虫の知らせ、ないし風の報せで感じ取っていた。
「予感はあくまで予感……っ、大丈夫、私なら大丈夫。ふぅ……」
嫌な感覚を追い出そうと駆けながら小さく息を吐き、サキノは己の周囲に白光を漂わせる。その光はサキノの体を取り巻くように円環を作り出し、
加護。見た者がそう形容する神秘のような光の集合体。
「私の『風』は極細の針となって幻獣の居場所を突き止める――行ってっ!」
右腕を薙ぐとサキノに取り巻いていた円環が四方へ飛散し、電波のように都市の隅々にまで行き届いた。
「見つけた」
体を突き抜ける受信の感覚に、サキノは勢いよく加速度を増す。
「生体反応はショッピングモールに二つ……やっぱりココが言ったようにルカも飛ばされてる……! 大丈夫だよルカ。ルカに負担はかけさせないからっ!」
景色が時間と共に背後へと通り過ぎていく。
躍り出た一本道、先に見えるのはショッピングモールの開閉門。その奥で先程までにはなかった破壊音と衝撃が発生した。
「戦闘が始まった……! 間に合うっ!」
サキノは前傾姿勢を取るとぐんぐん速度を上げ、腰に据えた刀――純白の日本刀の柄へと手を添える。
開閉門を通過したサキノの目に、三つの頭を持つ巨狼の牙を漆黒の長剣で食い止めるルカの姿が映る。サキノは速度を一切緩めずに、疾風の如く勢いを巨狼へと向けた。
「ルカっっ!」
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