キミの為のゆびふで
つくも せんぺい
灯、がんばれ
いつからだろう?
二人で話す放課後の時間が、とても寂しく感じられるようになったのは。
今日は僕が日直だから、教室の窓の戸締りと黒板消し、最後に日誌を持っていくために教室に残っていた。
「黒板は私が消すよ。手ぶくろ、汚れるでしょう?」
「いつもありがとう」
「こちらこそ」
僕が日直の時、決まって最後まで教室に残るのは
少し前からあまり二人で会話をすることがなくなった、仲が良かったはずの女の子。
理由は分かっている。
灯に好きな人ができたから。
多分彼女が、僕の気持ちに気づいていたから。
それでもこうやって黒板を消してくれる優しさが嬉しい。
小さなため息が聞こえて、かき消すように遅れて黒板消しクリーナーのモーター音が響く。
ショートカットの襟足から覗く、日焼けした首筋。普段は活発なはずの彼女の後ろ姿は、背中が丸まっていた。
右手に視線を落とす。
橙色の薄手の手ぶくろ。酷い火傷の痕を隠す為にはめていると、学校にもクラスメイトにも伝えている。
灯が黒板消しをしてくれるきっかけになった、会話のきっかけになった手ぶくろだ。
もうとっくに終わっているはずのクリーナーの音が、教室を満たしている。
何を話そうか探しているのか、何かを話す決心を固めているのか。どちらにせよ、僕を気遣ってくれる背中。
気づかれないように、手ぶくろを外す。
火傷の痕なんかない普通の手。ただ、人差し指の第二関節から先が、さらりと数えきれないほどの繊維にばらけ、キラキラと窓から差し込む日光に反射した。
そんなばらけた指に意識を集中すると、まるで墨を含んだ筆のように人差し指の繊維がまとまる。今日の色は夕陽のようなオレンジだ。
温かく、彼女の背を押すための色。
──がんばれ、あかり。
そうひと言だけ、宙空に書く。オレンジ色のがんばれが、そこに浮かび上がった。
手ぶくろをはめなおすけど、濡れたり、色が変わったりはしない。人差し指も、感触は他の人と何も変わりないものに戻る。
浮いたままの文字にそっと手を添え、灯に近づく。僕のイメージ通りに文字はついてきた。
彼女のすぐ後ろに立つけど、背中を丸く見せたまま気づかない。話さなくなった理由を確かめたわけじゃない。けれど、なんだか申し訳ない気持ちになった。
笑っていてほしい。そう願い、僕は文字ごと背中を叩いた。パンっと、モーター音を小気味良い音が裂く。書いた文字は灯を濡らしたりはせず、彼女に溶けていった。
「なに悩んでるの?」
「びっくりした……」
「ごめんごめん。ぼーってしてたからさ」
努めて明るくなる見えるように、僕は言葉を口する。彼女はクリーナーのスイッチを切って、こちらを振り返った。
「なんでも、ないよ?」
そう口にするとり
僕とキミの想いの先は違うけど、僕が望むのは、今みたいな顔をさせることじゃない。
だから、がんばれ。
キミも、僕も。
「なんでもないわけない。それくらい分かるよ。友だちだろ?」
僕の言葉は、友だち同士のあいさつくらいの軽さで、当たり前に聞こえただろうか? 灯に届いただろうか?
「友だち……。そうだね、バレてるよね」
少し気まずそうに笑う彼女は、
「ありがと。あのね──」
仲が良い友だちとして、僕に彼女の抱く想いの先を話してくれた。それは僕もよく知る、一人の友人の名前。伝えたい想いががあるんだと、彼女は僕に話せてホッとしたように、でもこれからが不安で仕方がないと、瞳を潤ませた。
よく知る、大切な二人の友だち。僕にはもう、結末は予想できていた。
ううん、予想じゃ足りない。確信だ。
ズキズキと鳴る胸の痛みを隠しながら、僕は自分に言い聞かせる。背中を押すと、決めたじゃないかと。
「アイツも灯も、僕の大切な友だちだ。きっと大丈夫、がんばれ」
「……うん、話せて良かった」
書いた文字と同じ言葉を、僕は灯に届けた。
あとは日誌を届けるだけだから行っておいでと、彼女を促す。彼女は強く頷き、もう一度ありがとうと笑顔を見せて、教室を出ていった。
友だちとして、笑い合えたことが嬉しく、静かになった教室がちくりと沁みる。
教室を出るときの、ショートカットが良く似合う灯の、力強い笑顔を思い出す。
きっと灯は、僕の力なんか無くても、自分で顔を上げて僕に話してくれただろう。彼女自身の気持ちを全うしただろう。
だからいま僕がしたことは、僕の気持ちの整理のためだ。指の筆が空中に字をかけようが、その文字を誰かに溶かすことができようが、何も特別なことなんてないと僕は知っている。
だから僕は僕のために、みんなにこの力を使っているんだ。
そう、改めて自分を戒める。
灯が立っていたクリーナーの表面に残ったチョークの粉を、手ぶくろの人差し指でなぞると、白と赤が混ざった桃色の粉が生地を染めた。
僕がさっきまで抱いていた気持ちは、こんな可愛いものじゃなかったと、強く握拳を握りしめた後、はたいて落とす。
黒板側の窓を閉め、日誌を届けるために、僕は灯が向かった方向とは違うルートで職員室に向けて歩き出した。
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