祓えの救世主

松下真奈

第一章

第1話 十二年前、失った日――世界α・アラサキ国

 腕を強く引っ張られると、こんなにも痛いだなんて。カイトは知らなかった。


いつも誰かと手を繋ぐ時には、触れ合う肌のぬくもりと、そこから伝え合う親愛の念しか感じ取ることはなかったのだ。


――痛い! 痛い!


 しかしこの叫びは、心の中だけに留めておいた。いくら六歳の子供であっても、声に出してまで訴えるべき場面ではないと理解していた。


 知らなかったのは、腕の痛みだけではない。

 何もかも初めて目撃する光景であり、初めて耳にする音だった。


 家の壁はもはや形を残しておらず、火の粉の先には黒い夜空が広がっていた。屋根も落ちていたのだ。 


 カイトが愛し、親しんできたあらゆるものが、炎にまかれて灰になろうとしていた。


 そこかしらで飛び交うのは、怒号と悲鳴。不気味な笑い声。


 人の笑う声は大好きだ。しかし今耳に入ってくる笑い声は、彼の愛する部類のものではないことが分かる。それは誰かの不幸を歓迎し、それが叶ったことを讃える悍しく哀しい笑い声――――不気味な音だった。


 耳を塞ぎたくとも、片手は大きな手で強く握られたままである。


「兄さん、レイ」

「しっ!」


 思わず名を口にしたカイトの口に、手があてがわれる。その手は彼の片手を痛いほど握る手よりも小さく、そして震えていた。五つ年長の兄、アロンのものだった。


 見上げた兄の顔は呆然としつつ、しっかり前を見据えようと耐えているようだった。形良い唇は半分開かれ、口端が小さく震えている。いつもなら優しくゆったりと開かれた目の周りは、汗か涙かは分からないが、じっとりと湿っているのが分かる。


「……」


 兄の隣で身をかがめている男が、カイトの手を握り、痛いほど引っ張りながらここまで兄弟を連れてきた人物だった。今しがたレイと呼ばれ、声を出したことを小さく咎めた彼は、二十代半ばの長身の男だ。アロンのように血は繋がっていなかったが、カイトにとっては家族と変わらない存在である。普段から表情に乏しい人物だったが、こんなに険しい顔は見たことがなかった。


「!」


 レイが再び強く腕を引いた。後ろから抱きすくめられたが、カイトが安堵を感じることはなかった。長躯は強張っている。彼も酷く緊張しているのだ。


「息を殺せ。すぐそこにいる」


 耳元で短く告げられる。崩れ残った壁と将棋倒しになった本棚が作る影に、レイとアロン、カイトの三人で身体を縮めながら息を潜めた。


 レイの言葉通り、壁のすぐ向こう側で、何人分もの足音がした。


 カツカツと硬いその音は、軍靴のものだろう。あんなにも硬い靴底の履物は、この辺りの者は馴染みがない。軍靴など必要がないのだから。

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