第五章 嘘

 相変わらずの茹だるような暑さと、じりじりと肌を照りつける太陽は人一倍暑がりの俺にとっては大敵だった。ひどく癖毛がうねる湿気の多い雨の日よりもだ。ただ、今日という日は清々しいほどの晴天だったので良かったのかもしれない。

「粟津くん、こっち」

 高級車が目の前の路肩に止まり、女性らしき声が後部座席の奥の方から聞こえた。こんな高級車に乗った女性が俺に声を掛けてくるんだ。紛れもなく城崎さんしかいないだろう。

「お待たせ致しました、どうぞこちらへ」

 身なりの整った初老の運転手が降りてくると、後部座席のドアを開けて俺を車内へ促した。

「……どうも」

 俺はぎこちなく車内に乗り込んだ。奥にはやっぱり城崎さんが座っていた。

「今日は宜しくね」

 俺は無意識に息を呑んだ。彼女が容姿端麗である事は既に知っていたが、今日は一段と身なりを飾り一際美しさが引き立っていた。真っ黒のロングドレスに、セットしているのであろう緩く巻かれたショートヘアがとてもよく似合う。それよりも目が行くのはドレスのせいで余計に主張された谷間だった。胸元に飾られたパールのネックレスがよく肌に馴染んでいて、不思議と下品さは無く感じられたのは気品と……何とも言えない芸術だった。それも男心を擽る見惚れるような造形美だ。

「あぁ、うん……よろしく」

「……顔を見て話してくれないかしら」

「……あ? あぁ、いや……」

 城崎さんは俺が胸元に熱い視線を送っていたにも関わらず、照れもしないで素っ気無い態度を取っていた。それを見る限りどうやら彼女にとって、よくある事なのだろうと俺も理解した。それよりも俺は自分が無意識に彼女の顔では無く胸を見ながら会話していた事に恥ずかしくなり咄嗟に目を逸らした。

「良かった。買った服よく似合ってて」

「一回見たやろ」

「もう忘れてたわ」

 もしかすると城崎さんは俺よりも記憶力が乏しいのかもしれない。そう考えると、毎度毎度大事な事を伝え忘れられるのにも合点がいく。

「冗談よ、やっぱり何度見ても格好良い」

「……」

 もう俺はどれが本当で冗談か分からなくなっていた。完全に彼女のペースだ。

「……ホンマに大丈夫やろか、今日」

「私の言う通りに動いてくれたら大丈夫だから」

 しばらくすると車は大きくて何やら豪華なホテルの前に止まった。最近俺は高級ホテルと縁がある気がする。

「ここよ」

 城崎さんがそう告げると共に俺達は車を降りた。今更だが緊張して胸が痛くなってきた。そして次に血の気が引いて何だか足元がふらついた。地に足がついているか分からないくらいに。

「ねぇ、ちょっと。大丈夫?」

「……平気やで」

 正直言うと心情的には平気では無かったが、ここまで来ては引き返せない。そして付け加えるなら俺は元々貧血になりやすい体質だ。たった今初めて体験する身体の不調では無いので、その点に関しては平気だった。つまり半分嘘で、半分本当だ。

 城崎さんの後に続いてホテルのロビーに入った。

「私は準備があるから先に行くけど、粟津くんには来て欲しい時に電話するから。それまでここで待っててくれる? あ、来る時はそこの奥のエレベーターで七階ね」

「分かった」

 じゃあ、と城崎さんは手を振ると奥のエレベーターに乗った。扉が閉まるまで俺は視線だけで彼女を見送ると、近くにあった高価そうなソファーに腰掛けた。

「ふぅ……」

 やっと座れた。目眩がしていたので一秒でも早く座りたかった。彼女が先に行ってくれて良かったと思いながら、俺は自分の体調と心臓の鼓動を落ち着かせる為に暫く目を閉じた。やっぱりこのソファーは高級なものなのだろう。家にあるソファーとは座り心地がまるで違った。ふかふかと柔らかい感触だが低反発とまではいかず、ある程度の硬さも持ち合わせている。一方で俺の部屋にある安物のソファーは使い込んでいてくたびれて、弾力もまるでないただの敷物だった。あの狭い部屋にこんなソファーがひとつあれば、それだけで生活水準が上がるのでは無いだろうか。だってこの高価なソファーは俺の全身を波打つ動機すらも、ちょうどいい弾力で撃ち返してくれるのだから。

 そんなどうでもいいソファーの事を考えているうちに俺の体調は自然と安らいでいった。そしてさらに意識は深いところまで移行しようとした瞬間だった。

「あの、すみません」

 はっと目を覚ました。いつの間にか眠っていたのだろうか。それとも眠りかけていたのか分からないが誰かの声で俺は目を覚ました。

「粟津……櫂人さん。先日はどうも」

 俺の目の前に立っているこの男にはどうも見覚えがある。俺は今の今まで全く動かしていなかった脳をフル回転させて思い出そうと必死に記憶を巡った。

「……あ、バーの」

「ご無沙汰しております、速水です」

 城崎さんと先週行ったバーのオーナーだった。

「覚えてくれてて嬉しいです!」

 バーで会った時は仕事中だという事もあり、当たり前だがピシッとした身のこなしをしていたが、今日は私服だったので何だかラフな印象だった。それよりも目に入ったのは、整った顔に刺さっているピアスだ。眉毛に口に、よく見ると耳にはたくさんのピアスが並んでいた。バーでは暗かった為か、俺が顔をよく見ようとしていなかったからか、身体に空いた多数の穴に全く気がつかなかった。

「……」

 挨拶程度の仲なので俺にはこれ以上どう話せばいいか分からない。しかしもう一つ彼について思い出した。兄を知る数少ない唯一の人間だ。

「城崎さんはご一緒では無いんですか?」

 そう言いながら速水さんは辺りをキョロキョロと見渡す。すらっと細く高身長の体型は、やっぱりモデルみたいだと感じた。

「……あとで合流する予定です」

 そういえばこの人は何でここに居るのだろう。城崎家が贔屓にしているバーのオーナーだから彼もこのパーティーに呼ばれたのだろうか。しかしそれにしては服装が些かカジュアルすぎるように見える。

「そうですか。良かった」

「……何がですか?」

「すみません、時間が無いので単刀直入に言いますね」

「え?」

「粟津さんは城崎さんに騙されています」

「……はい?」

 俺は突然の予測していなかった言葉に、フル回転させていた脳内が真っ白になって思考が停止した。続いて言葉の意味をようやく理解できた時には、まるで頭をバットで殴られた様な衝撃を受けていた。

「城崎さんはお兄さんの……類さんの婚約者なんかじゃありません。突然こんな事を言われては混乱すると思いますが……」

「えっと……あの、な、何で」

 うまく言葉が纏まらない。俺が他人から言われて嫌な「何故?」「どうして?」の言葉を俺自身が数日の間にこんなに使う事になるとは思いもよらなかった。

「詳しい説明は後で。俺は類さんとプライベートでもよく会っていたんです。城崎さんは知らないかもしれませんが……そこで類さん本人から聞いています。城崎さんが婚約者では無い事も、周りに自分と婚約していると言いふらされて困っている事も」

「……」

 これはどういう状況だろうか。彼の言っている事を信じるべきなのだろうか。しかしその話が本当だとしても、俺は速水さんとも大して面識が無い。

「信じられないのも無理はないです。面識の無い俺に言われても困るのも分かります。でもよく考えてみてください、おかしいと思いませんか? いくら顔が似てるからって、わざわざ別人の粟津さんを実の父親に紹介するでしょうか?」

 確かにそうだ。その点に関しては俺もずっと引っかかっていた。

「城崎さんは無理矢理にでも類さんを婚約者にしたいんです。だからお金を渡して櫂人さんをこのパーティーに誘い出した」

 驚いた。城崎さんと俺の経緯まで知っているとは、速水さんは一体どういった立ち位置なのだろうか。

「……何で、その事を」

「今日のパーティーの事も櫂人さんが来る事も、先週うちにお二人でいらした時に城崎さんから聞きました。その時にお父様に類さんのフリをして婚約者として出席するという事も……伺いました」

 城崎さんはそんな事まで話していたのか。思っていたよりも速水さんとはどうやら親密な関係らしい。

 そして城崎さんは、速水さんと兄が仲が良いとは知らずに口を滑らせたという事だろうか。あくまで兄と城崎さんの婚約が嘘であればの話だが。

「城崎グループ主催のパーティーなんて、行われる日時が分かれば場所くらいすぐに調べられる。俺は類さんが前々から困っていた事を思い出して、ここで朝からお二人が来るのを待ってました。城崎さんの目を盗んで粟津さんを連れ出す為に」

「……まさか」

「お願いです、信じてください。彼女が戻ってくる前に早くここを出ましょう。お父様に紹介されてしまっては、粟津さんも後々困る事になりかねません。何といっても城崎グループの一人娘なんですから」

 速水さんの言う通り、もし万が一俺が兄本人じゃ無いとバレてしまえばその後どうなるかなんて考えたくも無かった。というか、そんな事は分かっていたはずなのに、他人に改めてそう言われると真実味がより一層増してきた。

「とりあえず城崎さんには体調が悪くなったので帰る、とメッセージか何か送ってください。怪しまれずにここから出る事が先です」

 俺は考えるより先に手が動いていた。頭が真っ白になったまま、言われるがままにメッセージを送った。


 ーー体調が優れないから帰る、悪い


 用件だけの冷たい文章になってしまったが、他にどう言えば良かったのかも分からない。肩越しに速水さんから見せてと言われたので、スマホの画面を見せるとホッと胸を撫で下ろしているようだった。

「良かった、じゃあすぐここを出ましょう。こちらです」

 俺は早歩きで先にホテルの出口に向かう速水さんの背中を追いかける。

「……」

 でもこれでいいのだろうか? 少なくとも俺はここへ自分の意思で来た。それに今着ている高価な服だって、彼女に買ってもらったものだ。

「どうしました? ……平気ですか? 顔色が優れないみたいですが」

「……大丈夫です。あの、先程少し眩暈がしていて……でも、えっと、もう平気ですから」

 そうだ。これでいい。それに俺はどうやら本当に体調が悪い。嘘をついたわけでも無い。一瞬脳裏に城崎さんの顔がよぎったが、もしも本当に婚約者だったとしても別人を紹介するなんて良くない事なんだから、どちらにせよこれで良かったんだ。二百万円は諦めよう、家にある二十万円も返そう。そう自分に言い聞かせて俺はホテルを後にした。

「さて、詳しくお話ししましょう。早速ですが俺の家に来ませんか?」

「えっ」

「突然で無礼なのは承知なのですが……すみません。その辺の適当な店に入ろうにも、いつ誰に聞かれているか分からないので……一応大手グループの人間の話です。俺にも仕事上付き合いがあるので、念には念をということで。どうかお分かり頂けないでしょうか?」

 速水さんは申し訳無さそうに、それでいて丁寧に柔らかい声のトーンで俺に尋ねた。彼には物腰の良い雰囲気があって、どこか進藤さんと似ている気がした。それもあって俺は他人と打ち解けるのに相当な時間を要するが、何となく速水さんに親近感を覚えた。

「はぁ……まぁ、そういう事なら」

 速水さんが話しやすいとかそういった事はさて置き、とにかく城崎さんの話について早く聞きたい一心で俺は彼の家で話す事を承諾した。

「歩いて行ける距離ですが、粟津さん体調が悪そうなので俺の車乗って下さい。念の為車で来ていたので」

 彼が目と鼻の先にあるパーキングと書かれた看板を指差す。

「あそこに止めているので」

「……そうですか、えと、じゃあお言葉に甘えて」

「いえいえ、それより改めて自己紹介させてください。速水悠です。バーを経営していて名刺は……以前お渡ししましたよね?」

 歩きながら彼は丁寧に話し始めた

「……はい、いただいてます」

「そうかしこまらないで下さい。あと、俺のことは悠って呼んで下さい」

「……? えと……」

 突然ほとんど話したことのない相手を下の名前で呼べと言われても、当然ながら俺にはそんなコミュニケーションスキルは無い。

「遠慮なさらないで下さい。類さんにはいつもお世話になってますから」

 パーキングに着くと速水さんは少し暗い赤色に輝く車のドアを開け、どうぞと俺を車内へ促した。

「あ、ありがとうございます……」

 類さんにお世話になっているからと言われても、俺はその人の顔すら知らないんだぞ。と思いながら助手席へ乗り込んだ。精算を終わらせた速水さんは足早に車へ戻り運転席に座るとエンジンをかけながら話を続けた。

「何なら敬語も使わなくていいですよ。類さんが戻ってきたら、粟津さんとも会う機会が増えるだろうし」

「いや……どうっすかね……速水さんも、あの、俺にお気遣い頂かなくて大丈夫です」

「そう? じゃあお互い気兼ねなく話そうよ」

 俺とは違って速水さんはすぐに敬語をやめ車のハンドルを回し、パーキングから出た。手慣れたスマートな運転の身のこなしは、ただでさえモデルのような容貌の速水さんを、より一層格好良く引き立たせていた。

「あの」

「ん?」

「えっと……」

 速水さんの家に行くという事で俺は車に乗ったが、慣れ親しんだ相手でも無い人の家に上がるのはやはり幾分か抵抗が出てきた。それをどう理由をつけて断ろうか頭の中で捻り出していたのだ。

「あの……やっぱり家にお邪魔するのも……申し訳ないですし、どこか車を止めて話すなら、人に聞かれなくて済むんじゃ……」

 俺なりにかなり良い言い訳が出来たのではと自分を称賛したくなったが、それもすぐに断ち切られた。

「こちらの勝手で連れ回してるのに、何のお構いも出来ないんじゃ気が済まないから。でもありがとう、気にしなくていいよ。俺一人暮らしだし」

 ありがとうと感謝されてしまっては、断り辛かったので俺は仕方なく速水さんの家にお邪魔することにした。

 到着した速水さんの家は綺麗なタワーマンションだった。オートロックを開錠して中に入ると、奥にはいくつかのエレベーターがあった。俺の知っているマンションは一つの物件につき一つのエレベーターなので、もしかしてここはマンションと言いながら実は何処かの会社のビルでは無いだろうかと思い巡らせていた。その内一つのエレベーターに乗ると速水さんは三十と表示されたボタンを押した。この一階から三十階までの間の時間、俺と速水さんは無言だったが俺が適当な話題を振れるわけもなく、何か話しかけてくれないかと思うばかりだった。エレベーターの機械音だけがこの狭い空間に響いていて、この時間が一生続くんじゃ無いかと錯覚するほど、それはとても長く息苦しさを感じさせられる時間だった。

「着いたよ、降りよう」

 やっと話してくれた、それと同時にエレベーターのドアが開いて、薄かった空気に酸素が入ってきたかのように呼吸が楽になった。

 廊下を進んで一番奥に佇むドアの前で速水さんは立ち止まり、鍵を開けてドアを開けると俺を室内に促した。角部屋なんだなぁと半ばどうでも良いことを考えながら、俺はこうして案内されるがままに速水さんの家にお邪魔した。

 どうでも良いことを考えてると述べたが、やっぱり緊張して落ち着かない自分がいる事も分かっていたので、手が汗ばんでいたり靴が中々脱げなかったりした事にも然程俺は動揺しなかった。


 速水さんの家は一人暮らしにしては持て余すんじゃ無いかと思うほど広かった。そして部屋は隅々まで丁寧に掃除されており、俺のような突然の来客にも対応出来る状態だった。そしてリビングに案内されると少し待ってて、と言い残し速水さんはキッチンに向かったので俺はしばらくその場に取り残された。

「お待たせ、紅茶は飲めるかな? 良かったら……ってずっと立ってたの⁉︎ ごめん気づかなくて。そこのソファーに掛けて」

 速水さんは手に持っていたカップを俺の目の前のテーブルに置いた。なるほど、こういう場合は勝手に椅子に腰掛けて良いのか……いや、良いのだろうか? 速水さんの場合は良いという事だろうか。

「いえ、俺もすみません」

 ソファーに恐る恐る腰掛けた。これもまた先程ホテルのロビーにあったソファーと同じく高そうなソファーだ。けれど何だろう、少し違った感じがする。ソファーの感触を確かめているのを見て速水さんが紅茶を俺の前に置きながら口を開く

「そのソファー気になる? 限定品でもう売って無いんだよ」

 どうやら俺は緊張のあまりか無意識に人様の家のソファーを品定めしていたらしい。

「あ……そうなんですね。その……変わったソファーだなと思って……」

 俺はここでも気の利いた返しができない事に自分自身へ落胆した。

「ははは! あんまり見ない柄だよね……紅茶で良かったかな? 貰い物だけど良かったら飲んでね」

「はい……いただきます」

 恐らく手をつけないのも悪いので、出されたカップに手を伸ばし少しずつ飲んだ。何だか深い味わいがある懐かしい風味の紅茶だった。

「それで、話を戻すけど……元々城崎さんはご家族でうちの店を贔屓にしてくれていて、俺がオーナーで年も割と近いから城崎さんとは仲良くなったんだ」

「……え? 速水さんって何歳……」

「俺は今年二十八だよ」

「えっ」

 驚いたのは思ったより若かったから。確かに二十代後半に見える……と思ってはいたが、まさかその若さでバーのオーナーとして営んでいる事に衝撃を受けた。自分より三つしか年を重ねていない速水さんはまるで違う世界の人間に見える。一方で自分は……と情けない思いをしている俺をよそに速水さんは話を続ける。

「類さんとは城崎さんが店へ一緒に連れてくるようになって知り合った。類さんが俺を気に入ってくれて、二人でよく飲みに行ったりするようになったんだ。城崎さんはどうやら知らなかったみたいだけど……」

「……はぁ」

「類さんは自分の交友関係をあまり口にする人じゃないからね……っと、それは置いといて……ある時、類さんから城崎さんの愚痴を聞くようになったんだ」

「愚痴?」

「うん、類さんは女性関係は……その、あまり真面目な方では無かったんだけど」

 俺に気を遣って速水さんは遠回しな言い方をしてくれているが、残念ながらその手の話は既に城崎さんから聞いていたので無駄になってしまった。

「えと、その点に関しては……城崎さんから聞いています」

 何だか言いにくいのでカップを手に取り紅茶をよそよそしく飲んだ。

「へぇ……彼女も知ってたんだ……」

 少し含みを持たせた言い方で、速水さんは伏目がちに顎を触って考える素振りをした。

「あ、ごめんね。そう……だから城崎さんのことも類さんは真面目な関係で付き合って無かった。だけど城崎さんは本気だったから、ある時から自分は婚約者だって周りに言いふらすようになったんだよ」

「……それって」

「うん、まぁ嘘だよ。類さんは結婚の約束なんてしていないし困ってたんだ。でも相手が悪かった。あの大手の城崎グループの娘だからね、下手に動くと後々困る事になるって俺も類さんに警告してたんだ。すると離れていこうとする類さんに気づいたのか、両親に紹介するって城崎さんが聞かなくて……遂には類さんを脅すようになったよ」

「脅す?」

「例えば類さんの両親の会社を潰すとかね。彼女にとって……いや、彼女の実家にとってはそれほど難しい事じゃないから」

 俺にとっては信じがたい事実だった。それこそ最初は疑っていたものの、やっぱり今まで城崎さんを信じていたからだ。ホテルから出たのは俺がその場に耐え切れず逃げる口実を見つけたからだと、情けない事に俺はこの瞬間が訪れるまで気が付かなかった。

 たった数日の付き合いなのに完全に信じ切るなど、俺は愚かだったのだろうか。しかし信じていたからこそ、今もまだ信じがたいからこそ、彼女の名誉を晴らす言い訳は何か無いかと自然と頭が回転していた。

「城崎さんのこと……信じてたんだよね? ショックだろうけど、粟津くんを彼女の父親に会わせるわけにはいかなかったから……ごめんね。それを見過ごしてたら、俺は類さんにも合わせる顔が無いよ」

 速水さんの言葉はほとんど耳に入って来なかった。それどころか俺は頭を更に回転させ続けていた。

「紅茶、冷めちゃうから。飲んで落ち着いて」

 とにかく間を持たせようと俺はもう一度カップを手に取り一気に飲み干した。既にほとんど飲んでいたので飲み干すと言っても大した量では無い……待てよ、そうだ。一つだけ引っかかっていた。

「……あの、でも城崎さん……兄の苗字も知らないって言ってました。家族の事とか個人情報も分からないんじゃ……」

 その瞬間、速水さんとその後ろに広がる背景がグニャリと歪んだ。視界が揺らぐ。手の力が抜けてカップを落とした。割れてしまったかもしれない。しかし俺はそれどころでは無かった。

「うーん、多分それも嘘じゃないかな。彼女よく嘘をつくから」

 そう答える速水さんの声がとても遠くで聞こえたような気がした。

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