顎と鉄花

霜月コトハ

第1話 過ぎ去る季節

 


 風が吹く。

 こぢんまりとした煉瓦の家の屋根を、麗らかな春の日差しが照らし始め、そうして花々が姿を現す。


 永遠に巡る生命のサイクルの中で、独り、花を見つめる者がいる。

 ほぅ、と吐いた息に流され、心地よさげに舞い散る花の欠片を無表情に眺める。

 それを数回繰り返したあと、彼女は少しはにかんで、野原を後にする。

 かつり、かつり、と。彼女の使う松葉杖の刻む音だけが、静寂の中に優しく響いた。


「ケイさん、おかえり」

 鈍い音と共に開いた扉の向こうで、微笑む少年がいる。

 トントンと小気味良い音を立てて、まな板の上で野菜が刻まれていく。

 本来ならば「当たり前」とも言えるような、平凡な日常。それが、彼女には、たまらなく嬉しくて。

「ただいま」と。彼女は穏やかに、しかし確かに微笑みながら、その言葉を口にした。


 台所に歩いて行くと、青年が野菜を刻む横で鍋がぐつぐつと煮え立ち、さらにその横では金属製の薄鍋フライパンが、じゅうじゅうと心地よい焼き音を立てていた。

「朝からこんなに……、豪勢だなぁ」

「と言っても、そこまで凝ってるわけでもないですよ。サラダは野菜を切るだけだし、茹で卵はヤーキ鳥の卵を茹でるだけ。あとは細肉詰め(ソーセージのこと)を焼くだけですから」

「フフッ、十分な満足メニューじゃないか。さすがはイオだ」

「……ありがとうございます」

 ケイの低くもセクシーなハスキーボイスとは対照的に、イオと云う名の青年の声は高く、そして細い。一応彼も二十代ではあるが、その容姿は少年のようにあどけなく、そして可愛らしかった。

 食べ慣れたはずの自らの料理を褒められて、そのまま照れて視線をふいと逸らしてしまうほどには、精神年齢も幼いらしかった。

「…はい、この話はもう終わりです!食事の準備をしましょう!」

 照れて火照った頬が彼女に見えぬよう、イオは顔を百八十度逸らし、盛り付けに取り掛かる。

 ケイはニマニマと笑いながら、いそいそと支度を始めたイオの姿を眺めていた。


 ケイには、右足と左腕がない。

 左手は肘より腕が残っていたことが幸いし、義手の装着によって動かせるようにはなっているが、脚の再建は叶わず、現在に至るまで脚は無いままだ。

 よって、彼女は食事を運ぶことが難しい。それがケイにとって、たまらなく悲しいことの一つであった。


 しかし、自らの愛しいツガイとなる人物が、二人のためだけ食事を作り、運んできてくれるという状況は、実はロマンチストでもある彼女にとって、たまらなく嬉しいことでもある。

「……何ニヨニヨしてるんですか。僕の顔になんかついてます?」

 よって、彼女のニヨニヨを不審がったイオに呆れ顔でそれを指摘されるのは、自明であった。

「いや、ロマンチックな光景だなぁと思ってね」

「ケイさんも案外ロマンチストですねぇ」

「そうだろう。私だって存外キュートで乙女だからねぇ」

「キュートな……乙女……?」

 少年は思い出す。現役時代、男勝りなその腕力と明晰な頭脳で「鬼女」と恐れられた彼女の姿を。キュートというよりマッドな彼女の姿を。

「おい!なぜ疑問形になるんだ⁉︎」

「はーいご飯食べましょうねぇー」

「話は終わってな…ムグッ⁉︎」

 突然口に突っ込まれたソーセージ。噛むと、パキッ、という小気味良い破裂音と共に、濃密な肉汁が彼女の口の中に広がる。瞬間、彼女は沈黙し、ソーセージを至極旨そうに咀嚼し始める。

 イオは知っていた。旨いものを食えば、彼女は口を閉ざし、食事にのみ意識を向けるということを。


 イオが食事を終えた時、ケイは既に食卓を立ち、居間でテレビを見ていた。言われなくとも自分と彼女の分のコーヒーを持っていくあたり、イオはどうやらオカンの素質があるらしかった。

 二人でダラダラとテレビを見ていると、「速報」と題して、一つのニュースが流れ始めた。


「隣国・メクリア帝国でクーデター 帝政崩壊か」


 そのニュースが流れた途端、ケイは衝動的にコーヒーカップの取っ手を握りしめた。

 メクリア帝国…、そこは三年前の「大戦」において、彼女らが守ろうとした場所。そして、……彼女の、故郷。

「ケイさん」

 横に座るイオが、彼女の肩をさする。ケイがイオに向けたその顔は、悲しみと恐怖でぐしゃぐしゃになった、酷いものだった。

「ケイさん、落ち着いて」

 イオは彼女に、優しく云う。

「僕たちはもう、あの国の人間じゃない。僕らはもう、僕らじゃないんです」

 何も知らぬ、ただ怯える少女のように震える彼女の肩を掴みながら、イオはまた、云う。

「貴方はもう、エレイナさんじゃない。「ケイ」なんです。良いですね?」

 途端、彼女の震えが少し収まる。それを見たイオは畳み掛けるように、耳元で「貴方はケイ。エレイナじゃない」と繰り返す。

 だんだんと彼女の震えは止み、落ち着き始める。そうしてケイの瞳が、ようやくイオをしっかりと捉えた時。イオはケイをしっかりと抱き留めた。

 彼女を抱きしめる彼の目にも、抱き留められた彼女の目にも、光はなく。

 朝の麗らかな日差しだけが、変わらず彼らを照らしていた。



 世界は凄惨な大戦を終えた。

 しかし火種は止まず、未だ人々は何かに怯え生きている。


 これは、義務を、人命を、仲間を、家族を、全て捨て去った愚かな二人の。

 惨めにも生き延びた、二人の軍人の。


 再生と、再び訪れる破滅の、物語。

 

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