第18話 勝負にならない

 およそ小綺麗とは言い難い、くったりとした使い古しの鞄を受け取った。黒い革の表面には細かな傷が無数あり、長年の愛用物であるという話も鵜呑みに出来る。


「では、中を検めても?」


 いま一度、了承を得る。


 寺本巴の眼前でチャックに手を伸ばし、ゆっくり引いていく。鞄の中にはわんさと荷物が入っていた。着替え、タオル、薬、洗顔セット、雨具。鞄さえ持って出れば、そのまま二三日は滞在できそうな塩梅だ。


 一つ、一つを丁寧に取り出していく。


 長年の習慣は、そう簡単に変わるものではない。いつ張り込みになっても構わないようにと用意された物ならば、必ずここに在るはずだと念入りに鞄の中を探っていく。


 鞄の内ポケットにやはりそれはあった。小型な一冊のノート。俺より上の世代ならば電子機器よりも紙の質感に重きを置く。報告書へと纏める必要がなくなった今も、捜査記録を取っているだろうと思っていた。


 元々、警察手帳にメモを取る習慣のない刑事は個人でノートを準備する人が多く、その辺に放置出来るような代物でもない。次の張り込みにと備え、いつもの癖でつい鞄に入れたままに放置していたのだろう。


 そっと取り出し、ページを捲ろうと手を添える。正に開かんとしたその時、節くれ立つ手が上からかぶさる様にして阻んだ。


「ああ、駄目よ。ごめんなさいね。勝手に見たりなんかしたらあの人に怒られるわ」


 こんな状況でも義理を通さんと欲す姿勢は、妻の鑑か。不義理を生業としてきた身にはその姿が眩しく映る。だがしかし。


「ご主人を探す為だとしてもですか?」


 済んだ事件の捜査記録にいったいどれ程の手掛かりが残されるのかは未知数だが、記事をあげる俺にとっては貴重な情報源。このままおめおめと引き下がるほど人間が出来てはいないし、またその余裕もない。


 弱みにつけ込み、情に訴え食い下がる。その甲斐あってか。


「わかりました。一日、一日待って頂戴。一度、中を検めます。問題はないと思えた後でなら、その時にお渡ししますから」


 寺本巴は悲痛な面持ちで最大限の譲歩を見せた。少しまだるっこしくはあるものの、これ以上の高望みは憚られる。


「ええ、勿論。それで構いませんよ」


 その手にある情報にこそ唯一無二の価値があると悟られぬ様、柔和な態度に励む。その後は二、三の質問を交えたりしつつも調査に取り掛かると、寺本宅を後にした。


 車に乗り込み、次の目的地へ走らせる。迷うことのないハンドル捌きに土村は眉根を寄せ、さも不思議そうに首をかしげた。


「寺本銀二郎さんがどこに向かったのか、友江さんにはもう分かっているんですか」


 ハッハと笑い飛ばす。


「分かるわけがないだろう」


「じゃあこの車はどこに向かってるんです」


「市内のファミレスだ。そろそろ丁度良い頃合いだろうからな」


 手首の内側に付けた細い時計を確認し、私なら大丈夫ですと首をふる。


「でもまだお昼には早いですよ。あんなに心配していたし早く探してあげましょう」


 誰も土村の腹具合など心配していない。視線もくれずに素っ気なく呟いた。


「探さないぞ、というより探してもいない」


「あのノートを見せてもらう為ですか?」


 棘のある声だった。


 確かにそれもある。万に一つの確率ではあるが、早々に行方不明である寺本銀二郎が見つかってしまえば、あの捜査記録を目にする機会は永遠に失われる羽目となる。立場上、見つからない方が何かと助かる。


「探しようがないだろう。年間の行方不明者は確か、八万人に近かったはずだ。足取りを追うのはプロの連中に任せるとするさ」


 いくらプロといっても刑事と探偵の知人に、各一名ずつ。それも片手間の捜査だ。戦力としては心許ない。見つかるも八卦、見つからぬも八卦といった運任せな捜査。


「俺達は実際の足取りは追わず、銀二郎が辿った思考の筋道をなぞる。案外、こっちの方が先にたどり着けるかもしれないぞ」


 まるで競う気のない相手との勝負だけどなと土村に隠れ、自嘲気味に嗤った。

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