後日談① その直後

昔のように座椅子に座った奏多を見て笑顔がこらえきれなくなった修吾は、今度は座椅子ごと彼女のことを後ろから抱きしめた。奏多はびくりと体を震わせる。

「ああ、…長かった。ホントに長かった。まじでつらかった。あーーーーー」

「…」

「一日千秋の思いってこういうこと言うんだな。あー、もうまじで離したくない」

「…」

「明日仕事にも行きたくない。もうずっとお前といたい」

「…ちょ、っと、離れて」

「だからやだって」

「いいから」

「やだ。絶対やだ」

「……恥ずかしいんだってば…」


消え入りそうな声に修吾が奏多の顔を覗き込むと、奏多は真っ赤な顔で唇を噛んで眉を下げている。その瞳は小刻みに揺れていた。

その表情に切なげな顔になった修吾はもう一度彼女を抱きしめる。


「可愛い。…やっと言えた。ずっと言いたかった」

「別に、可愛く無」「俺には可愛いの。お前が世界で一番可愛い」

「…」

「絶対誰にも文句言わせない。お前が一番かわいい。もう絶対誰にもやらない」

「…なにそれ」

「え、陽斗と付き合ったんじゃないの。最後の文化祭の時告られてたじゃん」

修吾がジト目で奏多を見ると、見てたの?!と奏多が問う。


「資材置きに行くときにたまたま通りかかっちゃったの。俺だって見たくなかったよ。お前が他の男に持ってかれるとこなんて。こっちは我慢してんのに」

やっと奏多を解放した修吾があぐらで座りなおすと頬杖をついた。

その子供っぽいしぐさを見た奏多は赤い顔のまま複雑な顔をして、修吾から目を背ける。


「…断ったよ」

「…え?」

「付き合ってない」

「ええ?なんで?」

「前に言ったじゃん、そーゆー目で見れないんだ、って…」

「…本当に?あいつ良い奴だぞ?仲良さそうにしてたじゃん。お守りまでもらって」

「もう何度目それ。ただの友達だよ。…ねえ、なんか飲み物貰っていい」

「冷蔵庫、勝手に使って」


慣れた仕草で奏多はグラスにウーロン茶を注いだ。それを見ながら、そうか、長谷川振られたか。と修吾は少しだけ複雑な気持ちになる。

そのことに思いを馳せて、あ、と修吾は一つ大事なことを忘れていることに気づいた。

戻ってきた奏多は座椅子を修吾から少し遠ざけるとそこに座った。


「…奏多」

唐突に、真剣に名前で呼ばれた彼女は純粋な驚きの顔で彼を見る。

その顔にじわじわと照れの色が広がって彼女は視線を下ろした。

「こっち見て」

「…」

少しだけためらった後、彼女は視線だけを修吾に向けた。

「…ずっと好きだった。俺の彼女になってくれる?」

奏多からの返事を予期しているだろう彼は甘やかに微笑みながら言った。

その言葉に彼女はまた一度視線を下ろしたあと、涙が滲む瞳で修吾を見た。

「…私も…ずっと好きだった」

目じりから涙が一粒零れた。それを修吾は指で掬い取るようにすると、彼女をもう一度彼の腕の中に閉じ込めた。


「お前、ホント小さいな」

「先生が大きいんじゃないの」

「…俺、もう先生じゃない」

あ、という顔で奏多が修吾の顔を見上げる。

「…呼んで?」

修吾は甘く顰めた瞳で、初めて見せる表情で奏多を見た。

また顔を真っ赤に染めた奏多は彼の胸に逃げ込むと、小さな声で「木村さん」と呼んだ。

「他人かよ」

「…キム兄」

「陽斗じゃん」

「修吾、さん」

「惜しい、もうちょっと」

「…」

「奏多」

修吾の服をギュっと掴んだ彼女は、…シューゴ、とその胸の中でつぶやく。

修吾は耳にかすかに届いたその声にまた腕に力をこめた。


「ずっと、名前で呼びたかった。奏多」

「あの、お願いがあるんだけど」

「ん?」

「もうちょっと、いつもみたいに普通にして」

「え?どういうこと?」

修吾は彼女の肩を掴んで自分の胸から剥がすとその顔を覗き込むようにする。

「…急にいろいろ、あると。こういうふうに近くされたりとか。…頭に血が行かなくなる。…心臓、壊れる」

切なげに顰められた眉と目と、上気した顔と、口元から零れる浅い吐息と、胸元を抑えている両手が、そのすべてが、修吾からその瞬間理性を奪い去った。

修吾は片手を奏多の顎に添えるともう片方の手で彼女の頭を引き寄せた。

彼女の唇をついばみたくなる衝動を、かろうじて戻ってきた理性で唇をすり合わせるだけで我慢する。


意図して短く終わらせた口づけのあと、もう一度彼は彼女の顔を見た。固く目を閉じている彼女に言う。

「奏多。その顔、だめ」

「…?」

「絶対、俺以外の男に見せないで。いい?」

「…ん」

「あと、できれば俺にもあんまり見せないでほしいんだけど」

「…?」

奏多は薄目を開いて修吾を窺うようにする。

「我慢できなくなる。…色々」

修吾は未練がましく彼女の黒髪を持ち上げるとそれに口づける。

「…じゃあ、とりあえず離れて。息させて」


しぶしぶ修吾が彼女を離すと、奏多はローテーブルに突っ伏した。髪がその表情を覆い隠す。

修吾は後ろ髪をひかれながらも換気扇の下に行くとタバコに火をつけた。

「…タバコ、美味しい?」突っ伏したままの奏多が言う。

「ん?…んー。俺は美味いよ。奏多には吸ってほしくないけど。長生きしてほしいから」

「…勝手じゃね?」

「…」

久しぶりに聞いた、その吐き捨てるような言い方に修吾は目を細めて首を傾げる。

「だって、順当に行っても、…修吾の方が先に死ぬじゃん。だからさ…」

その言葉に修吾は、火をつけたばかりの煙草をもみ消して奏多のもとに向かう。

―ああ、もう、こいつはやっぱり馬鹿だ。


突っ伏したままの奏多の隣に修吾はしゃがみ込むと、見えない彼女の顔を覗き込むようにする。

「…死ぬまで一緒にいてくれんの?」

修吾の言葉にようやく自分が言ったことの意味を理解したらしい奏多は言いよどむ。

「…別れるつもりで付き合う人はいないと思う」

「長生きしてほしい?」

「……彼氏、に、…早く死んでほしいと思う人もいないと思う」

「じゃあ、俺と結婚してくれる?」

「…だから、急にいろいろは困るんだって…」

「ごめん、でも、困らせたい。…可愛いことばっかり言うから。ずっと我慢してたんだ」

「…」

「なあ、俺と結婚してくれる?」

「……それを前提に付き合う、くらいだったら…」

呻くようにかろうじて吐き出されたその言葉に修吾はようやく愁眉を開いた。

「奏多。お願いがあるんだけど聞いてくれる?」

「ん」

「顔上げて」

「無理」

「お願い」

修吾はゆるゆると顔を持ち上げる奏多に「キスしていい?」と聞いた。

「そういうのが、良くないんだってば…。…修吾、意地悪いよ」

奏多は修吾の肩に額をトンと寄せて「ちゃんと、好きだから。だから。もう聞かないで」

その言葉に修吾はたまらずに彼女の顎をもう一度引き寄せて短くキスをする。

そのまま彼女の隣に腰をおろすとその長い髪を弄ぶ。


「奏多、今日予定は?」

「んー、なんもない」

「入学式は?一日だっけ?」

「うん、そう」

「平日じゃん。最悪」

「何が」

「俺も一緒に行きたかった」

「ええ、なんでよ。別に何があるわけでもないじゃん」

「奏多のスーツ見たかった。有給取ろうかな」

「ねえ、一日って高校も入学式でしょ。分かって言ってんの」

「分かってるよ」

「サイテーなんだけど、この教師」

「生徒より奏多が大事」

修吾は柔らかく奏多の頭を引き寄せると、額に吸い付くようにキスをする。


「…ねえ」

「んー?」

さらさらとした奏多の髪をもてあそびながら修吾が答える。

「なんか、キャラ、違くない?」

「そう?」

「もっと、塩対応だったじゃん」

「…だからあ、我慢してたんだよ」何度奥歯が砕けるかと思ったことか、とこの一年半を思い返して修吾は深くため息をついて奏多を抱き寄せた。


「すげー我慢してたんだよ。偉いと思わない?」一年半の間に積もり積もった気持ちを吐露するように修吾が奏多を両腕で抱え込んだ。

「もうあんな我慢絶対できない。したくない。ホントにしんどかった」だからもう離さない。

「…私も、我慢してたよ」

「ええ?ホントに?」

「…ホントだよ。勉強してるときは修吾のこと考えなくて済むから、だからずっと勉強だけしてた。

ずっとずっと、一瞬も隙間が無いように」

いつか聞いたのと同じようなセリフに修吾は胸を痛めたが、奏多が小さな頭を修吾に摺り寄せてくれたので少しは救われたような気になる。

「…じゃあ、合格したの俺のおかげじゃん」

「まあ…そうと言えなくもない」

「…お前ホント頑張ってたもんな。他の先生も驚いてた。俺もだけど」

「…勉強してないと、…苦しくなるから…」

奏多はその頭を修吾に押し付けて苦し気にささやく。その声の頼りなさが修吾の心をじわりと温める。


あの最後の日、それぞれに感じていた絶望を二人は耐え抜いた。自分と同じような苦しみに彼女も耐えていたのだと思うと悲しくなる。

悲しくなって、それを乗り越えてくれた彼女をもっともっと甘やかしたくなる。

「もうずっと一緒にいるから」「…うん」

修吾は笑顔で腕の中の健気な少女をぎゅううと抱きしめる。苦しいよ、と奏多が笑った。


「…ていうかお前さ、俺、家にいなかったらどうするつもりだったの」

腕をほどいた修吾はローテーブルに肘をついて彼女を見上げる。

「え、そんなこと考えなかった」

「ええ、なんで」

「だって昨日、わざわざ今日休みって言ってたじゃん」

「そうだけど」

「だから…居てくれると思ってた」

修吾は目じりを下げて奏多の頬をそっと撫でた。

「修吾こそ、私が来なかったらどうするつもりだったの」

修吾は彼女の頬を手のひらで包むようにする。

「…来てくれると思ってた。昨日お前、『元気で』も『さよなら』も何も言わなかったから」

奏多も目じりを下げて修吾を見つめた。くすぐったい気持ちになった二人はどちらからともなく額を寄せ合う。


「でももし来てくれなかったら、…やけ酒でも飲んでふて寝してたよ。たぶん、家中の酒飲み切るくらい」

「…つぶれても介抱してくれる人いないのに?」

二人でくすくすと笑いあう中で、修吾が、あ、と声を漏らした。奏多が修吾を窺う。

「…酒、奢らなきゃいけないやつがいるの思い出した。…今度紹介する。早稲田のOBも一緒に」

「友達?」

「そう、昔っからの」

「楽しみ」

「…そう?…早稲田のやつ、そこそこイケメンなんだけど…惚れんなよ」

「それ、どれくらい本気で言ってるの?」

「全然」

奏多が呆れたように問うので、修吾は顔全体に笑みを浮かべて言った。

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