卒業、正しい形へ

二人はしばらくの間あの夏の五日間から抜け出し切れないまま過ごしていたが、迫りくる受験という大きな壁と高校生活最後の一年という熱は、否応なく二人をその甘く絡みつく沼から引きずり出していく。

石津との面談も無くなった二人には、今や特別な接点は何一つ残されていなかった。


・・・


奏多はあの日の宣言通り休み時間中にも勉強をしているらしく、修吾が教室の扉を開けると机に広げた参考書をパタパタと片付けることが多くなった。

夕方のホームルームが終われば、友人たちとの会話もそこそこに切り上げて教室を出ていく。それに気づいた陽斗が慌ててその背中を追う、というのがこのところのパターンだった。


一学期の最終日、修吾は職員室で奏多の通知表を手に目を細めていた。努力の甲斐あって、どの科目も著しく成績が伸びている。

家庭も落ち着いて勉強に集中できる環境になったのだろうか。

「相良さんですか?最近頑張ってますよね彼女」しばらく動こうとしない修吾に、隣に座る小宮が修吾の手元を覗き込んで告げた。

「ええ。生意気に、英語は満点取りましたからねあいつ。絶対に満点出させないつもりでリスニング難しくしたのに」

修吾は予鈴の音に席を立つと、全員分の通知表を抱えて教室に向かった。

明日からは夏休みになる。


夏休みの間、奏多からのメッセージは来なかった。

それでいい、と思った。すべてが正しい形を取り戻そうとしていた。


・・・


最後の文化祭でも飲食店をやることに決まった。「一回くらい他のもやったら?」と修吾は苦笑して告げたのだが、それぞれが受験に気を取られているらしい生徒たちは準備の時間もあんまり取れないし、楽だし、と口々に言うのでそうですかと修吾は折れた。


文化祭終了後、無事盛況に終わった焼きそば屋の屋台を解体し終えた修吾は他の教師と共に特殊教室棟の近くにある資材倉庫に木材を片付けに行く。

その途中、人気のない校舎裏の遠くに二人の人影が見えた。

夕日が逆光となり顔までうかがい知ることはできないが、見知った自分のクラスの生徒を見間違えるはずはなかった。

艷やかな長い黒髪を持つ彼女と、その彼女をいつも追いかけていた背の高い彼。

修吾は一瞬だけ足を止めたが、彼らが纏う甘く張り詰めた空気を邪魔しないよう足早に歩を進める。

ちゃんと幸せになれよ、と、あの日彼女に告げたセリフをもう一度心の中で繰り返した。


・・・


それからの日々も受験に向けて慌ただしく過ぎていった。いよいよ2月に入ると受験本番を迎える生徒が続々と出てくる。

その日、修吾はホームルームの後に「佐伯、相良、野村、ちょっと来い」と明日受験を迎える三人の生徒を呼び出した。いつもの激励だった。

「明日、頑張って来い。今日はもう新しいことに手を出すんじゃなくて、これまでやってきたことの復習くらいにして、根を詰めすぎるな。眠れなくても早めに布団に入るんだぞ」

「はい」

「お前らが十分頑張ってきたのを俺は知ってる。自信を持って行ってこい」

「はい」

修吾を力強く見つめ返す三人の顔に修吾は笑顔で「よし、じゃあ、気を付けて帰れよ」とお決まりの言葉を告げた。

修吾も教室を出ようと教壇に広げた書類を片付け始める。

「奏多、これ、お守り買ってきた」

「えぇ、別にいいのに。…ありがとう。でも最後に神頼みってどーなのよ」

「いいだろ神頼みでも、受かるなら」

陽斗と奏多の会話を背中で聞きながら、修吾は教室を後にする。

…な、良い奴だろ。と心の中で呟きながら。


・・・


三年の担任にとって、合格発表がある二月下旬からしばらくの土日は無いに等しい。

その日曜日も三年の他のクラスの担任とともに、修吾は朝から職員室に詰めていた。


ピリピリとした雰囲気の漂う職員室ではそこかしこで電話がひっきりなしに鳴り、悲喜こもごもが慌ただしく舞い上がっている。


修吾は手元にある生徒たちの志望校の一覧と、それにつけられた〇×のリストに目を向ける。今日結果が出るはずのその中の一行を見て、目をつぶって祈った。

この時だけは久しぶりに、彼女のことを一心に考えた。

「木村先生、相良さん。保留二番です」

その声に修吾はまぶたを開く。受話器に手をかけると、一息ついてからそれを持ち上げる。保留を解除するときに、そういえば彼女と電話で話すのは初めてだと見当違いなことを考えていた。


「…もしもし」

「受かった」

問わぬ間に短く返された彼女の言葉を、修吾はもう一度脳内で確認すると机の上で手をぐっと握りしめた。

じわりと目元が熱くなる。それを気取られないように修吾は笑顔を作る。

「…お前…もうちょっと嬉しそうにしろよ。…お疲れ様。頑張ったな」

「うん」

「ゆっくり休みな」

「うん。先生、ありがとうございました」

「…おう、じゃあな」

決別を告げるような奏多の言葉に声が震えそうなことに気づいて、修吾はその短い電話を切った。

唇を噛み締めた。それでも押し込めきれなかった涙が固くつぶった瞼からにじみ出る。


良かった、と思った。

あとは無事卒業してくれるだけだ、と思った。


長かった一年半がようやく終わりを告げようとしている。


・・・


そして、卒業の日、無事式を終えた生徒たちは名残惜しさにいつまでも教室にたむろして帰ろうとしない。

「おいー、気持ちはわかるけどそろそろ帰れー」

奏多は陽斗と佐那と笑いあいながら荷物をまとめている。


「忘れ物無いようにしろよ。俺明日いないから何かあっても対応してやれないぞ」

「え、キム兄サボり?」陽斗が耳ざとく修吾の言葉に飛びつく。

「お前ね、三年間担任してきた生徒がやっと無事に卒業してくれたんだぞ。一日くらいサボらせろ。っていうか正規の方法で有給取ってんだからサボりじゃねえよ」

「へえ。キム兄、またLINEするから今度遊ぼうよ」

「暇だったらな。お前、二十歳になったら一緒に酒飲み行こうぜ。それまでいい子にしてろよ」

「うん」修吾の言葉に陽斗は照れくさそうにしながらも喜色満面といった笑みを浮かべた。


「ねえサナ、打ち上げまでの間新宿遊びに行こ」

「うん、プリ撮ろプリ」

「撮ろ撮ろ。やば、加工しなくても潤み目とか最強じゃね?」

「お前らも、調子乗って遊びすぎるなよ。春休みの間になんかあったら合格取り消しだからな」

「カナサナはいつも節度持って遊んでるもんね」「ね」佐那の言葉に奏多が顔を見合わせて笑う。


「キム兄またね~」と陽斗。「先生、いろいろありがとね。じゃあ」と奏多。「ばーい!キム兄、今までありがとね、元気で!」最後に佐那が涙目ながらも元気に手を振りながら教室を出て行こうとする。

「元気でな」

その背中に、修吾はかろうじてそう言葉をかけた。

彼らが教室を出ると、修吾は大きくため息をついて目を閉じる。



―終わった。いや、終わらせることができた。正しい形で彼女を送り出すことができた。

傷ついてその命を絶とうとしていた、か弱く美しい蝶はもういない。彼女はその傷を乗り越え、正しく努力し自分の未来を掴み取って、高校生としての生活を正しく謳歌して、この教室からも巣立って行った。


─良かった。

修吾は意識して笑顔を作ると、まだ残っている生徒に「ほら、お前らもボチボチ帰れー。俺が帰れないだろ」と声をかけた。


明日からも毎日は続いていく。乞わずとも勝手に朝日は昇る。たとえそこに、彼女がいなかったとしても。

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