離脱症状 三年

■二学年 三月

「カナ~一緒に帰ろうよ。新宿のゲーセンに新しいプリ入ったポイ」

「マジ?!行きたいんだけど、今日むり!ごめんー!!」

「…しんどみが深い」

「明日、明日どう?!」

「絶対約束してよぉー」

「するする、超する」

放課後の佐那と奏多の会話を修吾は聞くとは無しに聞いていた。

「何、サナに内緒で彼ピ作った系?サナマジ泣きするよ?」

「違う違う、…アレ」

「ああ、そか」

「おい、教師をアレ呼びするな。あと指も指すな」

「カナは元気?だいじょぶ?いつでもウチおいで?」

「やーんサナマジラブトモ」

「…俺先に行くぞ」

頭がキンキンしてくるような言葉が飛び交うその会話を聞いていられず、修吾は先に教室を出た。

先生さようなら、と長田とそのグループメンバーが丁寧にあいさつしてくれるので修吾も気を付けて帰れよ、とにこやかに告げる。


しばらくダラダラと歩いていると、特別教室が集まった棟に差し掛かったあたりで後ろからパタパタと音がする。

「…廊下走んなよ」

「うっさい、学校でタバコ吸ってる不良教師のくせに」

「…お前それ誰に聞いた?陽斗?」

「そう」

「最近仲良さそうじゃん。良い奴だろ、あいつ。バスケも上手いし」

最近では奏多が属するグループの一人としてすっかり陽斗は溶け込んでいた。奏多のすげない態度も、だいぶ柔らかくなってきたように見える。

「まあ…いい人だよ」

奏多は教室で見せるような笑顔になる。

良かった良かった、と修吾は心の中でつぶやく。

「倉田にも話したのか?」

「あー、うん。お母さんがちょっと変でさっていうことくらいだけど」

「そか」

人に話せるようになってきたのは、彼女がその呪縛から解放されている兆候だと思った。


最後の面談も、いつも通り滞りなく終わった。

奏多が佐那に家庭環境を打ち明けたと聞いた石津は、そうなの、良かったわねえとこれまでで一番の笑顔を奏多に向けた。修吾の想像は正しかったらしい。

最後に奏多は、本当にお世話になりました。本当に本当に、ありがとうございました。と深く礼をすると小さな菓子折りを石津に手渡した。石津は恐縮しながらもそれを受け取った。


「これからも、困ったことがあったら必ず私か木村先生に言ってちょうだいね。忘れないでね、どんなことがあっても、あなたの幸せを願っている人間が、ここに必ず存在するということを」

「…はい。ありがとうございます」

奏多は少し涙目になりながらも、きちんとそう返事した。

その石津の言葉に修吾の目頭も熱くなる。それを奏多に悟られないように、修吾は机の下で拳を握りしめた。


面談が終わった二人の帰り道はいつになく会話が無かった。

三月になりやや日が長くなってきたと言えど、最後ということもあって話し込んでしまったので外はもうだいぶ暗い。

「…このまま駐車場行くぞ。お前忘れ物無いか?」

「え?」

「送ってく」

「…え?」

「最後くらいいいよ。遅いし。車で行けばすぐだろこっから」

「…ありがと」


奏多が修吾の車に乗るのはあの日以来だった。その時と同じように後部座席に座った奏多は、ぼんやりと窓の外に流れる街を眺めていた。

車内にも会話は無かった。修吾は後部座席に座る彼女の方から、小さな蝶が羽ばたくような気配を感じた。こちらを窺っているような気配のソレを、修吾は見ないように努める。間もなく奏多の家に着こうかというところで修吾が口を開いた。

「…流石に家の前までは行けないけどいいか。近くで下ろすから」

「うん」

「家では、本当に困ってることは無いか」

「うん、大丈夫」

「そか。ならよかった」


奏多の家にほど近いところにあるコインパーキングに車を止めた修吾はハンドルに体を預けて前を向いたままぶっきらぼうに口を開く。

「あー、…それ、あげる」

「え?」

「座席んとこに紙袋置いてあるだろ。…ホワイトデーのお返し。そこのマドレーヌ美味しいんだって、現国の小宮先生が教えてくれた。夜食にでも食べな」

「…ありがと」

「クッキーも美味かったよ。お前、やっぱ料理上手いな」

「…良かった」

「…気を付けて帰れよ」

「…うん、送ってくれてありがと、あとこれも」

「また明日」

「うん」

奏多は車を降りるとこちらを振り向かずに行った。修吾もハンドルにもたれて、奏多の姿は見なかった。


結局修吾は、あの日のメッセージには触れられなかった。

奏多はどう思うだろうか。

触れることが出来なかったと思うのか、あえて触れなかったのだと思うのか。

後者であってほしいと修吾は願った。


・・・


■三学年 四月

その日、学校の一画に設えられた来客用の会議室では、奏多と修吾が石津と母親の到着を待っていた。

「…ねえ、そんな機嫌悪そうにしないでよ」

修吾の顔色を見た奏多がたまらず口を開く。

「…してるつもりねえよ」

「滲み出てるよ。…お母さんは、もう、悪い人じゃない…よ…」

「…」


奏多が家に戻る前、石津の提案通り四人で何度か話し合いの場が持たれたので、奏多の母親が根っからの悪人ではないことは修吾にも分かっていた。

あのとき、押しつぶされそうに重い黒い影を背負っていた母親は、投薬の効果かかなり気力を取り戻したように見え、石津と修吾と、そして奏多にもきちんと謝罪をした。

その時の、自らの所業に耐え切れず消え入りたいとでもいうような雰囲気は少し奏多に似ていると思った。


石津は四人での話し合いの前に修吾に滾々と、担任としての振る舞いをするようにと釘を刺した。…わかりますでしょう、木村先生。修吾を見上げるその目の端の小じわが気づかわしげに下がっているのを見た修吾は、それに免じてその話し合いを担任としてやり遂げていた。


「…それは分かってるよ。でも、悪人だって三百六十五日、二十四時間、悪事を働いてるわけじゃない。善人だって、間違いをすることはある」

「…今日、進路の話するんでしょ…」

そう、本来ならば早ければ二年の夏には志望校を絞り込み、秋口からは進路指導相談を始めなければいけない時期だった。奏多は例の一件があったので、他の生徒から大きく遅れてしまっている。


「…ああ、そうだな。悪い。…良くないな」

「…良くないよ」

ちょうどその時、ノックの音とともに扉が開かれる。修吾は立ち上がると、奏多曰く悪い人じゃないというその人物ににこやかにあいさつをしてソファーを薦めた。


「…進路希望表書いてきたか?」

「ん」

「…お母さんとも相談済み?」

「したよ」「はい…」

ふうん、と修吾がそれを眺めると、上から早稲田、上智、東大のいずれも文学部が希望として連ねられている。

修吾は参考までに石津に強気なそれを回す。今日この場に石津がいるのは進路相談のためというよりは、母親と―修吾への抑えのためだったので、それほど見せる必要も無いのだが。


「文学部希望なの?理系の成績も悪くないし、お前、論理的に考えるの得意…そうだからそっちも向いてるんじゃないかと思うけど」

修吾は慎重に言葉を選びながら、膝に抱えた分厚いファイルのあちこちのページを繰りながら言った。

「はい。出版社に努めたいんです」

「へえ」「あら、いいわねえ」

外向きの話し方をした奏多に修吾と石津の言葉が重なる。

「でもお前、これからの出版社は斜陽業界だぞ」

「分かってます。でも、どれだけ紙の本が少なくなっても世界から物語が無くなることは無いでしょ?それに、紙の本の良さもやっぱり伝えていきたくて。生き残らせたいんです」

強い目線で修吾を見返す奏多に、それでも担任として修吾は告げる。


「言うほど簡単じゃないぞ。最近の出版社の業績調べたか?」

「調べました。でも、別に出版社に最後まで骨を埋めなくてもいいと思ってます。私は、ただ良い物語を多くの人に届けたいんです。そのための勉強ができれば」

「…編集希望なの?きっと死ぬほど忙しいぞ?」

「…夏休みのない教師とどっちが大変だと思います?」

「…超難問だな」

修吾と奏多は顔を見合わせて笑った。その様子を石津はニコニコとしながら、母親はヒヤヒヤとしながら見ていた。


「…しかし…、また欲張りなラインナップにしてきたねお前は。まあ上智はこのままのペースで行けば大丈夫だと思うけど…周りもこれから偏差値上げてくるからな、油断したら落ちるぞ。…オープンキャンパスには行ったの?」

「行かなくていいです」

「…四年通うんだぞ」

「必要ないです。大学には勉強だけをしに行くので」

何かを含めるような言い方に修吾は口の端を上げた。

「あのね、仕事とか勉強だけが人生じゃないんだぞ」

「分かってます」

「これから死ぬ気で勉強するのか?」

「します。他にすることも無いので」

また、何かを含めた言い方になる。

「…そうか。じゃあ、頑張れ」

「はい。頑張ります」

その視線の強さに、修吾は笑みを深くしてファイルを閉じた。

「俺の友達に早稲田卒のやつがいるから、受かったら紹介してやるよ。オープンキャンパスにも行かないんじゃ、大学生活不安だろ」

修吾は子犬のような顔をした、軽薄な男の顔を思い浮かべながら奏多に言った。


・・・


■三学年 五月

「キム兄、何買ったの?」

同じ土産物屋で買い物をしていた長谷川が修吾にすり寄ってくる。

進学校にはだいぶ珍しく、修吾の高校は毎年三年のこの時期に修学旅行がある。しかも行き先は毎年決まって定番の京都だった。

歴代の教師たちは何度か時期や行き先の変更を訴えたらしいのだが黙殺されたらしい。

噂によれば創業者の利権が絡んでいるということだが、嘘か真か。


「…母親にストラップ」

言いながら、小花柄の小さな紙袋に包まれたそれをスーツのポケットに雑にしまった。

「…お前は?…相良になんかプレゼントでもしないの?」

店内を見回して、長谷川と同じグループの生徒が近くにいないことを確認した修吾が声を潜めて言う。

長谷川は引き続き奏多が属するグループの一員として存続していたし、最近は時折真面目な顔で一緒に参考書を覗いている姿も見受けられた。

「…いや、今、あいつ勉強頑張ってるからさ、邪魔するのもどうかなって…」

「…健気だな。頑張れよ。俺期待してるんだから」

「頑張ってるよ、色々」

「あれ、陽斗いるじゃん。キム兄も」

店の入り口に目を向けると、成瀬とそのグループのメンバーらしき生徒が店の暖簾をくぐるところだった。

「…お前、京都でまで俺をつけまわすなよ」

長谷川が成瀬のもとに駆け寄っていくその隙に、修吾はその土産物屋から出た。


・・・


「…おい相良、乗り遅れるぞ」

新幹線の乗降口で生徒たちが乗り込むのを確認していた修吾は、最後の一人が乗り込んでも自動販売機の前で飲み物を選んでいるらしき奏多をしばらく眺めたあと告げた。

「えー、置いてかないでよ」

言いながら奏多はようやくといった感じで飲み物を買うと、修吾に続いて新幹線に乗り込む。


「…先生」

デッキから客車に乗り込むまでの短い間に、奏多は修吾にだけ届く声で呼びかけた。

修吾が小さく後ろを振り向くと、彼女の手には小さな灰色の紙袋が握られている。

修吾は目線を前に戻すと、スーツのポケットから小花柄の紙袋を取り出してそれを後ろに差し出す。

二人はまるで手品のように一瞬で二つの紙袋をすり替えた。修吾は手元に残った灰色のそれをスーツのポケットにしまい込み客車に足を踏み入れた。


修吾が家に帰ってから灰色の袋を開けると、「S.K」と刻印された平たい革のストラップが出てくる。

Shugo Kimuraのイニシャルを示したいであろうそれは、彼の目には別の意味を持っているように見えた。

なぜか痛々しく感じて何気に裏面を見ると、端っこに小さな蝶の刻印があるのが見て取れた。

たまらずに修吾は吹きだしてしまった。やめろよお前、と誰もいない部屋で小さく零す。

翌日、奏多のカバンにも新しいストラップが増えていた。

教壇からでは見ることはできないが、青空を模した爽やかな色合いのそのとんぼ玉の中には、何羽もの蝶が羽ばたいていることを修吾は知っていた。

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