残り 0日

小生意気で小気味よい話し方をする、律義で料理上手な少女が彼の家に転がり込んできてから5日目。

ようやくその解答にたどり着いた修吾は、しばらく自宅の扉の前で行き交う電車と晴れ渡った空を眺めていた。


何度も扉を開けようとしたが、そこで待つであろう事実に決心がつかないまま、八時になったら扉を開ける。と自分に言い聞かせていた。


厚い扉の外からでは部屋の中の様子をうかがい知ることはできない。

その部屋は、まるでその中に命あるものは何も存在しないかのように静まり返っている。


嫌なイメージだった。

時計が八時を指したことを確認すると修吾は大きく息をついて、その扉を開けた。


「…あれ、先生、おはよ?仕事は?」

何も言わずにリビングに足を踏み入れるとカーテンを開けていていたらしい奏多がキョトンと修吾に目を向ける。

夏の活き活きとした朝の日差しを受けた彼女は、逆光にその姿が薄暗く滲んでいた。

修吾は彼女がそこに存在することを認めると顔を歪め、質問には答えず彼女に歩み寄る。


その修吾の様子を見て彼が答えを見つけたことに気づいたらしい奏多は、腕を伸ばすと「出ていくから!」と修吾に待ったをかけた。その小さな手のひらで自らを守ろうとするかのように顔を背ける。


「出てくから、やめて、何も言わないで」

それでも、修吾はやめることはできない。絶対に。

「お前、…」

修吾は唇を噛むことでその震えを抑えようとした。奏多のことを見ていられなくて視線を外す。


この部屋の至るところに彼女の残滓が蝶のように漂っている。その気配を感じる。

あるものはテーブルで羽根を休め、あるものはふわふわと修吾を揶揄うように羽ばたく。

彼女と一緒に過ごした時間が、色とりどりの蝶となってこの部屋を彩っている。

これから明らかになる事実は、その蝶たちから色を奪ってしまうだろうと恐れた。


この夏のぎこちない同居が、仮初かりそめであったことを明らかにしてしまう。

何もかもが嘘であったと、薄っぺらな表皮を剥がしてしまう。

それでも、修吾は言わないことはできなかった。


「…お前さ。…自殺しようとしたか。ネット心中に、参加しようとしたか」

修吾は挑むように吐き捨てた。


奏多は動かない。修吾は望む言葉が出てきてくれと祈っていた。

二人の間に長い長い沈黙が降りた。彼女は修吾を止めていた腕を自分の胸元に引き寄せる。

そのまま口を開こうとしない奏多に修吾の口が言葉を紡ぐ。


「『危ないことに巻き込まれてないか』、それにお前は『はい』って答えたな。それは、巻き込まれて『は』いないからだろ。

あのとき、答えづらくてどう答えるか迷ったな?


…お前らしいとんだ屁理屈だよ。

危ないことではある。でも、巻き込まれているわけじゃない。

だから、迷ったんだ。嘘ではない、でも自分に分のいい方を採ったんだろ」


あのとき感じた黒いわだかまりの正体を修吾は突きつけた。

巻き込まれてなどいないのだ。彼女は、自ら望んでその渦中に身を投げたのだから。


…奏多は動かない。

修吾は拳を固く握りしめる。


「誰かに危害を加えようとしたか聞いて迷ったのは、自分をその対象として含むのか、考えてたからじゃないのか?」

事実、危害は加えようとしたのだ。彼女のその細い体に。


まだ、奏多は動かない。


一言、たった一言を修吾は待ちわびている。

それでもその一言を言わない彼女に、修吾は自分の望みとは相反して彼女を追い詰めるような言葉を吐く。


「お前、俺がつぶれて帰ってきた次の日に『先生も死ぬんじゃないか』って言ったな?『も』ってなんだよ。他に誰が死ぬって言うんだ!」


修吾はただひたすらにその言葉を待っている。


奏多はそっと顔を上げると、いつか見た静かな表情でただ彼を見つめた。

その顔には、喜びも、悲しみも、怒りも、楽しみも何も浮かんでいなかった。


どこかの映画で見た、感情のない機械に据え付けられたかのような『顔』だけがそこにあった。

その顔は虚ろな目で口を開く。


「答えは、はい」


修吾はその一言が自分の中の何かを、この地に立っているのに必要な何かを奪い去ってしまったかのような脱力感を感じた。

次に訪れた自分をつき動かそうとする衝動は、体を折り曲げて、自分の体をきつく抱きしめることでかろうじて耐えた。


その回答は修吾の予想通り、色とりどりの蝶たちにかけられていた魔法を解いてしまった。

柔らかで温かだったいくつものそのはねは、今やプラスチックのしらじらしい偽物の姿をして床に力なく倒れ伏していた。現実に存在しないそれが、それでも修吾の目にはまざまざと写っている。


すごいね先生。やっぱり大人はすごいんだね。そんな失敗してたなんて、私全然気づかなかった。


体を折った自分の頭の上から聞こえる奏多の平静な言葉を聞きながら、修吾は熱く震える吐息を吐き出す。

あんなに、笑って、泣いて、怒って、まどろだ顔まで見せた、表情豊かな彼女からは想像がつかないような冷たい言い方だった。


次々と美しい蝶を吐き出した彼女の心の奥底に隠されていた、凍みついた一握いちあくの氷から立ち昇る冷気が彼女を凍り付かせている。


修吾は、その氷を砕く、彼女を突き刺すような言葉を見つけたかった。

しかし浮かびくる言葉はすべて薄っぺらで、発したところで彼女の冷たい表皮を不愉快に撫でることにしかならないと思った。


命の大事さなんて、彼女はとうにわかっているはずだ。


自分が死んだら悲しむ人がいるだろうことも、とうにわかっているはずだ。


これからも生きていればいいことがあるだろうということも、

この苦しみが一生続くわけではないということも、

まだ自分が子供と大人の間の不安定な時期にいるということも、

それゆえの葛藤かもしれないということも、


そんなことは、大人にさしかかった聡明な彼らはよくわかっている。


わかった上で、彼女は死を選ぼうとした。

すべて分かったうえで、命を捨てると言っている。未来を、要らないと拒絶している。

そんな彼女に、何を伝えたらいいのだろう。



「…俺は、お前がいなくなったら悲しいよ」



修吾は結局、自分が言いたいことを涙の代わりに零した。それだけしか言えなかった。


ぱた、と、いつか聞いた音が修吾の耳に響く。

奏多はあの日のように、静かな表情のまま目じりから涙を流していた。

その涙に、届くかもしれないと思った。今ならば。


「なあ、…もういいだろ。何があったか教えてくれ」


・・・・・・・・・


私なんて、産まなきゃよかったんだって。私がいるから不幸なんだって。

お父さんが出てってから毎日毎日、あんまりしつこいからこの前言ってあげたの。

『じゃあ生んじゃった責任取って殺せば』って。

そしたら、私なんて殺す価値もないんだって。

殺す価値もないって、すごくない?

勝手に消えろってさ。

なんかあ…背骨が引き抜かれたような感じがしたんだよね。

私の体も、人生も、何のよりどころも無くなっちゃった。


ホントは男の子が欲しかったんだって。名前も、同じ漢字でソウタって読ませたかったって。そんなん、私に言ってどうするつもりなんだろう。


もういい加減我慢できなくなって、お父さんに全部連絡した。電話には出てくれなかったから、全部メールしたの。

あんなに長いメール人生で初めて打った。


でも、どれだけ待っても返事は来なかった。


それで、…この痛みは、意味が無いんだって分かった。

産まなきゃよかったって言われてどれだけ傷ついても、…世界には私も、私の痛みも意味が無い。私の怒りも悲しみも、誰の心も動かさない。


だったら、私が今感じているこの気持ちは一体何のためにあるの。

私の苦しみは一体何のためにあるの。

だから、思い知らせてやりたくなった。せめて私が所属する世界にだけでも。私の苦しみを。

この痛みが確かに存在することを、現実に知らしめてやりたかった。


だから、死のうとした。終わらせたかったの。


それで、ネット心中に申し込んだんだけど。それが、めんどくさいタイプのやつでさあ。

何で死にたいのかって、喋れって言われて。私が話したら、おっさんの一人から『そんな理由で死ぬな』って言われて。帰されそうになって。

『若いのに』とか。意味が分かんなくて。


それで、珍しく私めっちゃキレちゃってさ。…お前に何がわかるんだーとか、お決まりのこと言ってたかもしんない。


そんで、私を仲間に入れないなら警察に通報するって言った。そしたら思いっきり殴られたの。

殴ったおっさんは、確か、借金が返せないから奥さんと子供のために死ぬって言ってた人だった。

家族のためを思えるような優しい人でも、死ななきゃいけないような世界なんだね。…ねえ、そうなの、先生。


…産まなきゃよかったとか、死ぬなとか、みんな勝手すぎない?

ホント、あんたたちは私をどうしたいのよって感じ。


…ああでも、きっとあの人たちは、今はみんなもういないんだね。

…あの優しいお父さんも。


・・・・・・・・・


奏多の静かな独白を、修吾はただ彼女の隣に腰を下ろしてくうを見つめて聞いていた。


彼女を見捨てた実の父親がのうのうと生きていて、彼女を救った見知らぬ父親がもう存在しないであろうという事実は、世の理の形を酷く歪めてしまっていると修吾にも感じられた。彼も、その優しい父親の死を悼んだ。


奏多は、いつも世界の機嫌を窺って遠慮がちだったその少女は、まるでもう自分に貢献できることはないと、だからそのまま消え去りたいとでも言うかのように、座椅子の上で小さく小さく膝を抱えている。


「…ウリの話をしたとき、買うかどうか聞いたのは、何」

「…生きる価値も殺す価値も無くても、買う価値はあるのかと思ったら面白くて。そうやって生きていけばいいのかと思った」

「…お前それ、本気で言ってるの」

「…さあ」

律儀な少女は短く答えた。


「…死にたいやつが、なんでわざわざ勉強すんの」

「…生き残っちゃったとき困るじゃん。それに、他に何すればいいのかわかんないし。勉強は嫌いじゃない。勉強してると、何も考えなくて済む」

その奏多の言い草に修吾がかすれる声で訴える。


「…今でも、…死にたいと思ってるのか。そんなわけ、…ないだろ…!」

「…先生に、迷惑はかけ「そんな話してねえだろ!」

予想できた、下手に話題をそらそうとする言葉に修吾は声を荒げる。視界の端で奏多が肩を震わせたのが目に入り、修吾は大きく息をついた。


「質問に答えろ。

…一緒にお前が作ってくれた飯食って、お前はつぶれてる俺を助けてくれて、同じ本読んで、映画見て…楽しくなかったかよ。

お前はずっとその間も、死のうと思ってたのか。能天気に喜ぶ俺を見て。俺をだまして遊んでたのかよ!」


あんなに、と修吾は漏らした。それに続く言葉はなかった。


酷い裏切りだと思った。こんな曇天返しは要らなかった。


修吾の激昂に、床に転がる蝶がカサリとその羽を揺らす。


修吾は手のひらを固く結んだ。あの本の少女とは違い、修吾の手のひらにある感情は、彼女が正しく健やかに生きていくためには握りつぶされるべきものだった。


その蝶の息の根を止めようとして、修吾は一つの隙間もないように拳を固める。


奏多は虚ろな顔のまま口を開く。

「…先生らしくなくない?私、先生なら詮索してこないと思ってここに来たのに。いつも、適当だったじゃん。…いい意味で」

…この家に来たのは失敗だった。自嘲しながら奏多が言った。


嘘だ。と修吾には分かる。

生徒と教師のその距離に足を踏み入れさせたその張本人に問う。


「なんで。何が失敗なんだ」

「…バレちゃったから」

「バレたら何なんだ。バレたところで、お前をずっと見張っておくことなんて俺にも、誰にもできない。

死のうと思えば、いつでも、…死ねるだろ。

…そんなことじゃないだろ。何が失敗なんだ。言ってみろよ…!」


未だ未練がましく死の淵に立とうとする彼女には、この五日間を認めさせる必要があった。

膝を抱える奏多の拳が、ギュっと音を立てる。その顔が苦し気に歪む。


奏多が息を吸う。その息は言葉にならず吐き出される。その吐息に、彼女の心の中の天秤がかすかに揺れる。


また、吸う。

修吾の耳に震える吐息が聞こえる。

こっちに来い。揺れる天秤に修吾は願った。


三度目に大きく吸い込んだ息で、

「…楽しかった、から」

まだ未練の残るような声で、それでも奏多は弱弱しく呻いた。


ようやく彼女はそれを認めた。その言葉に修吾はきつく顔を覆う。


青白い死に様を晒していた蝶たちに少しずつ色が戻り始める。


「楽しかった、よ」彼女の心から溶け出た氷がその目から零れた。

一匹の蝶が、宙に舞い上がる。


「…私だって、楽しかった…」奏多はようやく顔を歪めて泣いた。


修吾が何かに耐えようと奥歯を噛み締める。体を石にするように固く力を込めた。


ざわざわと音を立てながら、蝶たちが力強く羽ばたき、渦を巻いてもう一度この部屋にその色とりどりの甘やかな鱗粉を振りまいていく。

そのうちの一匹が修吾の肩に止まる。その蝶は、慰めるかのように修吾の肩に寄り添い続ける。


かすかな震えさえも封じ込めていた修吾は、しばらくしてそれにようやく耐え切った。


奏多は彼がそれを飲み込もうとするのを、悲痛な面持ちで一度だけ見た。


力なくうなだれた修吾が疲れ果てた声で口を開く。


「お前さ…、よく覚えといて。

酒に酔いつぶれたくだらない俺のために、深夜にあんな顔でコンビニまで行ってくれた、それがどれだけ嬉しかったか。

いつもケラケラ笑ってるような奴が、俺の前でぽろぽろ泣いた姿がどれだけ綺麗だったか。

わざわざ嫌いな圧力鍋持ち出して作ってくれた角煮が世界で一番美味かったってことも。

玄関開けて、夕飯のいい香りがすることが楽しみになっていったことも。

だから、…もう絶対に、何があっても、誰に何を言われても、死のうなんて考えるな」


言う事聞くんだろ、と古い約束を持ち出した修吾は少しだけ顔を持ち上げて隣に座る彼女を見る。

奏多も潤んだ瞳で苦しげに修吾を見た。修吾がその瞳の奥を見つめる。


「お前が生きてることは俺にとって意味がある」


その言葉は確かに、拠り所をなくした奏多の心の中心に残酷に刺さった。その痛みに動揺するように奏多の瞳が大きく一度揺れる。


それを見届けた修吾は、目を閉じて長い溜息をつくと、奏多の肩をそっと叩いて立ち上がる。

「行こう」

「どこに」

「学校。石津先生知ってるか」

「…カウンセラーの」

「待ってくれてる。一緒に行こう」


・・・


昨夜修吾が送ったメールへの石津からの返信は驚くほど素早かった。確信はまだ無いですが、と概要を伝えると、石津は今日の予定をすべてキャンセルして時間を作ってくれた。


生徒指導室で待っていてくれた石津は、涙目の奏多を見て一人で頑張ったのねえ、と彼女を抱きしめ、日差しを浴びるスズメのようなふっくらとした頬を彼女の頭に寄せた。


奏多はまるで物語を読むかのように、理路整然と自分の身に起こったことを説明してみせた。


その冷静さが、修吾にはまた痛々しかった。


奏多が修吾の家にいたことが分かると石津は少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに目の小じわを深めて良い先生が担任で良かったわねえと温かに言った。


一連の話を聞き終えると石津は修吾を伴って廊下に出、彼女の母親をすぐに呼ぶように言う。修吾は心得たように頷いた。

修吾が少し離れた場所で緊急連絡先である母親の携帯に電話をしている間、石津はまたなにがしかを奏多と話しているようだった。


母親は家出中の娘の担任からの急な呼び出しに戸惑ったようだったが、今すぐに伺います、と弱弱しく言った。

修吾が隠しきれなかった、彼の声に含まれる怒気にあてられたのかもしれない。


ちょうど修吾が、奏多の母親との電話を終えたところで石津が部屋を出てくる。すぐ来るそうです、と告げた修吾に頷くと、カナちゃん、児相に一時保護してもらうことにしますね、と修吾を伺う。


「…はい。お願いします」

「それとね、先生の家にいたことは三人の秘密にしておきましょう。先生はたまたま街で会った彼女からお話を聞いたってことにして口裏をあわせてくださいな」

「…え。…でも…いいんですか」

思いがけない言葉に修吾が眉を寄せる。

「だってねえ」

石津が弱り切ったような、それでいて何か楽しいものを見たかのような顔になって笑いながら続ける。

「カナちゃん、絶対に先生に迷惑がかからないようにしてくれ、絶対に絶対にって何度も言うんだもの。終いには、約束破ったら死んでやるですって」

「…あいつ…ばかだ…」

とうとう修吾の体から力が抜けてしゃがみこむ。あいつ、人の話ちゃんと聞いてたのか。『死ぬな』って言ったばっかだろう。そんな修吾を見て石津はふふふと声を上げて笑う。

「まあ、最後のはただの脅しでしょうけれど。校内カウンセラーって柔軟な対応も必要ですから。…素敵な五日間を過ごされてたのね」

「…はい」石津の笑顔に修吾も笑顔で返した。


・・・


その後、奏多の母親と石津と修吾の話し合いは結局成立しなかった。

修吾ははじめ仇敵を打ち取らんとでもするかのような顔で母親を待っていたが、石津が来客用の会議室に連れて来たその様子を見たら苦々しげに顔を歪めるしかできなかった。


やせ細った体はまるで黒い緞帳どんちょうのような重々しい空気を背負い、あからさまに顔色が悪く目が泳いでいる。

その彼女の様子に、石津も奏多の話を切り出す前に彼女自身の状態を聞いた。不眠と食欲不振が酷いらしく、素人目ながら明らかにうつ状態だと思われた。

石津も同じことを考えたようで、そのまま彼女と二人で学校と提携している心療内科に向かった。その間、修吾と奏多は荷物をまとめて学校に戻ってくるように言われる。


コンコンと生徒指導室のドアをノックして扉を開ける。疲れ果てたようにテーブルに突っ伏したままの奏多が視線だけを修吾に向けた。

「…石津先生、いい人だったろ」

修吾が少しためらってから当たり障りの無い話題を振る。

「…うん、めっちゃいいおばちゃんだった」

「お前ね、先生におばちゃんはやめろよ」

「先生だってキム兄って呼ばれてんじゃん」

言いながら奏多はテーブルから体を引き剥がすようにゆっくりと体を起こして立ち上がる。

「家、行くの?」

「そう。…着いたら、荷物まとめて」

「ん」

奏多はどこかボーっとした様子で職員用の駐車場に向かう修吾に続く。


来た時と同じように車の後部座席に座った奏多を確認した修吾は、運転席から「お前さあ、石津先生のこと『死ぬ』って言って脅したって?」と校内では飲み込んでいたセリフを吐いた。

「げ。イッシー言っちゃったの」

修吾はバックミラー越しに奏多を睨んだ。

「お前、人の話ちゃんと聞いてたの?俺それ聞いた時、マジで膝から崩れ落ちたんだけど。あとイッシーもやめろ」

「聞いてたよ。言葉のアヤってやつじゃん」

「アヤでもダメ」

「けちー」

少しずつ、奏多がいつもの調子を取り戻している様子に励まされた修吾が口を開く。


「…相良」

修吾はじっと前だけを見つめる。

言うべきことは分かっていた。

それを言うべきであることも分かっていた。

「ん」

「ちゃんと、一緒に卒業してくれよ。それで…」

修吾は一度だけ、きつく目を閉じた。

「…ちゃんと、幸せになりな」

「……うん、………わかった」

返事は長い沈黙の後に返された。彼女がどんな表情をしているのかは確かめることができなかった。


・・・


こうして、彼女は修吾の部屋から巣立っていった。

すべて終わって帰宅したとき、ただいまは意識して飲み込んだ。

一人になった部屋で修吾はしばらく立ち尽くした後、ゆっくりと部屋を見渡した。

彼女の痕跡が無い場所を探したかった。

それでも、彼女の言葉に息を吹き返した数々の美しい蝶たちはテレビにも、テーブルにも、本棚にもキッチンにも未だその彩りを残していた。

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