モモンガの欠席 4
ずきずきと胸が痛かった。
エイミーは自分の胸の上に手を当てて、ぼんやりと足元に視線を落とした。
足元には、雨に濡れた青々とした芝生と、それからところどころに小さな水たまりがある。
ここは十一年前、エイミーが落とし穴を掘った場所だ。
ライオネルを驚かせようと思って落とし穴を掘って、彼を落とした場所。
この落とし穴がなければライオネルと婚約することもなかっただろうが、この落とし穴のせいでエイミーはライオネルに嫌われた。
(嫌いって言われることなんて、珍しいことじゃないのに……)
今日、カフェテリアで言われた「嫌い」。
どうしてかあの言葉が、野ばらの棘のように胸に深く刺さって抜けない。
嫌いなんて、いつも言われているのに。
ライオネルがエイミーのことを嫌いなんて、知っているのに。
それなのに今日のあの言葉は、いつもと違う響きを持ってエイミーの心に突き刺さった。
(十一年前に、ここに落とし穴を掘らなかったら、もしかしたら殿下はわたしに『好き』をくれたのかな)
ふと、考えても仕方のないことが頭の中をよぎる。
エイミーはそっとその場にしゃがみこんで、濡れた芝生に触れた。
「何をしていらっしゃるのですかお嬢様!」
そのとき、背後から高い悲鳴が聞こえてきて、エイミーは振り返る。
侍女のスージーが血相を変えてお仕着せの裾を持ち上げてこちらへ駆けてくるのが見えた。
スージーは、エイミーが七歳の時から側にいる十歳年上の侍女だ。乳母のマルソン夫人が去ると同時に雇い入れられ、依頼エイミーの良き相談相手で良き姉のような存在だった。
「スージー、濡れちゃうわよ」
「その言葉はそっくりそのままお嬢様にお返しいたします! 傘もささずに雨の中を……ああっ、こんなに濡れて! 風邪を引いたらどうするんですか!」
「ちょっと、考え事をしたい気分だったの」
「雨に打たれながらですか⁉」
城から戻って、ふらりとエイミーは庭へ向かった。
出迎えた執事は怪訝がったが、庭を少し見に行くだけだろうと別段止めはしなかった。なぜならエイミーは、たまに妙な行動を取ることがあって、執事も慣れっこになっていたからだ。
しかしスージーは、いつまでも部屋に帰ってこないエイミーが気になって探しに来てくれたらしい。
スージーに手を引かれて玄関に戻ると、執事がギョッと目を向いた。
「お嬢様、傘を差さなかったんですか⁉」
執事もさすがに傘もささずに庭に降りたとは思わなかったのだろう。
大慌てでメイドにタオルを持ってこさせる。
スージーにわしゃわしゃと頭を拭かれて、エイミーは二階の自室につれて上がられると、問答無用でバスルームへ押し込まれた。
玄関で騒いでいるうちにバスルームの準備は整えられていたようで、バスタブには温かいお湯が湯気を上げていた。
バスオイルで乳白色に染まった湯に身を沈めると、スージーが髪を洗ってくれる。
「お嬢様、いくら暖かくなってきたとはいえ、こんなに濡れたら風邪を引いてしまいますよ。まったく、小さな子供じゃないんですから!」
スージーはぷんぷんと怒っている。
「……ねえスージー」
「なんですか?」
「『嫌い』が『好き』に変わることって、ないのかしら」
「……え?」
スージーはシャボンを泡立てるのをやめて、エイミーの顔を覗き込んだ。
「殿下に何か言われたんですか?」
「……ううん。いつも通りよ」
そう、いつも通りのはずだ。だってライオネルはエイミーにいつも「嫌い」と言うから。
(いつも通り……のはずなのよ)
何も変わらない。変わらないはずなのに――、この胸の痛みは本当に何なのだろうか。
何でもないわと言うと、スージーは少しだけ躊躇いを見せながら、再びエイミーの髪を洗いだした。
少し甘いシャボンの香りを嗅ぎながら、エイミーは目を閉じる。
薔薇に蜂蜜を混ぜたようなこの香りは、エイミーが二番目に好きな香りだ。
一番目は、シトラスミントのライオネルの香り。
ライオネルと婚約してから、彼に無視されるのが嫌で追いかけまわした。
無視されるより面と向かって嫌いだと怒ってくれた方が、エイミーには何倍もましだと思えたから。
でも――
(これ以上は、ダメなのかしら?)
これ以上追いかけまわしたら、「嫌い」が「もっと嫌い」になってしまうのだろうか。
真顔で――冷ややかな顔で「嫌い」だと宣言されるほどに、エイミーはライオネルを追い詰めてしまったのだろうか。
(これ以上嫌われるのなら……昔みたいに、無視されていたほうがましなのかしら?)
何の関心も示してもらえず、視線も合わせてもらえない。
そんな関係の方が、「嫌い」が「もっと嫌い」に、そして取り返しがつかないほどに「大嫌い」に変わってしまうよりも、ずっとましなのかもしれない。
「今日は旦那様も奥様も、パトリック様も外食ですから、夕食はお嬢様の好きなものばかりですよ。だからそれを食べて元気を出してください」
「……うん」
返事をしながら、エイミーは、口の中で「もう無理なのかな」と小さく小さくつぶやいた。
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