第23話
結局六時少し前に、私と信乃は、怜於とともに、船の玄関前に立った。呼び鈴を押すと、晴れ着の善さんが、扉を開けてくれた。
黒いタキシードの龍明と、髪をまとめ、化粧をして、黒に見えるような赤いドレスを着たチカちゃんが、黒い公爵とともに、ポーチへと出てきた。
豪華な二人と一匹の様に、このトリオがこの家の顔として並ぶのも、これが最後だろうかと思えば、いささか寂しくなった。
いつも通りの鷹揚な顔で、龍明は私に言った。
「やっと来たな」
怜於が仏頂面で言った。
「俺とあっちで、少し話してたんだよ」
チカちゃんが信乃に言った。
「いらっしゃい。化粧室というか控室というか。そんな部屋を、二階につくったんだ。淑女の部屋では、花嫁が今お着換え中だ。部屋を確認がてら、先に彼女と会う?」
「お願いいたします」
信乃はにこやかにそう言った。二人の離縁をすでに聞いていたが、二人が一緒にいることに、戸惑う様子は見せなかった。ただ、まるで怜於を庇うように、さりげなくチカちゃんから遠ざけた。
信乃は怜於に言った。
「薫さんに、お祝いを言いたいの。一緒に来ない?」
怜於は笑った。
「今日はこんな格好だけど。まだほとんどの人が、俺を男だと思ってるんだ。入ったら、大騒ぎだよ」
「すぐに戻るわね」
船のなかへと信乃が去ると、少しばかり険しい声で、怜於は龍明に言った。
「近づいてこられると、怒鳴っちまう。今日は俺に近づかないように言ってよ」
龍明は怜於を、軽く抱き寄せた。
「今日はとても綺麗だ。怒鳴るには不向きな姿だな」
怜於は何も言わず、甘えるように龍明に凭れた。
六月十二日から、龍明と怜於は、また一段と接近していた。龍明は毎日、赤ん坊をあやすように、怜於の機嫌をとっていた。
授業はなくとも、生徒と父兄の様子が気になったので、私は何度か船を訪れた。
あの子に応えるつもりがないなら。酷というものだ。
龍明にはそう言ったが。ついついそうしてしまうのか。それほど酷いことだとは思わないのか。その後も怜於を、ヨチヨチアババと甘やかしていた。
久世くんがタキシード姿でポーチに現れると、龍明はやっと怜於を離した。たっぷり一分間は、抱きしめていたか。
今日の主賓二人は、私と信乃が、怜於と話し込んでいるときに到着。どちらもこの日の衣装に、船で着替えたらしい。
久世くんは我々の前に立つと、怜於の額を人差し指で突いた。
「今日は化粧もして、ずいぶんベッピンだ。兼平さんは、おまえに振られたことを、悔しがってるぞ」
チカちゃんが船から去った翌日。久世くんから、問い合わせの電話があったという。あらましは話してある。龍明はそう言った。
久世くんの言葉に、怜於は顎を上げ、彼を睨んだ。この頃はまだ、久世くんより、いくらか小さかったのだ。
久世くんは笑って、怜於に言った。
「おまえもしかし、人が好いね。おまえが解放しなきゃ、きっとおまえを嫁にしたし。結婚して数年たてば、おまえのもんになったのに」
怜於は不満そうに言った。
「なんねぇよ」
久世くんは言った。
「あの人はこの数年ずっと独身だ。おまけにこの四月から、おまえに義理立てして、禁欲生活。だから今は、この数年の忍耐の対象が、女神様に見えてる。だけど毎日可愛がる相手ができれば、そんな気持ちは薄まってくもんさ。あの人は、色恋より家族って男だしな」
納得いかない顔の怜於を見て、龍明はおっとりと言った。
「知毅は家族思いのリアリストだが、久世よりは、ずっとロマンティストだ。どうかな」
怜於が知毅にしがみつけば、知毅は怜於を結婚しただろうし。怜於と結婚して数年経てば、怜於との絆が強くなって、チカちゃんへの思いは、薄れただろう。私もそう思ったが、久世くんの人間観には、賛同したくなかった。だから言った。
「たしかにあいつは君と違って、家族を大切にする男だが。配偶者のものになる男じゃない」
久世くんは我々を見比べて言った。
「色恋の相手よりは家族。家族より仕事。仕事より世界。ま、昔気質の、真面目なお方です。龍もあんたも、あの人にとっては、この世界にいるべき、あらまほしき人間で、だから女より重い」
わからないという顔で、顔を顰めている怜於には、こう言った。
「たいていの男は女好きだが、自分の女より自分が好きだ。自分の女より惚れてる男がいる。そんなのも珍しくない。そういうことだ。女として生きてくつもりなら、覚えておけ。あと、あの人は良くいる、つまんない男だ。諦めたのはお人好しだが、龍のほうが、百倍は良い男だ」
怜於は何か言いたげな顔をしたが、この時、襟の高い、真珠色のドレスを着た薫の君が、チカちゃんと信乃を従えて、玄関の扉から現れた。
「君が決めたことだ。一応おめでとうと言っておくが。今日の君は綺麗すぎて。腹が立つな」
私は薫の君に、渋々という気分で、そう言った。
薫の君は、私をからかうように笑った。
「一応、ありがとう。でもこの結婚、悪くないかもしれない」
「そうかな」
「だんだん、そんな気がしてきた」
久世くんと薫の君を見て、龍明は言った。
「行こうか」
チカちゃんが薫の君の背を押して、薫の君が信乃の手を引いた。
ポーチを下りて、南の庭へ向かう五人の後ろで、怜於が呟いた。
「みんな、何で結婚なんかするんだろう」
「理由は、人それぞれだろう」
私は小声でそう応えた。
私と怜於は、五人より少し遅れて、小声で話しながら、南の庭へと向かった。
「結婚って、なんか色々面倒そうだし。お互い好きなら、それでよくない?」
「生まれてきた子供が大変だ」
「知ってるよ。俺、私生児だったもん。でもそれはさ。そういう差別をなくしましょうって、問題じゃん」
「そういう考えで、よく知毅と婚約する気になったな」
「結婚する気がないなら、俺のことは諦めろ。そう言われたからな。それならするしかないかなと。咄嗟にそう思って。するって答えちまった」
「昔の家は、血脈とともに、ずっと続いてきたもので。昔の結婚は、どちらかの家に、組み込まれていくものだった。結婚はそういうもので、そういうものとは無縁でいたい。僕はそう思っていたんだが」
「あんたは信乃に、結婚を申し込んだ」
「見合いをすると聞いて。気が付くと。申し込んでいた」
「俺とそう変わんないじゃん」
「そうだな」と思わず笑い、私は言った。
「結婚すると、新たに戸籍がつくられて、新しい家ができる。結婚して、彼女と二人で生きていければ、心強いかもしれない。彼女となら、家を作るのも、楽しいかもしれない。今はそう思ってる」
怜於は立ち止まり、私の顔を見つめた。
私は言った。
「結婚は、恋の終着駅じゃない。二人で生きていく。そう決めたときの、出発点だ」
私の言葉を、どう受け取れば良いかわからない。怜於はそんな顔をしていた。
南の庭では、臨時雇いの調理人たちが、幾つかのバーベキューの装置の後ろに陣取り、時間がかかりそうなものを焼きはじめていた。庭には、肉や野菜を焼く、香ばしい匂いが、すでに漂っていた。
白いクロスのかかった長いテーブルには、鮨や前菜、冷たい料理が、もうだいぶ並んでいた。私たちが庭に出た時、律さんと臨時雇いの料理人が、また皿を運んできた。
三人の臨時雇いの給仕人は、小気味よい素早さで、客に飲み物を運んでいた。
客人たちは、幾つもの丸いテーブルに分かれて、グラスを片手に、宴の開始を待っていた。
一つの席では、色とりどりのドレスを纏う、薫の君の「うちの女の子たち」が、どういうわけか、紋付き袴の我が父を、とり囲んでいた。
生母は、少し離れたテーブルに。おそらく父が、生母に合わせたのだろう。やはり和装であった。単衣に仕立てた江戸小紋、藤色の大小霰に、幾何学模様の黒い袋帯。化粧も髪も隙なく整え、舞台上の彼女を、彷彿とさせる装いだった。
生母のテーブルには、薫の君の女の子たちのなかでも、年嵩の二人がいた。知毅もそこにいた。
そのすぐ近くのテーブルに、ナオミちゃんと慎くんがいた。慎くんはタキシード。ナオミちゃんは、夜目にも鮮やかな赤いドレス。どちらも瑞々しく、美しかった。
おそらく久世くんの部下と思われる、私の知らない若い男たちのテーブルがあった。そこの男たちは、ナオミちゃんが、気にかかってならない様子だった。
家の主と主賓を迎えて、客人たちは立ち上がった。
薫の君の女の子たちはみな、怜於とは顔馴染みらしい。そして怜於を、男子と思っていたらしい。怜於を見つけると、わらわらと寄ってきた。
「やだ。カワいい」
「どしたの?ドレスなんか着て」
怜於は彼女たちの中央で、くるりと回って、見せつけた。
「イケてるだろ」
似合う似合うと騒ぐ女性たちに、怜於は偉そうに言った。
「余興余興。みんなも仮装くらいしてこいよ」
薫の君と久世くんを中央に立たせると、龍明は、よく通る声で言った。
「今日はこの二人の結婚祝いだ。みんなできるだけ楽しんで、二人の未来を、祝ってやってくれ」
給仕たちが、次々とシャンパンの栓を抜き、龍明と久世くんの、昔馴染みだというバンドマンたちが、楽器を掻き鳴らした。あちらこちらで、客がクラッカーが鳴らした。祝いの拍手も賑やかに、この日の饗宴ははじまった。
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