第35話 直談判
「それは無理だな、行かせることはできない」
にべもなく言い放つクラウスに、執務机に身を乗り出すようにしてリアは尚も言い募る。だが、クラウスは渋い顔のまま、首を横に振るばかりだ。
執務室に着いて早々、悪天候の原因がヴェルタの聖女の交代に起因するのではないか、生命の水が上手く浄化できていない可能性があるから、自分を神殿に行かせてくれと懇願したのだが、クラウスは顔を曇らせ、無理だと言ったのだ。
雨脚は強く、無数の雨粒が窓や壁、屋根に激しく打ちつける。
「なぜ⁉ このままじゃあ、全てダメになるわ!」
机に手を着いて、クラウスの顔を覗き込むと、彼は深く息を吐き、肩を竦めた。
そして、ちらりとリアを見てから、くるりと体の向きを変え、背後の窓に目をやった。
見事に整えられた庭園が臨めるはずの大きな窓には今、次から次へと叩きつけられる雨粒しか見えない。
「こんな嵐の中、馬車が走れると思うか?」
静かで、低い声が落とされた。
「お前を、嵐の中へ送り出せと?」
自嘲気味な声音の中に、労わりと優しさを感じ、リアは体を起こし、まっすぐクラウスの後ろ姿を眺める。
(この人は……)
クラウスが反対しているのは、リアが心配だからだ。
それほどまでに、リアを想っている。その事実が、リアを戸惑わせる。
クラウスから求婚されたのは数日前だ。
午後のお茶を共にしているとき、彼は改まったように居住まいを正し、リアに向かってこう言ったのだ。
「お前を正式な妻としたい。承諾できるか?」
その事務的な物言いに反して、クラウスの瞳は不安で揺れていた。
最初は何を言われたのか呑み込めなかったリアも、結婚の申し込みだと悟ると、冷静ではいられなかった。
ゲルトがリアとクラウスの関係を気に病んでいることを知った直後に、当のクラウスから求婚されてしまったのだ。
朝食後に仮眠をとったとはいえ、まだ寝不足気味で、更にはゲルトのことで頭がいっぱいなのに、クラウスの求婚などという突拍子もない事態に対処できるはずはなかった。
そわそわしてから、さっと立ち上がったクラウスは、囲っていた円卓をぐるりと回り込み、リアの傍らに膝をついた。リアは呆気にとられそれを見ていた。クラウスという人間が、女性にかしずくように、膝を折るなど信じられなかったのだ。
それから、膝の上に置かれていたリアの手をわずかに躊躇ってから掬い上げるようにそっととると、その指の付け根に口づけを落とす。
その手も、その唇も、焼けるような熱を持っていた。
リアは咄嗟に手を引き抜き、仰け反るようにして立ち上がった。
振り仰ぐようにリアを見たクラウスは、微笑みとはいえないぎこちない笑みを口元に浮かべた。
「急ぎすぎたな。少しなら待とう。だが、俺の気が短いということは忘れるな」
一瞬目を伏せ、次に視線を交わしたときには、既にいつもの自信に満ちた顔に戻っていた。そして、リアを残し、そのままその場を去って行った。
呆然とするリアは、背後で興奮して口をパクパクさせているコリンナを見ることもなく、すとんと椅子に腰を落とした。
だが、それ以後、態度が変化することはなく、返事を催促されることもなかったため、あれは夢だったのかもしれないとどこかで逃げようとしている自分がいたのだ。
「俺は愛する者をむざむざ死出の旅に送り出すような酔狂な男じゃない」
続けて紡がれた言葉に、リアは何も言えなくなった。
クラウスは、真心からリアを好いているのだろうか。母親の瞳と似た瞳を持つというだけの少女を。
窓からリアに視線を戻したクラウスの漆黒の瞳には、甘やかな煌めきがあり、それを認めたリアはすぐに目を逸らした。
——俺は邪魔か?
——俺は、消えた方がいいか?
脳裏に過るのは、ゲルトの顔だ。もう二度と見たくない、哀しいゲルトの顔だ。
「確かに、そうだわ。こんな嵐では馬も走れない」
リアはぽつりと呟いてから、頭を下げた。
「お仕事中、ごめんなさい。もう、行きます」
そして、クラウスと視線を合わすことなく、背中を向けると執務室の扉に向かった。
声を掛けようとするクラウスの息遣いを感じたが、それを敢えて無視して、執務室を後にした。
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