第9話 再び

 自室の寝台にふわりと下ろされたリアは、深く息を吐いた。四肢に力が入らない。今まで、力を使ってここまで疲労感を感じたことはないのだ。


(見たこともない石だった。ずいぶん力を使ってしまったのかな。水清めの儀から時間も経ってなかったし)


 考え込むリアの目の前に、杯が差し出された。驚いて顔を上げれば、ゲルトが心配顔で見つめている。


「起きられるか?」


 起き上がろうと手を着くが、力が入らない。


「無理みたい」


 ゲルトは杯を寝台脇にある卓に置くと、リアの背中と寝台の間に手を差し込み、優しく押し上げる。そして、支えるように腕を回した。もう片方の腕を伸ばし、杯を取ると、リアの口元に寄せる。


ちらとゲルトを見てから、リアは小さく礼を言って、一口含む。果実の香りがほんのり香る水だった。柑橘系の香りで、不思議と心が安らぐ。


「一体、何があったんだ?」


「アンナ様が、聖女になりたいんだって。それで、聖女はより力が強い者がなるべきだから、私に力を見せてみろって。神官長も了承してるって。クラウス様が黒い石を取り出して、それを浄化してみろって言ったの。姪っ子さんが欲しがっている石でもあるから、浄化してほしかったみたい」


「それで、浄化して……こうなってるんだな?」


 こくりと頷くと、ゲルトは険しい顔をした。


「神官長は何を考えているんだ……ヴェルタの聖女はリアだ。一度聖女となれば、力が尽きるまで聖女でいなくてはならない。今まで、途中で交代したことなどないはずなのに」


 応接間での神官長の様子はどこかおかしかった。

 後ろ暗いことがあるのか、ほとんどリアやゲルトに目を合わせなかったのだ。


「そうだよね。私もおかしいとは思ったんだけど……」


 そうは言っても、神殿内の序列では神官長が最上位だ。表向きは、聖女なしでは成り立たない神殿ではあるので、聖女の地位は高位に位置するのだが、聖女と言えど十代の小娘に違いない。自分の半分も生きていない小娘にこびへつらう年寄りなどいない。


「あとで問い詰めるか……とりあえず、リアは休め」


 何の躊躇もなく残りの水を呷ると、手を伸ばして杯を卓に置き、両腕で優しくリアを横たえる。

 それから近くにある椅子を運び、寝台の脇に置くと、ゲルトは腰を下ろした。


「あ、お昼まだだったよね。私は喉を通りそうもないから、ゲルトだけでも何か食べてきて?」


 パン作りをしてから、昼食にありつこうと思っていたのだが、予定が狂ってしまった。

 食事はたいてい自室で摂ることにしている。食堂はあるのだが、神官たちが使っているので入りづらい。天気が良ければ、外で食べることもある。いつもゲルトが一緒だ。


「リアが食べられないのに、俺だけ食べられるかよ」


 眉根を寄せるゲルトに、リアは首を振る。

 育ち盛りの男子なのだ。しっかり食べてもらわなければ困る。けれどゲルトは口を引き結び、腕を組むと、背凭れに寄りかかった。頑として動く気はないようだ。

 

 リアは小さく息を吐く。

 ゲルトが動かないのは、リアと合わせようとしているというよりは、リアから離れないためなのだ。村にいるときからそうなのだが、可能な限りずっとゲルトはリアの傍にいた。とはいっても、村にいたときは、家業の手伝いや、剣術の稽古などでどうしてもリアと離れなければならないことが多々あったため、そこまで気にならなかったのだが——


 神殿に来てから、その行動が顕著になった。

 同じ屋根の下の隣の部屋で、しかも部屋の中に部屋同士を繋ぐ扉まである。

 だから、朝はリアが目を開ける前には衣服の準備などしていて、夜は寝入るのを見届けてからこっそり自分の部屋に引き上げている。

 

 常に共にあろうとするのは昔からだが、そのことに異常なまでに固執するようになったのは聖騎士という立場を得てからかもしれない。

 ヴェルタの聖女を守らねばならないという思いが、必要以上にゲルトを縛っているのだろう。


(もう少し、軽く考えればいいのに)


 リアとしては、ゲルトにはもっと自由でいてもらいたいと思う。

 聖騎士という立場は変えられないけれど、少しでも自分の時間を持ち、気持ちを安らぐひと時を過ごしてもらいたい。


(でも、今はとりあえず、何かお腹に入れてほしいな)

 

 それには多少の嘘も許されるだろう。空腹だと偽り、厨房に食事を取りに行かせよう。そう心に決め、口を開きかけたとき、どたどたと廊下を走る音が聞こえてきた。

 ややして、忙しないノックの音が響く。

 扉に顔を向けたゲルトの表情は堅い。


「はい、どうぞ」


 リアが声を上げると、間髪入れず扉が開き、先程厨房へと呼びに来た神官が慌てたように飛び込んできた。頭を下げることも忘れ、神官は息も絶え絶えに声を絞り出す。


「し、神官長がお呼びです。今すぐ、生命の間に来るように、と」


がたっと音を立ててゲルトが立ち上がった。


「なぜだ! 今、戻って来たばかりだぞ!」


 ゲルトの剣幕に押され、神官は身を縮ませて、ひっと息を呑む。


「聖女様は今休息をとっておられる。行くことはできないと神官長に伝えてくれ」


 恐怖に駆られる神官を見て、やや態度を和らげゲルトは言う。

 が、神官は怯える目で、ぶるぶると首を横に振った。


「もし、来られないようなら、聖女様の力はそこまでだったと……神官長が」


「なんだと⁉」


 声を荒げるゲルトが足を踏み出すと、神官は一歩退いた。


「先程、クラウス様が少し頼みごとをされたというのは伺っております。けれど、それしきのことで聖女の力は枯渇しないと。神官長の立会いの下、アンナ様とリア様の力を見極める儀式を行う仰っています」


「そんな勝手なこと——」


「行きましょう」


 リアはいくぶんかましになった体を起こし、神官を見つめた。


「リア‼」


 振り返ったゲルトが、咎めるような視線を送って来る。

 だが、行かないわけにはいかないのだ。

 ここで引けば、アンナに聖女の座を明け渡すことになる。


 正直、意味がわからないし、理不尽だとも思うのだが、そもそもあの神官長とはもとから馬が合わないのだ。別段、神殿のやり方に口を挟んだことも、意見が対立したこともない。だが、講義の講師と生徒として顔を合わせたとき、廊下ですれ違うとき——神官長の目からは、リアに対して、敬意や慈しみなどの心を一切感じなかった。むしろ、そこにあるのは侮蔑と憎しみ。

 それはリアの年齢がそうさせるのかもしれなかったが、おそらくそれだけではあるまい。


 奇異に映る銀色の髪。

 これが、神官長に良い印象を与えなかったのだろう。

 彼は、神の僕でありながら、人を容姿で差別するようなあさましい人間なのだ。

 そんな彼が言い出したことだと思えば、納得せざるを得ない。


「ゲルト、手を貸してくださるかしら?」


 リアが微笑んで見せると、ゲルトは諦めたように目を伏せ、寝台に歩いてくる。

 そして、屈みこむと、手を差し出した。


「ありがとう」


 差し出された手に、自分の手を重ね、ちらりと目を合わせれば、ゲルトの深緑色の瞳が不安で揺れていた。

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