第15話 天使と魔女の旅路とその終わり

「これが、私が世界にもたらした厄災か……」


 私たちはまた、襲撃されている街の真ん中にワープしていた。ミアは拳を握り締めて、血だまりをみつめている。これまでは狂気の仮面で隠せていた。けれどこれからは、真っすぐに自分の所業に向き合わなければならない。


「大丈夫ですか? ミアさん」

「……私は散々酷いことをした。人々を不幸にした。傷付けた。お前にだって……。なのにどうしてお前は、私を見捨てないのだ?」


 私は能力を用いて凶暴なイデアを一斉に始末した。飛竜が降ってくる中、ミアはただただ辛そうに桜をみつめている。 


「そんなの、決まってますよ。私が、ミアさんのことを愛しているからです」

「ちょっと、二人とも。こんなところでいちゃつかないで」


 私がため息をつくと、桜は顔を真っ赤にした。


「い、いちゃついてなんてないですよっ!」

「……それが、私に植え付けられたものだとしてもか?」

「はい! というか、むしろ嬉しいです。ミアさんが私に好いてもらいたかった、ってことですもん。嬉しいに決まってますよ」


 するとミアはほのかに頬を赤らめた。


「……そうか。……だとするのなら、私は君を裏切ろうとしているのだな」

「そんな、裏切るなんて」

「……許してほしい。桜」


 桜は何とも言えない表情をしていた。ミアもうつむいてしまっている。私はため息をついて二人の背中を叩いた。


「手早く信仰を集めないといけない。ほら、いくよ。この街を救ったのが誰なのか、知らしめに」

「……すまない」

「ごめんなさい。美月みつきさん」

「やれやれ……」


 私たちは街で一番高い建物に登って、またしても桜を咲かせた。どうやら多少の知名度があるらしく、桜によると私はみんなから「春をもたらす桜の女神」と呼ばれているらしかった。


 嬉しいような、嬉しくないような。なんていうか、私のセンス的には「万物を平定せし救世主オールイズマイン」とかの方がずっといいと思うんだよね。


「流石にそのセンスはどうかと思う……」

「……私も同感です」


 話したらなぜか二人には引かれちゃったけどね。全く、どうして私の感覚を理解してくれる人は、こうも少ないのか。私のセンスがあまりにも高度過ぎるのだろうか? まぁでも二人の雰囲気は私の発言で少しではあるけれど、柔らかくなっている。良かった。流石私だ。神になる女なだけはある。


 なんて考えていたら、頭の中に不気味な声が聞こえてきた。それは意識的に私の意識を乗っ取ろうとしているみたいだった。今はまだ弱いけど、そのうち乗っ取られちゃうのかな。


 でもミアのお姉ちゃんを蘇らせるまでは、二人の願いを叶えるまでは頑張らないと。ミアは心から自分の行いを悔やんでいる。罪を償ってもらうためにも、生きる希望は必要だ。


「大丈夫ですか? 美月さん」

「大丈夫だよ。なんか変な声が聞こえてきただけだから」

「すまない。もっとも私などの謝罪は受け取りたくはないと思うが……」


 二人とも世界が終わったみたいな顔をしている。


 なんて言うか、この組み合わせ、ちょっとしたことで滅茶苦茶雰囲気が暗くなりかけるんだよね。仕方ないとは思うけど……。私は大慌てで「大丈夫だって」と笑顔を浮かべた。


 そんなやり取りをしているうちに、私の体に信仰の力がまた新たに宿るのが分かった。それと同時に人々の願いも届いた。私は人々の求めているものを与えてあげた。するとまたしても、信仰の力が増えていくのを感じる。


 背中に目を向けると、真っ白な翼の艶が良くなっていた。今はまだ見せかけだけの翼だけど、いつかは本当に飛べるようになるのだろうか? それで、いつか頭に天使の輪がついたりするのかも。


 きっと日葵ひまりがみたら、驚くんだろうな。あの子、私のためなら世界を滅ぼしちゃうくらい重い子だから。そういうところが可愛いんだけどさ。


 でもちょっと心配だな。日葵は私が日葵のお姉ちゃんであることを望んでくれていた。神様になるなんて、あの子の願いではないのだ。


 ……でもそれでも、私には力がある。目の前に助けを求める人がいるのなら救いたいと思ってしまう。もしも見捨てれば私はその瞬間に人間でなくなってしまうような気がするのだ。


 それになにより、無責任だって思われるかもしれないけれど、私は日葵を信じてる。昔は信じられなかったけれど、日葵は言葉で、……キスで私に思いの強さを信じさせてくれた。お母さんだって、一緒に逃げてくれた。


 二人ならきっと世界だって敵に回して、私を助けに来てくれる。


 そんな確信があるのだ。


 私は小さく微笑んで、二人の方を向いた。


「……さて。二人とも。この町は救ったから、次の街に行くよ」

「了解した」

「分かりました」


 ミアが爪をはじくと、ゲートが出現した。


「あれ、ゲートって連続で使用できないんじゃないの?」

「これは短距離用だ。長距離用ではないからすぐに使えるようになる」

「なるほど。流石イデアの始祖だね」

「……この程度、基本だ」


 ミアは照れくさそうに目をそらした。


「凄いものは凄いでしょ。素直に受け入れなよ」

「……む。……分かった。ありがとう」


 なんていうか、やっぱり妹なんだなって感じさせられる。姿は長身美人な大人だけど、今のこの人、日葵と同じオーラ纏ってるんだよね。ついつい頭を撫でてしまいそうになる。


「……。別に、撫でてもいいのだぞ」

「えっ?」

「……なんでもない。そもそもそんな資格、私にはないしな……」


 ミアは顔をほのかに赤らめながらも、悲痛な表情でよそを向いた。私は少しだけ背伸びをして、そっとその金糸のような髪を撫でてあげる。


「……いいのか?」

「別にいいよ。頭撫でるくらい」

「……」


 最初ミアはびくびくしていたけれど、やがては私にされるがまま、気持ちよさそうに目を閉じていた。桜は「流石お姉ちゃんなだけはありますね」と感心した様子で私をみつめている。


 やがて満足したのかミアはぶっきらぼうに「ありがとう」とつぶやいて、私に背を向けた。ちらりと見えた表情はとても恥ずかしそうで、頬も真っ赤に染まっている。ミアの見た目は大人びているから、ギャップのせいでなんだかなおさら可愛くみえてきた。


 まぁ我が妹であり恋人でもある日葵には遠く及ばないけどね。


〇 〇 〇 〇


 三人で人々を救い始めてから、一か月が経った。信仰が増え、人々の願いを叶える能力が強大になる。それに比例して頭の中の声は日増しに増えている。けれどまだまだ抵抗は出来そうだった。


「よし。もう大丈夫だぞ」


 私が人々を傷付けるイデアを潰す傍ら、ミアはアーティファクトの力を行使して、倒壊した建物に挟まれた女の子を救出していた。救われた女の子は、涙を流しながらお母さんの元へと走っていった。お母さんが涙を流しながら、何度も頭をさげている。


「……私に、感謝される筋合いなどないのだがな」

「素直に受け取ればいいんだよ。この事態を招いたのはミアだけど、あの子を救ったのもまたミアなんだから」

「……ならば頭を撫でてくれ。そうすれば、多少素直になれるかもしれない」

「あー。またミアさん甘えてます! 美月みつきさんに! 美月さんもミアさんのことあんまり甘やかしすぎないでくださいよ?」


 なんて言われるものの、ミアの妹オーラはかなり強い。姉として生きてきたから、頼まれれば拒めなくなるのだ。私が頭を撫でると、ミアは気持ちよさそうにしている。


「もう。美月さん。ミアさんがダメになっちゃうじゃないですか!」

「でもこんなのされたらね……」


 ミアは私よりもずっと長身な大人びた美人だ。そんな人がかがんで私の前に「なでてなでてー!」とでも言わんばかりに頭を差し出してくる。これを拒めという方が無理だ。……それにしても、桜もすっかり板についてきた感じがする。


「やっぱり桜ってお父さんみたいだね?」

「なっ!?」


 桜はショックを受けたのか、硬直してしまっている。

 

「ちょうど私もそう思っていたところだ」

「ちょっと! ミアさん!?」


 ミアにも背後から殴られて、桜は涙目になっていた。


「せ、せめてお母さんで……」

「お母さんか……」


 桜の言葉を受けて、ミアは考え込む。


「……いや、お父さんだな。強い父性を感じる」

「ちょっと!?」


 鋭い突っ込みを入れられるが、ミアはのほほんとした表情だ。なんていうか、二人を見ているだけで和んでくる。


「ちょっと。美月さん。笑ってないで助けてくださいよ!」

「別に悪口で言ってるわけじゃないよ? いざという時、頼りになりそうだなって思ってるだけで」

「……頼りになりそう、ですか?」

「うんうん」


 私が頷くと、桜は嬉しそうだ。これまでのことを考えたら笑顔になるのも分かる。……事情があったとはいえ、失敗作扱いだったわけだから。


「ふふ。そうですか。たくさん頼ってくださいね! 二人とも!」

「頼りにしている」

「桜がたくさん言葉話せるおかげで本当に助かってるよ」


 この一か月の間で、ロシアのほとんどの地域を巡った。恐らく、ここで最後だと思う。今日まで一度も、桜の言葉が通じなかったことはないのだ。


「ミアが喋れるようにしたの?」

「……いや、私は何もしていない」

「少しでもミアさんの役に立ちたくて、頑張って覚えたんです。この千年の間に。昔、一緒に国にパイプを作りに行った時は少しも役に立てなかったので」


 相変わらず、凄い子だなと思う。でもミアは相変わらず無表情で何考えてるか分からない。桜のことを褒めてあげたことはあるのだろうか? 桜はとても褒めてもらいたそうにしている。


「ミア。褒めてあげないの?」

「……だが、私なんかが褒めてもいいのだろうか」


 またそういうこという。全くこの子は。


「あのね。ミア。過去を背負ってしまうのは分かる。でも私たちは今を生きてるんだよ? 思い出してみてよ。ミアはたくさん傷付けたかもしれない。でもこの一か月でたくさん救ったでしょ?」

「……うむ」

「だからいいんだよ。そんなに気負わなくてもさ」


 ミアは小さく頷いて、よく分からない無表情で桜をみつめる。桜の頬はほんのり紅潮していた。好きな人にみつめられたらそうなっちゃうよね。


「……ありがとう。桜。そしてごめ……」

「ごめんはいらないって! みるからに桜、ミアのこと許してるでしょ?」


 ミアはしゅんと肩をすくめている。


「……すまない。謝らないようにする。だから、美月。私の頭を撫でてくれ」


 ミアはかがんで私の胸のあたりに頭を持ってきた。やっぱり妹なだけはある。その懇願するような上目遣いは問答無用で「姉」である私の心を射抜いてくる。 


「ミアさん……?」


 でも頬を赤らめていた桜は一転、頬を膨らませていた。それを見たミアは、反射的になのだろう。謝罪の言葉を口にしそうになる。


「ごめ……」


 だがすぐに私の言葉を思い出したのだろうか。頭をぶんぶん横に振った。


「い、いや、これに関しては私は悪くない。これからは美月に思う存分撫でてもらう。もう謝らないぞっ」


 何やら清々しい表情で、ミアは胸を張った。そのまま少し屈んで、私に頭を撫でて欲しそうな上目遣いを送って来る。もちろん、私は頭を撫でなかったけどね。顔を真っ赤にした鬼のような形相の桜が、ミアの後ろにぬるりと現れたのだ。


 そのあとミアがどうなったのかは、言うまでもない。


〇 〇 〇 〇


 三人で世界を救う旅を始めてから、三か月経った。ヨーロッパの国々を全て救うことができて、かなりの信仰も得ることができた。今はユーラシア大陸を南下して、インドにいる。私の評判は世界に広まっていて、もう何もしなくても勝手に信仰が広まっていくようになった。


 ユーラシア大陸のほとんどからは戦争は消え、平和になっている。


 日葵ひまりたちは私が「春をもたらす桜の女神」であることに気付いているだろうか? それとも、流石にここまで見た目が変わってたら気付いてないかな。


 何もしなくても集まる信仰のせいで、頭の中で響く声はもう無視できないレベルになっている。翼も二か月前よりも大きくなっていて、つやつやだ。試しに羽ばたかせてみると、鳥みたいに空を飛べるようになっていた。


 私もいよいよ人間離れしてきたか。頭に数えきれないほどの声を飼っていて、もしかすると明日には、……いや。一分後には主導権を奪われていてもおかしくない。


 けれどそれでも、まだ神になるわけにはいかない。未だ私には死者を蘇らせるほどの力はないのだから。


「……美月みつき。本当によかったのか?」

「大丈夫だよ。私の意志でこうしたんだから」

「……私は、大罪人で、願いをかなえてもらうような資格などない。美月と桜は気にしなくてもいいと笑ってくれるが、私は……」


 ミアはユーラシア大陸を巡る旅をするうちに、かなり明るくなってはいた。けれど三千年にも渡る罪悪感というのは忘れられるものではない。忘れていいものでもない。自らの願望が叶えられる。それを肯定できないのは、ミアが自分の過去に向き合っている証拠なのだ。


「ミアは生きないといけない。生きて、償わないといけないんだよ。自分のやったこと全て。だから生きる希望を失って死なれたら困る。償って、死ぬほど償ってさ、それで自分を許せる日が来たのなら、大切な人と幸せになればいい」

 

 桜がぴくりと顔をあげた。ミアも桜に視線をむける。


「……桜の願いも、叶えてやってくれるか? 桜をただの人間にして欲しい。私じゃない、もっと優しい人に出会わせてやって欲しい。……桜の人生を、世界で一番の幸せで彩って欲しい」

「もう。ミアさん。心配しなくても大丈夫ですよ。そんな深刻な顔しないでください」


 桜は極めて自然な笑顔を浮かべている。でもミアは相変わらずの表情だ。


「幸せにしてやれなくてすまなかった。私は桜に酷いことをした。……私なんかにはきっと桜を幸せにすることなんてできないし、その資格もない。でも幸せになって欲しい気持ちは本物なんだ」


 神の力で見通した桜の心は寂しさで満ちていた。きっと桜を本当の意味で幸せにできるのは、ミアだけなのだろう。でもミアは罪悪感ゆえにその可能性を排除してしまっている。


 ミアは桜を受け入れられなかった。ずっとひどい仕打ちをしてきたせいで。けれどそれでも大切に思っていたはずなのだ。千年もの間、ずっと。だからミアは桜を消すことができなかった。……ずっと自分のそばに置いていた。


 桜も自分は贋物だと自嘲するけれど、ミアを愛するその心はきっと本物にも負けていない。確かに最初こそ、その愛は作られたものだったのかもしれない。でも桜は事実を知っても、ミアが死んだ姉を蘇らせることを懇願してもなお、それでもミアのことを愛し続けていた。


 私たちは、ミアを救うために、死者を蘇らせるために旅をした。けれどその目的は、本当に正しかったのだろうか? 二人はお互いを誰よりも大切に思っているはずなのだ。なのに罪悪感や思いやりのせいで、分かたれようとしている。


 このままで、いいのだろうか。


 悩んでいる間にも、信仰が私を侵食していく。人々の願いに根差した万能の力は、私を神に作り替えようとしている。頭の中で響く無数の声も、もう限界に近い。私にはまだミアの願いを叶える力はないというのに。


 このまま神になってしまえば、取り返しがつかなくなる気がする。二人はこれまでのようにやってはいけないだろう。二人はかなり仲良くなったけれど、お互いに過去に縛られてしまっている。私という緩衝材がなくなれば、どうなるか分からない。


 願いを叶えられないというのなら、せめて二人には少しでもいい。幸せな未来を与えてあげたい。私はそっと二人の手を握った。


「……二人とも。これは私の個人的な意見なんだけど、私は二人に一緒に幸せになって欲しい。二人で生きていって欲しい」


 でも二人はお互いに目をそらすだけだ。こんなことを今さら言うのは、卑怯かもしれない。でもやっぱりこのまま私の大切な人が、……二人が離れ離れになるなんて私には耐えられない。


「桜はミアのことが好きでしょ?」

「……はい」

「ミアも桜のこと好きでしょ?」


 ミアは頷いた。おずおずと口を開く。


「……でも私は誰かを犠牲にすることでしか大切な人を救うことができない。大切な人を犠牲にしなければ、生きてゆくことすらもできない」


 ミアはじっと私をみつめる。


「美月。君は私に希望を与えてくれた。その身をもってして、私を生かそうとしてくれた。だから例えお姉ちゃんを蘇らせることができなくても、罪悪感なんて抱えなくてもいい。……でも私はどうやら、また取り返しのつかないことをしてしまったみたいだ」


 その瞳はうるんでいて、今にも涙を流してしまいそうだ。


「……私は三千年前、お姉ちゃんを見捨てて逃げた。今の状況も、それに似ていると思わないか? 美月。君は私に希望を与えるために、積極的に信仰を集めた。自らの寿命を縮めた。……どうしても、私を庇ったお姉ちゃんと、君の姿が重なってしまうんだ」


 一筋の涙が、頬を零れ落ちていく。


「私はまた大切な人を犠牲にしようとしている。三千年も生きたというのに、私は未だに三千年前と変わっていないんだよっ……」


 ミアは顔をくしゃくしゃにして、目を閉じた。


「……美月。私は間違っていた。神を呼び出そうだなんて、考えるべきではなかった。美月の言葉に甘えるべきではなかった。美月を神にするべきではなかったっ……。美月。私は君を失いたくなんてないっ……」


 桜は優しく、涙をあふれさせるミアを抱きしめる。私も乗っ取られかけている体で、辛うじてそっとその金糸のような髪の毛を撫でてあげる。ミアの希望は姉を蘇らせることのみだった。でも知ってしまったのだ。


 希望や幸福は案外、身近な場所にも転がっているということに。


「……今の私はもう、幸せを知っている。助けてくれる人、大切にしてくれる人。私のそばには君たちがいる。もう、……あの時のように、失いたくないんだ。そんな、天使みたいな翼も神みたいな力も、私は、望んでないっ……」


 私の翼は今も神々しさを増していた。頭の中の声もますます勢いが強くなっている。……本当に残念だけど、ミアの願いはかなえられそうにない。


「頼む。美月。お姉ちゃんを蘇らせなくてもいい! だからっ……。神なんかではなくて、私たちの友達でいてくれ。自分勝手なのは分かってる。私が、悪かった。だから……」


 頭が割れるほど痛い。立っているだけでもやっとだ。意識的に行動しようとするだけで、人格を乗っ取られてしまいそうだった。気付けば視界が回転し、私は大地に仰向けに倒れていた。


 体を操るのを諦め、全ての力を自己同一性の防衛に捧げる。二人は涙を流して、私を見下ろしていた。やがてミアはゲートを開き、私を背中に背負ってアトリエへと移動させた。


「お願いだ。神にならないでくれ。君の妹も、母も、祖母も、みんなが今、ここにやってこようとしている。ここは月面なんだ。それでも、君を助けるためだけに宇宙船で向かってきている。君を、人間としての君をみんな望んでいるんだ」


 涙の雫が、私の体に落ちてくる。


 私は、かつての私は大切な人の為なら世界だって滅ぼせていた。でも、今は……。急激に意識が塗り替えられていく。自分が、自分でなくなっていく。


 突然、アトリエに凄まじい轟音が響いた。


「来たぞ。君の大切な人が。妹が! 君はこんなところで終わってしまうような人じゃない。君は誰よりも妹思いで、最高の姉だ。そうだろ? 妹を悲しませるわけにはいかないだろ? 思い出してみろよ。君は妹のために、家族のために、自分の全てを捨てようとしたんだ。……全人類の意志くらい、跳ね返してくれよっ!」

「……」


 声が聞こえる。聞き覚えのある声だ。心が愛おしさで満ちていく。


「お姉ちゃん! お姉ちゃんっ!」


 でも、その声が誰のものなのか、私にはもう分からなかった。


 私は、神だ。人々の願いを叶える全知全能の神。全人類は平等であり、いかなるひいきも存在しない。全人類が親愛なる友であり、守るべき相手。……その数十億のうちの一人が、床に倒れる私の顔を覗き込んでくる。


「お姉ちゃん! 助けに来たよ! 帰ろう? 世界は滅んじゃうかもしれないけど、私たちならきっと最期まで幸せでいられる。今度こそ、絶対に離さないからっ!」


 その数十億のうちの一人は、荒唐無稽なことを口走っていた。世界が滅びるというのならこの少女の願いを聞くことはできない。私は神なのだ。たった一人の願いと、数十億の願い。後者を優先するに決まっている。


 私はその少女を振り払い、神の力で空中に浮かびあがった。


「……お姉、ちゃん?」

「……」

「美月さん!」

「美月!」


 知らない女がまた二人増えた。色素の薄い幼女ともう一人の少女によく似た大人の女だ。どうしてかみんな泣いている。その願いを読み取ってみると、またしても荒唐無稽だった。どうやら、彼女たちは私の敵らしい。


 全人類の願い。神の顕現を否定する、大罪人。人類に危害を加えるというのなら、この場にいる五人程度の犠牲は許されるべきだ。


 私は翼をはためかせ、聖遺物。まぶしく輝く槍を五つ生み出した。空中に浮かぶそれには、全人類の願いが宿る。触れる全てを突き穿つ。


「人類の意志に逆らうのなら、……ここで死んでください」

「お姉ちゃん。なんでっ……」

「……私の、せいなのか」

「ミアさん。しっかりしてください!」

「……すまなかった。もう少し、早く私が早く助けに来ていればっ……」

「……」


 強い絶望の感情が、広がっていく。反逆者にはお似合いの末路だ。私は腕を振りあげ、そして輝槍を打ち出そうとした。けれどその瞬間、私の内側でなにかかが蠢いた。


 ――みんなを傷つけるな!


 それは私を構成する幾十億もの願いを食い破って、表層まで達した。ほんの一瞬、体の制御が効かなくなる。だがこの程度の脆弱な意志、全人類の願いに勝てるわけがない。


 ……なのにそのたった一つの意志は、理すらも覆して幾十億に抗い続ける。


「ミア。もしも気に病んでいるのなら、今度は私を助ければいい。三千年かけて復讐のために力をためてきたあなたは今や「桜の魔女」。復讐のための力だって、振り方を変えれば人を救う力になる! この三か月で気付いたはずだよ? ……あなたは、もう三千年前のような無力な少女じゃないっ!」


 一息に叫んだかと思うと、次は視線が日葵という名の少女に向けられる。


日葵ひまりも私、あの時の言葉、信じてるからっ! 宇宙の果てまで助けに来てくれるんでしょっ!? 待ってるから! ずっと待ってるからっ! お母さんのことも信じてる! 二人とのありふれた日常を。またありふれた幸せが訪れることをっ!」


 口が勝手に動き、喉が震えた。ひとりでに頬を涙がこぼれてゆく。だが神である私の全力を投じれば、その奇怪な意識はよどみなく消えた。もう表に出てくることはないだろう。私の奥深くに、厳重に封印したのだから。


 だがそんなつまらない言葉が、五人の反逆者たちに希望を与えたらしい。


 絶望が、消えた。五人の瞳が淀みなくまっすぐに私をみつめる。


 まさか本気で神である私に挑むつもりなのか。


 私は振り上げた腕を下ろした。五筋の輝槍が対敵者の心臓を穿たんとする。だがその寸前、ミアという名前の女が泣きながら笑い、右腕を横に払う。


「そうだな。……美月の言う通りだ。私はかつて神殺しを目指した神の対敵者。桜の魔女だっ! アヌ、ゼウス、ミネルバ、ラー、オーディン。三千年をかけた私の傑作たちよ! 今こそ命じる。その神のごとき力を発揮せよ! 美月を人に堕とすのだっ!」


 五人の反逆者は、誰も、傷一つ負っていなかった。ミアという名の女によって召喚された、私と同じ神性を纏った五柱がその槍を弾き飛ばしたのだ。


 人々の記憶から思いだす。神話の最高神。それをモチーフにしたイデアか。確かに大したものだ。でもその神性はあまりにも薄い。私の敵ではない。


 ……だがここは月だ。人々の信仰が十分には届いていない。負けるはずはないが、万全を期したほうがいい。私は人類の希望。万一があってはいけない。


「決着は地球でつけましょう。愚かなる反逆者よ」


 それだけ言い残して、私は地球へと転移した。


〇 〇 〇 〇


 未だに平和の訪れない数々の地域から戦火の音がやんだ。人類は歴史上はじめて、地球上で全ての戦争をやめたのだ。


 年齢も性別も人種も関係なく、全人類が空を見あげた。そこには深く青い空が広がっていた。つぎはぎの空も、顔のついた太陽もない。全てが千年前の姿を取り戻していた。


 そのあまりにも美しい景色に涙を流す人さえもいた。


「どうかみなさん。私に力を貸してください。対敵者を、あなた方の願いを否定する者たちに鉄槌を下すために」


 それは正しく神だった。人々はみな、空に神をみた。同じ人類同士で殺し合っていた全ては、ただ神を信じるために一時的な休戦を遂げた。


 ありとあらゆる国のあらゆるイデアが、神の先兵となるために地を進み、海を泳ぎ、空を飛び、ゲートをくぐり、集結した。かつての青を取り戻した空と海、その境界に。


 美月という名の少女はもう、どこにもいなかった。 



第三章 神堕としの魔女 終


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