10:綾音さんって楽しそうな人だね
高校時代の生々しい話をした後も、俺たち男性陣は本題そっちのけで各自高校時代の思い出話をたどたどしい英語でしゃべっていた。まぁ、楽しめたからいいか。
川内キャンパスから出ると辺りはすっかり暗くなっていて、仙台駅の構内には職場から帰るサラリーマンの姿も見受けられた。
夕ご飯だが、綾音さんと中村先輩がおごってくれるということで、俺たちが住むマンションの近くにある焼き肉レストランで焼き肉をごちそうになっていた。
店内は焼き肉のにおいが充満していて、これだけでもご飯が進みそうだ。
そういや、山梨に住んでいる母方の祖父ちゃんは落語が好きだったなぁ。『うなぎの嗅ぎ賃』は特に好きで、何度も聞いていたっけ……。
「徹君、よく英語であんな生々しい話をしたわね~。こないだの花見の前は隠していたのにさぁ」
綾音さんはビールのジョッキを片手に酔っぱらい、早速俺に絡んできた。
こないだ成人になったばかりで調子に乗ってビールを飲んで、俺が後始末をしたことをすっかり忘れているよ。
あれは災難だったのに。
「トオル君、引っ越した日に話したんですよ。それで私が友達になろうって提案したら……」
対面にいる佳織はどうなのかというと、綾音さんの話に乗っている。
俺の女難話を顔色を全く変えずに聞いていただけあって、鋼の心臓を持っているのだろうか。
「まさか、お前が童貞を捨てていたなんて信じられないぜ」
「先輩、
「奪われたにしても、もうお前も男になったんだから胸を張れよ」
そう言って中村先輩はバシバシと俺の背中を叩いた。
だけどなぁ、相手が相手だから……。
「俺の童貞を奪ったのはあの清水ですよ、清水」
「清水って、ひょっとして……」
「そう、
そう、そいつの噂は修学旅行が終わった後にうちの学校ではあっという間に広まった。
大学受験を控えていた三年生の男子がその名前を聞いて震え上がったとか……。
「ああ、俺も聞いたことがあるな」
「でしょ? そいつは浪人したらしく、接点はなくなりましたが」
清水は定期試験でも赤点をぎりぎりで回避していたから、大学に入ることはないだろうと思っていた。
事実その通りとなり、今年は自宅から通える予備校に行っているらしい。
まぁ、教室に入ってきた彼女の話だと、家庭教師をしていた男子大学生とも
清水は地元に残っている一方で、俺は仙台で気楽に大学生活だ。
俺と清水が決して交わることはないだろう。
「まぁ、そいつは男子大学生をひっかけては
「あはは、違いないな」
「いいよね~、エッチなことが好きな女の子! あたしはむっちむちだから、その気になれば中村や徹君を堕とすことだってできるわよ~」
後ろで酔っぱらって胸をゆすっている綾音さんがいるけど、まぁ……、気にしたら負け、かな。
ともかく、あいつのことだ。予備校に通いながらも歯科大学や福祉大学の学生に声をかけられて、その流れで一夜限りのお楽しみをしているだろう。
思い出したくもない清水のことを思い出しながら俺がウーロン茶を片手にカルビを突っつこうとすると、「
綾音さんはすでに大ジョッキを開けて、もう二杯目に入っている。
こないだの花見で散々迷惑をかけたというのに、綾音さんってば全く懲りないんだから……。
「綾音さん、飲みすぎですよ」
「あに? 佳織ちゃん、先輩に向かってその言い方はないでしょ~」
「二十歳になったからといって、ビールを一気飲みするのは体によくありませんよ」
綾音さんの皿を見てみると、カルビやロースにちょっと手を付けただけで、ビールをがっつりと飲んでいた。
こないだもそうだけど、綾音さんは酒があったら飲まずにはいられない性格なのだろうか。
「綾音、頼むから飲みすぎはやめてくれよ。こないだの合同花見で酒を飲んでゲロ吐いたらしいじゃないか」
綾音さんはこないだの花見で危うく俺に向かってゲロを吐きそうになった。
彼女の飲みっぷりは、俺から見ても初めてなのかと疑うほどだった。ビールはともかく、飲んだら速攻で酔っぱらう缶チューハイを一気に飲み干したのだから。
なぜ二十歳未満の俺がその缶チューハイのことを知っているのかというと、評判を聞いて電子書籍を販売しているサイトで読んだからだ。飲みたくても、俺の場合はまだまだお預けだけど。
「
すると綾音さんは、中村先輩に突如絡み始めた。
こないだもそうだけど、酔っ払いってめんどくさいなぁ。
「いや、そういうわけじゃないぜ。ここは店の中だから、ほかの客に迷惑をかける真似は……」
「そうですよ、綾音さん。飲むなら先にきちんと食べたほうがいいですよ」
佳織の突っ込みが入ったおかげで、綾音さんは酒を飲むペースを落として皿にあるカルビとロース、そしてご飯に手をつけはじめた。
綾音さんって、酒を飲んだら見境なく絡んできそうだ。
今度のウェルカムディスカッションが終わった後は国分町で打ち上げするだろう。
もし綾音さんが勢い任せで酒を飲みそうなときは、佳織と同じようにお腹をある程度満たしてから飲ませるようにしよう。
それからの俺たちは、互いの大学のことなどを話しながら焼き肉を突っついた。
俺は仙台の名物と知って牛タンを頼もうとしたが、財布をしきりに気にする綾音さんや中村先輩を見るなり断念した。
贅沢はバイトができるようになって金が溜まってからの辛抱だ。
◇
「ごちそうさまでした」
お会計を済ませて店を出たのは、午後八時をちょっと過ぎたあたりだった。
モールの一階から長町南駅に向かうと、綾音さんはすっかり酔いからさめていた。
五橋駅周辺に部屋を借りている綾音さんと、川内駅周辺に部屋を借りている中村先輩とはここでお別れだ。
「ごめんね、また迷惑をかけちゃって」
綾音さんは先ほど酒をがぶ飲みしていたことについて、申し訳なさそうに佳織に頭を下げていた。
「いえ、お構いなく」
佳織はちょっと照れながらも、綾音さんにさらっと返した。
「綾音さん、こないだ二の舞だけは勘弁してくださいよ。こないだはゲロ吐かれそうになりましたから」
「もう、徹君は年下なのにそんなこと言うんだぁ。お姉さん、拗ねちゃうぞ」
綾音さんはちょっとふくれっ面をして、俺に対して文句を言うようなそぶりを見せた。
高校時代はこういうタイプの女性に散々振り回されて、女性不信になりかけた……というよりは女性不信になったからな。
俺も来年になったらお酒が飲めるようになるけど、絶対に綾音さんのような真似はしたくない。いや、してたまるかってんだ。
「綾音、鹿島が困っているからそれくらいにしておけ」
「中村まで……、わかったわよ」
中村先輩が綾音さんに注意すると、一瞬だけあきれた顔を見せるも、いつものような物憂げな表情に戻った。
「それじゃ、またね」
「お疲れさまでした!」
「お疲れ様でした」
綾音さんが俺たちに向かって手を振ると、二人は長町南駅の入口に消えていった。
◇
モールからの帰り道、俺たちはいつものように二人並んで夜道を歩いた。
この時間でも国道沿いは車が絶えず走っていて、車の音がやむことはない。
「ねえ」
ふと佳織が俺のほうを向くと、「綾音さんって飲んだら人が変わるのかな」と尋ねてきた。
「こないだ花見をしただろ? あの時俺の後ろに抱きついたことから察してほしいよ」
あの時はゲロを吐かれそうで大変だったけど、佐久間さんが機転を利かせたおかげで助かったようなものだ。
もしあのままだったら、苦労して持ってきたジャケット一枚がパーになるところだった。
しかも、あのジャケットは兄貴からのおさがりだ。兄貴にばれたら殺されるよ。
「くすっ。綾音さんって楽しそうな人だね」
「そうだね。ああいった人とお近づきになれたらなぁ」
何せ綾音さんは佳織と同等レベル、いやそれ以上の美人だ。二人とも、高校時代に嘘告白を仕掛けてきた原田とほとんど変わらないレベルだ。
なのに、綾音さんと佳織の二人は俺を騙す素振りが一切ない。というよりは、そういう素振りが一切見られない。
佳織は優しくて、時折料理を作りにやってくる。もちろん、近所のドラッグストアのアルバイトを紹介してくれたのも佳織だ。
綾音さんは酒を飲んでいないときはいいお姉さんといった感じで一緒に居ると楽しい。ただ、酒を飲んで無茶苦茶なことをすることだけは勘弁してほしい。
「でもね……」
そういうと、突然佳織は歩みを止めた。
「でも?」
「トオル君ってすっごくラッキーだよ」
「どうして?」
「それはね、高校時代に異性で三度も辛い目に遭ったじゃない。その分、今のトオル君は幸運に恵まれているんだよ」
つまり、今俺が二人の美人と親しくなれているってことは、高校時代の裏返しってこと……なのか?
「……そうなのか?」
「そうだよ。これからトオル君には運が向いてくるよ。異性の、ね」
佳織は俺のほうを見ていたずらな表情を浮かべると、ウィンクをして見せた。
その時、俺は『禍福は糾える縄の如し』ということわざを思い出した。
高校時代は夏美姉を兄貴に取られ、中尾の馬鹿野郎と原田の二人が嘘の告白を仕込み、そして清水に童貞を奪われた。
俺の高校時代は暗黒そのものだったが、今はどうか。
佳織が言った通り、俺には剛速球レベルの美女がいる。隣には佳織が住んでいるし、大学のサークルには綾音さんがいる。
ただでさえ幸福なのに、これ以上幸福になっていいのだろうか。
いずれにせよ、しばらく俺は悩ましい選択を迫られそうだ。
これから起こることを期待しながら、まだまだ車が通る夜道を歩いてマンションまで歩いて行った。
<あとがき>
綾音さん、今後もちょくちょく飲ませる予定です。
ただ、ゲロを吐かせた以上は大人しくさせますのでご安心を。
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