第31話 ワイバーン
アメリカ副大統領ミネラ・コールは後悔していた。たとえ魔法を使えるという情報が正しくとも、サンリーハムとハイエンベスタの首脳会談など、要は対立する発展途上国同士の折衝であろう。アメリカの利益が出る方向で話を進めるくらいどうということもない。もっと難しい仕事をこなしてきた自負もある、任せていただきたいと大統領の前で大見得を切ったのは間違いだったのかも知れない。
いまキャンプ・デービッド山荘の会議室では人体を含む様々な物が切り刻まれ宙を舞っている。隣室に控えていたSPは駆け込んできたが、事態の収拾などできまい。
中でもハイエンベスタ皇帝ランドリオは斬り落とされた頭部を自ら受け止め、自力で元の場所に戻して微笑んでいた。こんな怪物の味方をしろと言われても、いったい何をどうすればいい?
体を三つに切断されたサクシエルの体が浮き上がり、元通りの位置にくっついたかと思うと、苦痛に満ちた声を上げながら息を吹き返す。
「ミャーセル、ガドラメル」
皇帝が呼ぶと二人は何もない空間から姿を現し、直後、ドアを蹴破ってゼバーマンとレオミスも会議室に飛び込んで来た。キャンプ・デービッド山荘の中は戦闘状態に突入している。もはやミネラ副大統領の安全は誰にも保てないのだ、退避するしかなかった。
「リリア王を護れ!」
サーマインは二人の兵団長に叫ぶと前に出た。今一度、いや一度で足りなければ十度でも百度でも皇帝ランドリオを切り刻まなければならない。
「おのれ人間!」
突進してくるガドラメルに、見えない刃が食い込んだ。さすがに一刀両断は無理だったが、三方向からの深手を受けて巨漢の足は止まる。しかしその陰に隠れていたミャーセルのムチがサーマインの体に巻き付いた。
「にゃん!」
そして電撃。勝利を確信した笑みを浮かべたまま、ミャーセルの首はザックリと切り落とされた。
そのミャーセルの体と頭を、傷ついたガドラメルの全身を、突然起こった黒い炎が飲み込んだ。黒炎は天を舞う竜の如くうねり、大きく開いた口をサーマインに向ける。見えない刃は黒炎の竜にも食い込むが、実体のない炎は切り裂けない。
竜がサーマインに襲いかかった。いや、おそらくはサーマインもろとも背後のリリア王まで飲み込むつもりだろう。サーマインは部屋の隅々にまで届く防壁を張り巡らし、黒炎の侵攻を防ぐ。けれど黒炎は防壁のところどころをチロチロと焦がし
「レオミス、まだですか!」
サーマインの叫びにゼバーマンが応える。
「あと少し!」
ゼバーマンの背後ではレオミスが聖剣ソロンシードの柄に手をかけたまま目を閉じていた。そのまま三、四、五秒が経ちレオミスは静かに目を開く。
「光裂獄」
ソロンシードは抜き放たれ、空間に白い十文字を描いた。
サーマインの防壁は端々で崩され、黒炎が突破する。
白い十文字は一瞬で空間いっぱいに無数に分裂し、風のように前進を始めた。
唸りを上げて宙を奔った黒い炎は白い十文字にぶつかる。
と、切れた。炎が。
切られた炎はボソボソと砕けるように消え去った。これがほんの瞬き一つの間に起こった出来事。
前進する白い十文字の群れはゼバーマンもサーマインも、何もそこにないかのように通り過ぎ、次々に黒炎を切り裂いて行く。おそらくはランドリオ皇帝も切り裂かれるだろう、そう誰もが思ったとき。
「なるほど、これはまいった」
黒炎の向こう側から声がした。と同時に山荘の天井が吹っ飛び、何か巨大な存在が土煙の中を立ち上がったのが見える。
装甲のようなウロコで全身を覆われた、二本脚で立つ、大きなワニのような口をして、両腕の部分には力強い翼が生えた、輝くような濃紺のワイバーン。
白い十文字の集団はワイバーンに触れたものの、切り裂くことはできずに消滅してしまう。山荘の周囲で悲鳴を上げる報道陣や銃を構える軍関係者らをものともせず、牙だらけの巨大な口が開き、冷たい目がリリア王を見つめた。
「では、生きたまま喰らうとしよう」
その背後に振り上げられる鉄の腕。
濃紺のワイバーンの後頭部に、バックホーのバケットが叩き付けられた。鮮血を思わせる真っ赤な大型バックホー。サイズは二十トンクラスか。
「馬鹿な、いつの間に!」
振り返ったワイバーンの顎を、下からバックホーのアームが跳ね上げる。これにはたまらずワイバーンは空へと逃げ、口から黒い火炎弾を吐きつける。だがバックホーはビクともしない。
「これほどまでに強力な精霊の加護だと、あり得ぬ」
動揺するワイバーンの目に、さらに信じられないことが。二十トンクラスの巨大なバックホーが、宙に浮き上がったのだ。
「何だと!」
ロケットでも付いているかのように空駆けた赤いバックホーは、稲妻の速度で鋼鉄の腕を振り回し、胴体を回転させ、ワイバーンの頭部に集中攻撃をかける。空中まで制圧されてはワイバーンに逃げる場所はない。残された道は余力のある間に尻尾を巻いて退散するだけ。それもやむなしか、そんな考えがワイバーンの脳裏をよぎった瞬間。
バックホーが突然消えた。霧のように、跡形もなく。
――しまった、裏をかかれた!
その声なき声を受け止める者は誰もいない。
深夜のサンリーハムの広場、蒼玉の鉄騎兵団の団員たちは各々バックホーに乗り込みながら、その鉄の腕を振るうことなく上空を見上げていた。
「おのれ卑怯者、降りてこい!」
猛々しい叫びも虚しく響く。
鉄の腕を伸ばしても届かない上空には、松明の明かりを受けて鳥面人身の影が浮かぶ。ハイエンベスタ四方神の一人、風界のヒュードル。いまその羽毛の一部は長く長く伸び、二十トンクラスの青い大型バックホー、弁天松スペシャル四号機に届いている。先端はドアの隙間から運転席に入り込んで、中にいる一平太の首を絞め上げていた。
ヒュードルは問う。
「君の首をねじ切るくらいは簡単なのだが、その前にイロイロと聞いておきたくてね。いったいサンリーハムの背後には誰がいるのだ。摂政サーマインは知恵者のようだが、それだけでは説明のつかないことが多すぎる」
一平太はバックホーの胴体を回転させた。弁天松教授のチューンナップによって通常の八倍の速度で回るボディでブームとアームを振り、何とかヒュードルの羽毛を引きちぎろうとするのだが、相手はその回転に合わせて宙を移動する。
「抵抗は無駄だと気付きたまえ。おとなしく情報を渡せば優しく殺してやるものを」
あざ笑うヒュードルに、他の団員たちは為す術がない。黒曜の騎士団と白銀の剣士団に伝令は飛ばしているが、応援が駆けつけるまで一平太の命がもつかどうか。強い魔力を持つ者はみな適材適所で役職を得ている。蒼玉の鉄騎兵団に集められたのは腕っ節だけが自慢の連中、宙を飛んでヒュードルに飛びかかることすらできなかった。
そんなとき、団員見習いの少女パレッタが気付いた。居並ぶバックホーの間を抜けて、小さな影がちょこちょこと近付いてくる。
「え、留美ちゃん?」
それは紛れもなく留美の姿。やや足下の覚束ない様子で、ふらつきながらも一平太のバックホーに近寄っていた。
「ダメ! みんな動かないで! 留美ちゃん危ない!」
慌てて留美に駆け寄るパレッタの動きにヒュードルが目をやった瞬間、一条の赤い光が天に向かって放たれる。それは彼から伸びた羽毛を焼き切った。
「何っ!」
ヒュードルは確かに見ていた。赤い光を放ったのはあの小さな女児。サンリーハムの子供が精霊と契約する年齢に達しているようにはまったく思えないが、事実は事実だ。
パレッタも確かに見ていた。留美が赤い光を放ったところを。小さな手は空を指さし、あどけない目にはオレンジ色の輝きが宿っている。だからといって留美を放置できる訳ではない。手を引いてこの場を離れようとパレッタがまた一歩近付いたとき、留美の全身が炎に包まれた。パレッタにはそう見えたのだ。
そして留美の体は花火の勢いで空に飛び上がる。
突如目の前に現れた幼子に、ヒュードルは油断をするほどの余裕はなかった。
「風震!」
肌を切り裂くほどの烈風が吹き荒れる。しかし留美を包む炎はそれを寄せ付けない。炎は留美の左右から、まるで二人の人間が抱きしめるかのように護っていた。留美の顔に浮かぶ穏やかな幸福。それを奪うことを、炎は許さない。
ヒュードルの全身を炎が包む。これは護りの炎ではなく地獄の業火。
「ぐぁあああっ!」
背の両翼を羽ばたかせ、何とか炎から逃れようと宙を駆け回るヒュードルだったが、炎は風を得てますます燃え上がる。彼は思い出していた。あのときのガドラメルの言葉を。
――あれは、いや、『あいつら』は未知の存在だ!
そうか、このことだったのか。意識の端で確信しながらヒュードルは姿を消した。
炎に護られた留美は静かに降下する。バックホーのドアが開いて一平太が見上げていた。やがて目の前に降りてくると、留美が一平太に両手を伸ばす。一平太も両手を差し出せば、炎は優しく留美を手渡した。
――よろしくね、一平太
頭の中に響いたその声には覚えがあった。忘れようとしても忘れられない声。
――頼んだぞ、一平太
もう一つの声も知っている。一平太の両目から熱い涙があふれ出した。
「お姉なんか? 根木さんなんか? 留美を護っててくれたんは」
炎が優しく揺れる。まるで笑ったような気配を残すと、どこへともなく消え去ってしまった。
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