第11話 入学式の朝
まるで大学病院みたい。
初めて医務室へ入った時のひかりの感想だ。入院患者がウロウロしていたり、たくさんの看護師が忙しそうに働いていたりするわけではない。ひかりがそう感じたのは、その広さや設備のことである。
ここは東京湾の埋立地にあるロボット教習所。生徒数も、その校舎や教習設備に比べると恐ろしく少ない。そんな場所に、どうしてこんなに広い、しかも最新の機器が充実した医療設備があるのか……。
もちろんそれはひかりの思い違いなのかもしれなかった。なにしろひかりは大の機械音痴である。彼女が最新の設備だと思ったとしても、本当にそうなのかどうかは実に疑わしい。その上埋立地なので、必要となればまた埋め立てればいい。だから予想以上にだだっ広いのかもしれない。
ひかりはそれ以上考えないことにした。だって、どんなに考えても彼女には答えが見つからないように思えたからだ。彼女の人生ってヤツは、そんなことがやたらに多い。
「遠野、全身の力を抜くんだ。心も体も、もっとゆったりしろ」
CTスキャンのようなマシンに横になっているひかりに、陸奥の声が聞こえてきた。マシンの中は筒状になっていて、ひかりの全身がその中にすっぽりと収まっている。何だか分からない光線を発し、キラキラと輝いている壁がけっこうまぶしい。
「怖くないか?」
「だ、大丈夫です!」
怖くないわけがなかった。ひかりには閉所恐怖症の気があるのだ。だからロボットの運転席もちょっとだけ苦手だったりする。もちろんそんなことは、誰にも言えないが。
「目を閉じて……リラックスするんだ。眠ってしまってもいいぞ」
ひかりは陸奥に言われるままに、ゆっくりと目を閉じた。キラキラとした不思議な光が、まぶたを通してほんの少しだけ伝わってくる。まぶしくはない。それどころか、何だか少し心地いい。
キラキラのひとつぶひとつぶが、満天に輝く星のように思えてくる。全身の力がふわっと抜けて行く。気持ちのいい脱力感。
いつの間にかひかりは、星達がまたたく大宇宙の海に浮かんでいた。
「私、泳げないのに……」
プカプカと揺れる心地よさは、まるでゆりかごのようだ。
いつしか真っ暗なはずの宇宙空間にゆっくりと明るい光があふれ始め、「白」がひかりを包んでいく。そのままひかりはその色と光に身をまかせ、空間の中へすうっと溶け込んでいった……
季節は春だった。いや、多分そうに違いない。ひかりはぼんやりした意識の中でそう考えていた。だって桜の花びらがあたりじゅうをひらひらと舞っているのだから。
「ひかり、早くしないと遅刻しますよ」
お母さん?
「そうだよ。ひかりはいつものんびり屋さんなんだから」
お兄ちゃん?
「すまないがネクタイが曲がっていないか、見てくれるかな」
お父さん!
「大丈夫ですよ」
「父さん、それよりちゃんとカメラ持ったの?」
「おっといかん、忘れるところだった」
「父さんはいつも忘れ物屋さんだもんなぁ」
玄関口に家族の笑いが広がる。
そっか……今日は私の入学式なんだ。すっかり忘れてた。急いで支度しなくちゃ!
「ひかり、今日から一年生なんだから、靴下ぐらい自分ではきなさい」
「お母さんのいじわる〜」
ひかりは靴下をはくのに人生最大の苦労を強いられていた。なにしろすでに真っ赤なランドセルを背負っているのだ。体が思うように動かない。
はきかけた靴下を上に引き上げようと前屈の姿勢をとった途端、ランドセルの蓋が開き、その中身が雪崩のように全て玄関に流れ出した。
「お兄ちゃん、どうしよう!」
ひかりはお兄ちゃん子だった。
「あ〜あ、ひかりはいつもこうだもんなぁ」
笑いながら兄がひろってくれる。その間に、頑張って靴下をはくひかり。
「入学式前のひとこま、こりゃいい絵になるぞ!」
父がカメラを構える。
「おや……おかしいな。このカメラ、壊れているんじゃないか?」
クスッと笑う母。
「お父さん、レンズのキャップが付いたままですよ」
「さすがだね。機械に強いお母さんで良かったよ」
「キャップは機械じゃないよ」
今度は兄が笑う。
「そう言えばそうだな」
再び楽しげな笑い声でいっぱいになる玄関。幸せな風景だ。
ひかりの父は考古学者である。ひかりにはさっぱり分からない難しい研究をしている。
母は国連宇宙軍のコンピュータ技術者。もちろん母の仕事もひかりにとってはさっぱり分からない。でも、いつもひかりは思っていた……お父さんもお母さんもかっこいい!
「さぁ、これでいい……ひかり、こっちを向いてくれ」
父がひかりにカメラを向ける。靴下だけでなく、この日のために買った小さな赤い靴もはいてちょこんと立っているひかり。入学式に出かける嬉しさと、家族みんなでいる楽しさで幸せいっぱいの表情だ。
私……幸せそう。
そう思うひかりがいた。ランドセルをしょって立っているひかりを見ているもうひとりのひかり。
あれ……私が私を見てる?
ひかりがそう思った時、真っ白な空間が押し寄せ、再び彼女の心を包み込んでいった。
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