幽霊の日常

猫田パナ

第1話

 ぴぴぴっぴゅーぴゅるーぴゅーぴゅぴゅるぴゅ。

 ぴぴぴっぴゅーぴゅるーぴゅーぴゅぴゅぴゅぴゅーぴゅー。


 間の抜けた口笛の音につられ、私は気づけば民家の風呂場に立っていた。

 目の前ではふくよかな体つきの母親が五歳の娘の体に泡を塗りたくっている。


「ママ笛みたいな音でるのすごいー。ユユにはできないよ」

「まあこれは難しいからねぇ。もっと大きくなったらできるかもねえ」


 母親は得意げに笑いながらそう言った。自分の口笛が幽霊を自宅に招いてしまったとは気づいていないようだ。


 夜の風呂場で口笛を吹くなんて馬鹿な女だ。そんなことをすれば「自分はここにいますよ」と幽霊に教え、呼び込んでいるようなものだというのに。

 

 髪の毛の泡を流し終えたユユという名前の女の子は、そのままザブンと湯船につかる。


「ママぁ、ギガボーって言うのはねぇ、ユユが考えた世界一背の高い虫でねえ……」


 そこまで話してふと顔を上げ、ユユはこちらを見る。

 ここは照明がついていて明るいから、私の姿がこの子に見えることはないはずだ。

 でもユユは私の気配を感じている様子だった。


「ん? どうかした?」


 母にたずねられ、ユユは答える。


「んー、なんでもない」



 夜になり、ユユが寝付くと母親はリビングへやってきた。

 リビングはカウンター越しにキッチンともつながっており、なんとなく水回りの近辺に居心地の良さを感じる私はキッチンの流しの近くに立っていた。流しにはまだ洗っていない汚れた食器類が水につけられた状態で放置されている。きっと母親は明日になってから食洗器にかけるつもりなのだろう。水回りの汚れは幽霊を定住させやすい。


 私はボーっと母親を見つめ続ける。母親は「ふぇ~い、ようやく寝たかい」などと独り言をつぶやきながら伸びをし、そのままストレッチを始めた。リビングの隣にユユが寝ている部屋があるから、母親はリビングの照明を薄暗いままにしている。おかげで幽霊の私もまぶしい思いをせずに済む。


 しかし硬い……。母親は驚くほどに体が硬かった。前屈を始めたのだが、なんと九十度にさえも体が曲がらない様子だ。続いて体をねじるようなポーズをそれぞれ四十秒ずつやり、その後急に立ち上がると片足を曲げてフラミンゴのように立ち、両手を合わせて頭上に高く伸ばした。

 ああ、ヨガね。少し前から流行っているやつ……。


 だが少し前といっても、一体何年前からだろう、ヨガが流行り出したのは。

 十年ひと昔、なんていうけれど、幽霊の私にとっては二・三十年の年月さえもほんのひと昔前のことのようにも感じられる。


 私はもはや、自分が生前どんな人間だったのかさえも覚えていない。

 姿が鏡に映らないから、自分の顔も忘れた。不思議とどんな時代に生きていたのかさえも思い出せない。この世にどんな未練があったのか、平凡な人間だったのか、それとも人々から特別に愛されていたのか、逆に忌み嫌われるような人間だったのか、それさえもわからない。

 

 目の前でヨガのポーズを頑張っていた母親は、十秒もたたないうちにグラグラ揺れ始め、曲げていた片足をすぐに地面につけた。


「全然だめだ」


 母親は笑いながら冷蔵庫に向かう。途中私のすぐそばをスーッと通り過ぎたが、全く私には気づいていない様子だ。

 そして母親は冷蔵庫からよく冷えたレモンサワーの缶チューハイを取り出し、棚をガサガサ漁って小袋入りの小魚アーモンドを見つけると「なんだこんなものしかないのか」という顔をしながらも、その小袋を一つ手に取り、またリビングへと戻っていった。


 私はじっと、母親の様子を眺め続ける。なにせ他にやることがない。

 だが不思議と退屈だと感じることもない。半分眠たいような心地が死後ずーっと続いている。多分私が成仏できていないことには何かしらの理由があるのだろうが、その理由ももう忘れてしまった。とにかく自分の存在がなくなるその日まで、こうして現実の世界を傍観していることしか、私にはできないのだ。


 母親はパソコンを立ち上げると動画サイトを開き、バラエティ番組を見始めた。番組では怪談破壊チャレンジという企画をやっている。怪談師が披露する怪談にお笑い芸人がツッコミを入れ、怖さと笑いのどちらが勝つかという対決らしい。


「ククク、うける」


 小魚アーモンドをつまみながらレモンサワーを飲み、母親は一人笑う。

 夜は更けていき、時計の針は深夜二時を回ろうとしていた。


 この人まだ寝ないのか? と思い始めたその時、リビングに隣接した寝室のドアが開き、中から寝ぼけたユユが飛び出してきた。まだ夜中なのに目が覚めてしまったのだろう。

 そして私の姿に気づき、悲鳴をあげた。

 

「ひゃああああ! ママ! ママ! おばけ! おばけ!」

「はあ?」


 母親はユユの指さす方……つまり私の方を見て眉をひそめる。


「なにも、いないけど?」

「いる! 黒いのがいる……人の形してる……目がオレンジ色で黒いモヤモヤが体からいっぱい出てる!」

「ええ……?」


 母親は霊感がまるでないのか、いくら目を凝らしても私が見えないみたいだ。

 やがて母親は、それは娘の脳が引き起こした誤作動のようなものであるとの認識を固め、娘の手を握って言った。


「たぶんおばけ、いないんじゃないかな? ママには見えないよ」

「でも……」


 不満そうに言うユユを、母親はなだめる。


「ママと一緒にお布団に戻ろうね。ユユが寝るまで一緒に隣で寝ててあげるから」


 すると別室で仕事をしていた父親が部屋からすがたを現した。


「どうかしたの?」

「ユユが、おばけがいるって言うんだけど」

「どっち?」

「あそこ。流しのところ!」


 そう言ってユユは私を指さす。

 父親は神妙な面持ちで私のほうにやってきた。

 そして私の隣に立つ。すると父親の腕にみるみる鳥肌がたっていった。


「本当だ、ここになにかいるね……」

「でしょう?」


 ユユはそう言ったが、母親は苦笑いした。


「またそんなこと言って……。とにかくもう一度寝なくちゃ。ユユ、ちゃんと寝ないと明日幼稚園に行けなくなっちゃうよ」

「でも……」

「ママ明日、除霊について検索して、おばけを追い払っておくよ」

「ほんと?」

「うん」


 ママの言葉を信用したユユはホッとした顔になり、ママの手をひっぱって寝室へと戻っていった。

 私の横で鳥肌をたてていた父親は、そのまま廊下を行ったり来たりする。


「うん、やっぱりここだ。ここだけ霊気を感じる……」


 私の隣に立ち、そう言ってうなずいている。

 そりゃそうだろう。幽霊がここにいるんだから。


「悪い霊じゃないといいけどな」


 そう言って父親は仕事部屋に戻っていった。

 自分が悪い霊なのかそうでもないのか、それは私にもわからなかった。


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