第11話
スー、スー
静かな寝息を立てるファニー。その顔は月明かりに照らされてますます白くなり、ツヤのある髪はテントの白に対して茶色が際立っている。
「おい、腹出てんぞ」
辺りはかなり寒い。俺はそっと、ファニーの服を直した。
――ちょっと、考えさせてください。
あの一言は重たく響く。やはり、雰囲気が伝わってきていたのだろうか。
必死に脳内から二人を葬ろうとするが、それでもなかなか上手くはいかなかった。
フゥ、と息を吐く。白くなった息がテントの中に立ち込めた。
***
俺には、一人の恋人がいた。名前はカナリア・フェルナンデス。
知り合ったのは忘れもしない、入学したての時の、大学の図書館だった。
剣術や弓術を鍛えるべく、手を伸ばした筋肉などの構造の本。たまたま同じ本を取ろうとしていた彼女と、手が触れた。
「あ、すみません……」
か弱く、人形が喋るような高く通る声。見下ろせば、ビクッとして呼吸が上がり始めた彼女がいた。
ツヤツヤの栗のような髪と眉毛。髪は肩まで伸ばしていて、少しうるんだ瞳はドングリが入ったようにクリッとしていた。
俺は、その日初めて、他人に心を奪い去られた。
「いや、良いんです。あなたは医学部の方なんですか?」
「は、は、はいっ!」
周りから少しばかり笑いがはじけた。
「そうですか。じゃああなたが読んでください」
「え、え、え、い、良いんですか?」
カナリアは馬鹿正直だった。
「ありがとうございますっ!」
テンパって、勢いよく頭を下げる。その頭が俺の腹に激突した。
「は、は、すすすすすみません! わ、私としたことが……」
「ク、ク、クハハハハ、ハハハハハ」
ついに俺まで、彼女に魅了され、頭がおかしくなった。
「何が私としたことが、だよ。これ見ればもう、あんたしかこんな失敗できねぇよ。普段そんなに真面目なのか?」
「は、はいっ!」
ウソつけ! と誰かがツッコミを入れた。
「めちゃめちゃ天然じゃないか。面白いな」
「わ、わたすは別に天然じゃないです! あ、あっ!」
顔がリンゴのように赤くなり、それを自分のロングヘアーで隠す彼女。あまりに可愛すぎて、俺はいよいよ涙が出てきた。
それから俺たちは頻繁につるむようになった。
彼女はどこまでもバカで、それを自覚していないわけだから、どこまでも笑っていられることが出来た。
「私、将来は絵を描く医師になりたいんです!」
鼻からフン、とカナリアは息を吹き出した。
「医師兼画家ってことか?」
「はいっ!」
そんなことが可能なのか。
「医師っても、どこに入るんだ?」
「心臓外科です!」
「めっちゃ大変なとこだろ、それ。大丈夫なのか?」
カナリアは途端に、悲しそうに顔をゆがめた。
「みんな、それ言ってくるんです。無理だろって、バカじゃないのって……私、バカじゃないのに」
いや、バカだろ。ツッコみたかったが、草に水玉が出来ていることに気付いて、俺は口をつぐんだ。
「出来ないって思うから出来ないんです。でも、やれるうちに徹底的にやりつくせば、いつか絶対に……」
ハッ、と彼女は涙を止めた。
「分かってるよ。やるって言いだしたら絶対にやるわけだからな。誰にも止められない。それなら俺は応援するぜ。カナリアの描いた絵、絶対に世界の傑作にしてやっから」
もう一度、俺はカナリアの真っ白な頬にキスをした。途端に唇が触れている肌が熱くなった。
「ありがとうございます、カルロスさんなら絶対にそう言ってくれると思ってました。わたす、絶対に世界一の医者と世界一の絵師になってみせます!」
「私、ね」
ツッコミを入れると、空に手を突き上げていた彼女はハッ、と口を押さえた。そのまま、二人ともカラカラと笑いまくった。彼女はまた涙を流し始めていた。
だが、そんな日にも終わりが来ることになった。
グロリア王国が、隣国から宣戦布告を受けたのだ。
俺は剣と弓の才能を買われ、徴兵されることとなった。この時、俺は二十三歳、カナリアは二十二歳になっていた。
付き合ってから四年ほど、俺たちはケンカらしいケンカをしたことが無かった。
だが、この時ばかりはカナリアがキレた。
「カルロス、戦争に行くんですか?」
「……ああ」
「ダメです。行っちゃダメです」
「でもな、国を守るためなんだ」
「でも!」
「分かってくれ」
重い声を俺は落とした。
「カルロスは命を粗末にしすぎです! わたちは血まみれのカルロスなんて見たくないんです!」
過ちを指摘するような余裕は無かった。
「……ごめんな。絶対に、元気で帰ってくるから、頼むっ!」
腰を九十度に折ったが、カナリアはますます泣きじゃくるだけだった。
「ダメです。ダメなんです」
「お願いだ」
「ダメなものはダメなんですってばっ!」
カナリアが金切り声を上げた。
「……じゃあ、別れるか」
「……へっ?」
「俺は、どうしても行かなきゃダメなんだ。……待っててくれないのなら仕方がない」
「え、で、でも」
「俺のこと、待っててくれるか?」
訊いても、カナリアは呆然とした表情で、クリクリの瞳に涙を溜め込んでいた。返事は、しなかった。
「……俺だってカナリアの気持ちは分かる。逆の立場なら絶対にそうしている。でもな……」
「カルロスッ……」
いよいよ彼女の涙腺は再決壊しだした。
「ごめんな」
ズッ、と鼻をすすって、俺はカナリアの家から出ていった。涙が頬をチラチラと伝っていく。振り返りたくても、俺は泣いているカナリアを直視することが出来ない気がして振り返れなかった。
***
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