プラムの樹の思い出
sousou
第1話
戦争が終わり、生まれ育った町へ帰ったとき、最も衝撃だったのは、家の裏庭にあった、三本のプラムの樹がすべて枯れていたことだった。それらは私たち兄弟が生まれた日に植えられた、バースデーツリーだった。
私は半ば倒壊した家のなかを歩きまわり、壁にピン留めされた何枚かの家族写真を回収した。他にも思い出深い品はいくつかあったが、荷物を増やすのはよくないと思い、写真以外には何も持たずに家を出た。東部戦線に近かったこの町は、戦争が始まって間もなく住人が退去した。踏み荒らされた畑に作物は一つもなく、噴水の水は涸れ、行きつけだったパン屋は、屋根が落ちて竈が白日の下にさらされていた。ブーツの底で砂利を踏みしめ歩く音が、やけに大きく響いた。私以外の人の気配はしなかった。それはここが、もはや町と呼べる場所ではないということを意味していた。
故郷を捨てて、どこか遠くへ行きたい、と思うのはおかしいだろうか。私にとって故郷とは、家族がいる場所だった。だが家族はもうこの世に存在しなかったし、兄と弟の分身であった、あのプラムの樹も枯れてしまっていた。私は平和の地を探していた。あまりにも長い間、銃弾や砲弾の音、思い出すのもぞっとする臭いや、冷たい雨にさらされ続けたからだ。
私の足は自然と、もう何年も見ていない、海が広がる方角へと向いていた。海こそは自由の象徴だった。船が行き来し、あらゆる場所へ連れて行ってくれる。あるいは、幼い頃に兄と弟と一緒に泳いだ海を思い出したのだろうか。あの日わたしたちは、自分たちの背丈ほどの高さがある葦をかき分け、水を跳ねさせながら沖へと進んだ。みなもに映る太陽は、一歩踏み出すたびに揺れ、そのきらめきを眺めていると、はるか上空を海鳥が横切った。転びそうになった弟が私の腕を掴んだ。葦の群生が終わる場所に先にたどりついた兄が、私たちへ向かって、笑いながら手を振っていた。
気づくと私は、鉄道が終わる最北の駅に降り立っていた。そこから歩いて、海へ向かった。港に着くと、船に乗った。何度か船を乗り替えた。乗り替えるたびに船は小さくなった。しまいには、船上には船頭と私の二人きりしかいなかった。船頭は私を船から下ろすと、元来た道を帰っていった。
私はヘンリー・デイヴィッド・ソローよろしく、森のなかで暮らしはじめた。畑をつくることを考えていたため、野宿しながら、耕すのによさそうな土地を求めて、森を少しずつ移動した。そんな生活を初めて、一カ月ほど経ったある日のことだ。ブルーノという初老の男に出会った。文明を半ば捨てた生活をしていた私は、人間に出くわしたことでひどくうろたえた。ブルーノは私を見るなり、「ひどい顔だ」と言った。「うちに寄っていきなさい。今にも倒れそうな顔をしている」。
彼の後についていくと、ほどなくして森を抜けたため、自分が人里からそう遠くない場所にいたことが分かった。彼の家は牧草地の中心にぽつりと立つ一軒家だった。庭の井戸で野菜を洗っていた女が、立ち上がってこちらへやってきた。彼女はブルーノの妻で、リザといった。遠くのほうで、羊の群が草をはんでいた。
私は喋る言葉を失ってしまっていた。自分の名前を言おうと思っても、声が出なかった。そのため、差し出された紙にHelgeと書いた。ブルーノは私が着ていた服を指して、「いつまでもそんな恰好でいるのはよくない」と言った。風呂場に案内された私は、軍服を脱いだ。身体を隈なく洗ったが、塹壕からずっと持ってきた腐臭は取れない気がした。ブルーノに用意された服を着て、髪を拭きながら居間に入ると、リザが竈の前に立って、鍋を火にかけたり、おろしたりしていた。私は老夫婦に食事をご馳走になった。
老夫婦から土地を借りた私は、畑をつくりはじめた。そこは元から土壌がよく、物置小屋がそばにある点で、好都合だった。小屋は少しばかり修繕して、綺麗に掃除すれば、寝床として申し分なく使えた。私は誰にも邪魔をされない、安住の地をひとまず見つけたようだった。
毎朝、どこかの家で飼われている雄鶏の声で目を覚まし、畑を耕した。畑仕事が一段落すると、冬に備えて薪を割った。小屋に煙突をつけるため、ブルーノの智慧を借りに行った。森に山菜や、火付け材となる枯葉や松の実を探しに行った。夕方になると、草原に横たわって、雲を眺めた。ときどき、家畜を呼び集めるための、美しい歌声が聞こえてきた。さほど冷え込まない夜には、そのまま横になって星が瞬くのを眺めていた。
土を耕し、植物を育てることは、大きな慰めになった。それは私がかつて戦場で行っていた破壊という行為の、真反対である創造という行為に他ならなかった。私は芋や豆など、育てるのが比較的容易な作物の他に、花も育てた。それらが土から芽吹く様子を見ると、最初の人間が土から生まれたという神話を、先人たちと同じように信じたくなった。そして、花が生の役目を終え、土へ還っていく様子を見ると、人間もまたいつかは土へ還るのだという事実を実感した。流行り病で亡くなった両親、戦死した兄と弟、私が埋葬した戦友たち、なにより私が手にかけた敵国の兵士たちは、みな土へ還ってゆき、他の生命の一部となってまた生きている。そう思うと少しだけ心が軽くなった。
牧草地が青々としだした、初夏の夕方のことだった。ときどき聞こえてくる、例の家畜を呼び集めるための歌声が、いつもより近くから聞こえた。歌はだんだんと近づいてきて、ついに娘の実体となって姿を現した。彼女は薄汚れた前掛けをつけ、つばの広い麦わら帽子をかぶり、二本の長い三つ編みを、夜をもたらす風になびかせ、やってきた。
娘の瞳が、草原に寝そべる私の姿を捉えた。
「羊が一匹、見当たらないんです」
ここには来ていない、と私は言おうとしたが、声が出なかった。身を起こすと、ポケットから手帳を取り出し、適当なページにそれを書いた。手帳をのぞきこんだ彼女が、遠慮がちに微笑んだ。
「教えてくださってありがとう。素敵な絵ですね」
私は恥ずかしくなって、手帳をしまった。文字を書いたページが、ちょうど風景をスケッチしたページだったからだ。娘が帽子を取り、片手を差し出した。
「私はアンナ。ブルーノとリザの娘です」
私は彼女の手を握った。
翌日、私はブルーノの家を訪ねていった。小屋の煙突について相談するため、というのは建前の理由で、本当はアンナの羊が見つかったかどうか、気になっていた。羊は見つかったよ、とブルーノは言った。森の中で迷子になっていたところを、牧羊犬が見つけたらしい。用を済ませて、私が帰ろうとしたころ、「ヘルゲ」と言って彼が呼び止めた。
「アンナが今の今まであんたに挨拶しなかったことを、悪く思わないでくれよ。あんたが人と関わるのを好まないと思って、気を遣っていたんだ」
私は頷いた。
それからというもの、私の畑に、アンナがときどき訪ねてくるようになった。最初は、作りすぎたチーズをもらってくれとか、狼の足跡があったから気をつけろとか、一般的な近所づきあいの範囲で、つまり当たり障りのない用事で訪ねてきた。やがて、私が見た目に反して穏やかな性格であることを見て取ると、絵を見せてほしい、と言ってきた。アンナの後ろからはいつも、白い牧羊犬がついてきた。彼女が草原に腰を下ろすと、そいつも腰を下ろした。彼女は牧羊犬をなでながら、私の返事を待っていた。
私は小屋からスケッチブックを持ってきた。微笑んだアンナが、膝の上にそれを広げ、犬にも見えるようにページをめくっていった。最初、彼女が見ていたのは、この近辺の景色が描かれた絵の数々だった。彼女はやがて、三本のプラムの樹が描かれた絵に目を留めた。私は彼女の隣に腰を下ろすと、紙面の端に、「生まれ育った家の庭」と書いた。頷いた彼女が、スケッチブックをそっと閉じて、私に返した。彼女は心優しい人だった。人の事情に土足で踏み込むような真似は、決してしなかった。
そうして日々は過ぎていった。春に植えた野菜は実り、収穫できるようになった。小屋の煙突はついに完成し、暖房が使えるようになった。薪の山は順調に積み重なった。私は夕方になると聞こえてくる歌声を、以前より楽しみにするようになった。
夏も終わりかけのころ、砂糖が少し手に入ったんです、とアンナが伝えにやってきた。
「今度、それでお菓子をつくろうと思っていて。ヘルゲさんも食べにきませんか」
私は手土産を何にするかさんざん悩んだあげく、そのとき畑に咲いていた、いちばん見栄えのよいオレンジの花を刈り取り、きれいに整えて花束にした。玄関先で私を出迎えたアンナは、花束を見て、というより、花束を抱えている私を見て、顔をほころばせた。私は羞恥でその場から消え去りたかった。しかしアンナがそれを抱えて、ブルーノとリザに見せにいく様子を見て、やはり花束にしてよかったと思った。なぜなら、彼女はこの世でいちばん花が似合う人だったからだ。
居間には焼き菓子の匂いが充満していた。それは私にとってどこか懐かしい匂いだった。小さい頃に、家で嗅いだことがある。テーブルの周りには父がいて、兄がいて、弟がいた。母が窯から鉄板を出すと、甘酸っぱい匂いが部屋じゅうに広がった。プラムケーキだ、と私はつぶやいた。ブルーノとリザとアンナが、驚いた顔で私を見返した。
「プラムケーキの匂いだ」
私は繰り返した。頬には涙がつたっていた。
その年の冬、アンナからプラムの枝を分けてもらい、小屋のそばに挿し木した。この樹が根を張り、実をつけるには、どれくらい時間がかかるだろうか。何年かかっても構わない。私も少しずつ変化しながら、旅をつづけよう、そう思った。
プラムの樹の思い出 sousou @sousou55
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