第10話 運命の波 〜織田信長と蒲生氏郷の逃亡者〜

 物語は、戦国時代の日本を舞台に展開します。主人公はマサオという逃亡者で、彼は過去の過ちを背負いながらも、自身の運命と素晴らしい恋愛を求めて旅に出ます。


 マサオは、ある日、織田信長の勢力が及ばない山深い地域で遮蔽物を作る仕事に就きます。そこで彼は、蒲生氏郷という領主の家族や使者たちと出会います。特に、蒲生氏郷の美しい娘で名家の令嬢である武姫が、マサオの運命を変える存在となります。


 武姫との出会いをきっかけに、マサオは逃亡者としての過去を乗り越え、自身の運命や素晴らしい恋愛を追い求める決意を固めます。彼は、蒲生氏郷やその家族、そして信長に追われながらも、津波や山道の試練に立ち向かいながら、武姫との絆を深めていきます。


 武姫は氏郷の半生を語った。

 近江国蒲生郡日野に六角承禎の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれる。幼名は鶴千代と名付けられた。


 永禄11年(1568年)、観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従した。鶴千代と会った信長は、「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん(蒲生の息子の瞳は他の者と違う。普通の者ではあるまい。私の婿にしよう)」と言い、自身の次女を娶らせる約束をしたという(『蒲生氏郷記』)。


 鶴千代は岐阜の瑞竜寺の禅僧・南化玄興に師事し、儒教や仏教を学び、斎藤利三の奨めで武芸を磨いた。岐阜城での元服の際には信長自らが烏帽子親となった、弾正忠信長の「忠」の文字を与えられ忠三郎賦秀と名乗る(以降、一部を除いて氏郷に統一する)。


 永禄12年(1569年)の南伊勢大河内城の戦いにて14歳で初陣を飾る。戦後、信長の次女を娶って日野に帰国した。なお、この妻の実名は不詳であり、冬姫とするのは明らかな誤読である。


 元亀元年(1570年)4月、氏郷は父・賢秀と共に柴田勝家の与力となり一千余騎で参陣し、朝倉氏を攻め、同年に当知行が安堵され(『隠心帖』)、5,510石の領地が加増された(『蒲生文武記』『氏郷記』)。その後、同年7月の姉川の戦い、元亀2年(1571年)の第一次伊勢長島攻め、元亀4年(1573年)4月の鯰江城攻め、天正元年(7月28日に元亀から天正に改元)8月の朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の第二次伊勢長島攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正6年(1578年)からの有岡城の戦い、天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱(比自山城の戦い)などに従軍して、武功を挙げている。


 そんな氏郷が北条氏政に寝返ったのは、信長に常日頃から殴られていたかららしい。

 

 北条 氏政は、戦国時代の相模国の戦国大名・武将。後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。今川義元の甥にあたる。子に北条氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。号は截流斎。


 氏政は家族思いの人物であったらしく、有能な弟達と常に良好な関係を維持していた。愛妻家でもあり、正妻の黄梅院とは武田の駿河侵攻を機に離婚させられているが、氏政本人は最後まで離婚を渋っており、氏康の死の直後に武田と和睦した際には真っ先に妻の遺骨を貰い受け手厚く葬っている。ただし、離婚の話そのものが1970年代に史料の誤読から作られた話で他の同時代史料からは確認できず、実際には黄梅院は最後まで氏政と一緒に暮らしていたとする説も出されている。


 北条氏滅亡時の実権者とはいえ、父である氏康の時代以上に勢力を拡大したその治世や、良好な関係の兄弟と協力し合い、良き臣下に支えられて、合戦でも武功を挙げている点など、決して無能な武将というわけではない。秀吉に徹底抗戦したことについては、これまでは氏政が無能であり、時流、及び秀吉との圧倒的な国力の差を把握できていないことが原因という、氏政の暗愚な資質に原因を求める評価が主流であった。一方で、東国の武家は源頼朝以来中央政権から自立するような志向が強く、そうした、「東国武家社会の伝統性」を、徹底抗戦の根拠とする見解もある。また、最初から秀吉は北条氏を殲滅させるつもりであった、という見解もある。


 マサオは武姫とタイムマシン『レッド』を使って2011年に戻って来た。

 4月27日 - 焼肉酒家えびすの砺波店・高岡駅南店(富山県)、福井渕店(福井県)、上白根店(神奈川県)の4店でユッケなどを食べた顧客48人が食中毒になるユッケ集団食中毒事件が発生。病原性大腸菌「O111」によるものと見られる。5月4日に死者数が4人。

 次の日の朝、難波にあるアパートで連続テレビ小説『おひさま』(井上真央主演)を見ながらマサオは武姫と朝食を取った。武姫が作った味噌汁は格別だった。

 戦国時代の食事は、基本的に朝8時ごろと午後2時ごろの1日2回だ。夜遅くまで起きているときは、まれに午後9時ごろに夜食を食べることもあった。また、城や砦などの重要拠点の守備に欠かせない、夜間警備の任務に就いていた者の場合、夜8時〜9時ごろに3食目を食べることも多かったようだ。


 内容は1汁1菜でご飯の量が最も多く、1回につき2合半食べる者もいたようだ。汁物は味噌汁・糠味噌汁・塩汁などで、食事の終わりには、ご飯にかけて一緒に食べていた。おかずは野菜、海草、かまぼこ、梅干し、漬物、鳥、魚など、さまざまあったものの、豊富なおかずを食べられるのは当然裕福な者のみで、ほとんどおかずがない食事も少なくなかった。


 マサオは武姫と難波の街を歩いた。大学はもう休みに入っている。

 難波は大阪の2大繁華街の一つであるミナミに包含され、一般的にはその玄関口となる南海難波駅や難波駅 (Osaka Metro)、大阪難波駅(近鉄・阪神)周辺の繁華街を指す。梅田を中心とするキタと並んで大阪における商業の中心地である。「難波」という漢字は「なにわ」とも読めるため、駅の表記や施設の名称において平仮名の「なんば」を用いる例が見られる。


 難波には私鉄や地下鉄といった多数の鉄道路線が乗り入れ、ミナミの玄関口として機能している。難波駅は大阪・梅田駅に次ぐターミナル駅となっており、天王寺駅とともに大阪市の南玄関としての役割を二分している。北側に隣接する心斎橋や道頓堀・千日前などの周辺の地域も含めて広域的かつ一体的な繁華街ミナミを形成している。ミナミが島之内の西半(心斎橋駅界隈)から難波駅界隈までの広範な地域を指すのに対し、難波は概ね道頓堀以南・千日前以西の地域を指すことが多い(ただし繁華街としてのミナミや難波の地理的範囲が具体的に定義されているわけではなく、人によって指し示す範囲が多少異なることがある)。老舗や高級ブランド店が多い心斎橋と比べ、ミナミの玄関口でもある難波は多種多様な商店が混在し、雑多で賑やかな雰囲気を持つ。道頓堀と南海難波駅の間には複数の商店街が発達し、お好み焼きや串カツといった大阪グルメを提供する飲食店も多く、非常に活気のある街並みとなっている。なんばウォークやNAMBAなんなんといった地下街も発達しており、難波地区に位置する各駅を連絡する役割をもつ。さらに、南海難波駅は関西国際空港からの訪日外国人客の玄関口の役割を果たしており、大阪を象徴する風景として有名な道頓堀はインバウンド客のみならず国内の観光客からも人気の観光スポットである。そのため、同駅から道頓堀に至る戎橋筋商店街は多種多様な人種の通行客で賑わっている。


 🐎織田軍到着!

 

 🔖信長VS北条・武田→織田家内乱→蒲生が秀吉に内応→武姫と別れ→羽柴VS北条→ケイコ死亡→マサオ、蒲生への復讐→マサオ、秀吉に追われる

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