2・囚われの姫と氷の貴公子
粗末な木のテーブルに、薄い豆のスープと黒パンの切れ端が並ぶ。
質素この上ない朝食だが、食べ物があるだけましだ。雪に閉ざされた冬場は物資の配達が滞り、薪や食料が底をつくことがあるのだ。
「いただきます。いつもありがとう、マーサ」
「とんでもございません、セレスティーヌ姫様」
たった一人の小間使いであるマーサは控えめな笑顔になった。マーサはクーデターの日に、王族の警護をしていた一人息子を殺された。息子が守ろうとした前王家を自分も最後まで守りたいと、セレスティーヌの幽閉先についてきてくれた。王の側妃だった母を殺されたセレスティーヌにとって、母代わりの大切な人だ。
「今日は寒いですね。もっと薪を入れましょうか」
燃え尽きそうな暖炉の薪を見て、マーサが言う。
「もったいないわ。次の薪がいつ届くかわからないし、節約しましょう。それよりマーサ、あなた朝食をいただいた?」
「はい。もちろん……」
「さっき台所で残りのパンを確認したけれど、一切れぶんしか減っていなかったわ」
セレスティーヌは自分のパンを半分ちぎって、マーサに差し出した。
「きちんと食べなければだめよ、マーサ」
十歳からのち、ジルベルトの人生は挑戦と冒険に満ちて目まぐるしいことこの上なかったが、セレスティーヌの人生は無に等しかった。寒村の廃屋に閉じ込められて訪問客もなく、マーサと村の司祭と物資を届けに来る村人以外、誰とも会わない。書物も乏しく、生活上の雑用と神に祈ること以外、やることもない。
(でもこの静けさがありがたくもあったんだよなあ)
魔王討伐の緊張感ではちきれそうだった日々、目覚めたら廃屋のベッドだとほっとした。こちらの世界にいれば、死と隣り合わせの闘いから離れられるのだ。心を落ち着かせ己を整えるには、ここでの静かな生活がうってつけだった。
逆にセレスティーヌとしても、ジルベルトの慌ただしくも目標のある日々は救いだった。何もない幽閉生活しかなかったら、家族を失った悲しみに呑み込まれてしまったことだろう。
二つの人生の緩急があったから、魔王討伐の偉業を成し遂げられた。そして偉業を成し遂げたらば、ルクレツィアとの結婚が待っていた。夢のようだ。
(ああルクレツィア姫……。会いたい……)
廃屋の一室にしつらえた神の祭壇に跪き、祈りの姿勢をとりながら、セレスティーヌことジルベルトは、燃え盛る恋情に悶えていた。帰りたい。一刻もはやくルクレツィアのいる世界へ戻りたい。
(叙爵っていつ受けられるんだろう。爵位を授かったらすぐ婚約できるのかな。婚約したら、キ、キスしても大丈夫かな。その先はさすがに結婚してからじゃないとダメだろうけど……)
その先。キスのその先。ペンダントの揺れる白い胸元。
想像すると頭が沸騰しそうである。今は女の体なので、いくらやましいことを考えても肉体の変化がないのは幸いだった。
年上の魔物討伐隊員は旅先で娼館へ行く者もあったが、まだ十代のジルベルトは女性経験がない。ルクレツィアに忠誠を捧げていたし……。恋ではないと自分に言い聞かせていたが、今から考えればまあ、手が届かない相手に恋していた以外の何物でもなかった。
だが、その恋はどうやら叶ったのである。
ルクレツィアの潤んだ瞳と上気した頬、指先に感じた唇の湿り気と、唇に感じた指先のなめらかさを思い出す。ルクレツィアの指からはいい香りがした。
そう、あれは、物言わぬキスの約束――。
セレスティーヌの肉体をまとったジルベルトがほうっと甘い吐息をもらしたとき、廊下をどすどすと雑に歩く音がした。
表向きは祈りの時間だ。やましいことしか考えていなかったが。
祈りの時間を邪魔するような無作法をマーサがするわけがないし、足音は複数だ。 物資を届けに来た村人だろうか。それとも――。
(こっちは親きょうだい皆殺しにあった王族だからね)
ジルベルト兼セレスティーヌは、祭壇から神剣に模した短剣を手に取った。短剣は、包丁を研ぐついでにまめに研いでいた。マーサには「聖なる剣を曇らせないために」と言っておいたが、実戦に使うときが来るかもしれないと思っていたからだ。
短剣を構え、ドアのすぐ横に身を潜める。
ドアが乱暴に開いた。
「王女セレスティーヌ! お命頂戴――」
「やらねえよ!」
短剣の柄尻で侵入者のうなじを叩く。兵士の格好をした侵入者はあっけなく床に沈んだ。敵はまだいるはずだ。しかし二人目が部屋に入ってくる気配はなく、セレスティーヌは眉をひそめた。
やせ細った女の体だが、中身は勇者ジルベルトだ。自分は戦える。しかしマーサは身を守る術がない。
セレスティーヌは廊下に走り出た。
そして廊下にいる人物にぎくりとして、足を止めた。
長身の、黒衣の男。
黒い騎士服を纏った銀髪の男が、横たわる兵士の背から長剣を引き抜いていた。長めの前髪に隠れて顔がよく見えないが、まだ若い男だ。
(なんだこの男……まるで気配がなかった)
心臓を貫かれて息絶えている兵士は部屋に入ってきた兵士と同じ兵服を着ており、状況から見て黒衣の男は味方だと思うのだが、油断は禁物だ。
セレスティーヌは短剣を構えた。
黒衣の男がセレスティーヌを見る。
(うわ! すっっっごい美形!)
黒衣の男はすさまじく整った顔立ちをしていた。眼光鋭い切れ長の目に通った鼻筋、大理石のようになめらかで冷たそうな白い肌に、サラサラの銀の髪。宮廷にいたら「氷雪の騎士」とでも呼ばれて令嬢方がきゃあきゃあ言いそうだ。ちなみに赤毛のジルベルトは「火炎の勇者」と呼ばれてきゃあきゃあ言われていた。
しかし彼の容貌に驚いている場合ではない。戦闘の気配もなく人ひとり殺した男だ。相当な使い手のはずである。
ジルベルト兼セレスティーヌは、短剣を構える手に力を込めた。
黒衣の男はセレスティーヌを氷のような目で見やりつつ、油断なく歩を進めながら言った。
「私は味方です。もう一人の敵は」
腹にずっしりとくる低い声だった。黒衣も相まってさながら地獄の使者だ。
「中に」
セレスティーヌが短剣の柄尻をトントンと叩きつつ答える。こちらの声は軽やかに澄んで愛らしく、状況に全くそぐわない。それでも柄尻を打ち付けて気を失わせたことは伝わったようで、黒衣の男が片眉を上げた。
「あなたがやったのですか?」
部屋の中に倒れている兵士から目を離さずに、彼が尋ねる。
「ええまあ――ちょ、ちょっと!」
答え終わる前に、彼が一人目と同じように敵の心臓を剣で貫いてとどめを刺した。躊躇などまるでなく、手付きも心構えも慣れきっている。これは結構な地獄を見て来たやつだなと、ジルベルト兼セレスティーヌは思った。
「……目を逸らさないのですね」
(あっやばっ)
自分だってあちらの世界では、魔族の死体で山を築き上げてきたので慣れっこになっている。だがここでの自分は剣で肉を断つ感触など知るはずもない、囚われのか弱き姫君なのだった。八年もの間、小間使いと二人きりで静かな暮らしをしていたはずの――。
「そうだマーサ!」
駆け出そうとしたセレスティーヌの腕を黒衣の男がつかむ。
「マーサなら、私の部下が保護に向かいました」
「本当?」
「本当です。彼なら全力でマーサを守ります。息子ですから」
「レオ、レオ、生きていたなんて! ああ神様感謝致します……!」
死んだと思っていた一人息子と感動の再会を果たし、マーサが喜びの涙を流している。
「重傷だったけど、まだ息があるのをロラン様のお父上に助けていただいたんだ。母さんを迎えに来ることができて、本当によかった。こうして生きて会える日が来るなんて」
抱き合って喜び合う二人を見て、セレスティーヌも盛大にもらい泣きしてしまう。
「マーサよがった……ほんどによがった……うっうっ」
「息子が無事で、こうして引き立てていただいて、お嫁さんに孫まで……。バルテス家の皆様には感謝しかございません」
「嫁と孫はバルテス家が用意したわけではない」
銀髪の黒衣の男はロラン・バルテスと名乗った。十歳で城から追放されたセレスティーヌはよく知らないが、バルテス家は前王時代の公爵家らしい。クーデターで爵位を失った前王派の大貴族だ。
(前王派の元貴族が前王家の王女を連れ戻しに来るってことは、トゥールイユ国ってめんどうなことになってるんだな)
新王家を倒そうとする動きがあるのだとうすうす察する。そしてその動きは新王家にバレている。バレているから刺客も来るのだ。
この調子では、前王家の姫であるセレスティーヌの今後は激動の日々に違いない――。
(ジルベルトが一段落したからって今度はこっちか。神のやつめ。少しくらいは休ませてくれよ……)
やれやれと思うジルベルト兼セレスティーヌだったが、再会を喜び合うマーサとレオを見て背筋を伸ばした。マーサ一家のしあわせを確実なものにするためにも、元王女として頑張らなくてはならないところかもしれない。
セレスティーヌはもらい泣きの涙をぐいっとぬぐって、ロランを見た。
「それで、これからわたしは何をしたらいいのですか?」
囚われの姫君のまっすぐな視線に、氷の貴公子が一瞬目を見張ったように見えた。
「……『わたしはどうなるのか』ではなく、『わたしは何をしたらいいのか』と問われるのですか」
ロランの口ぶりは意外そうで、セレスティーヌはしまったと思った。
どうも自分の言動は、八年間引きこもっていた少女らしくない。囚われの姫君は手際よく敵を昏倒させたりしないし、状況の変化に動揺もせず自分の役割を探ったりしないだろう。
(でもしょうがないだろ。あっちじゃ全く正反対の人生送ってたんだからさ)
セレスティーヌはごまかすように笑うしかなかった。
かくしてジルベルト兼セレスティーヌは、世間知らずのか弱い姫君の皮を被りつつ、寒村の廃屋からロランたち前王派の隠れ里へ向かった。
ジルベルト兼セレスティーヌにとって、この旅は少々不愉快だった。
ロランが手綱をとる馬に同乗して、ずっと彼と密着していなければならなかったからだ。ルクレツィアとの甘いキスが目前なのに、男と長時間密着するはめになるとは。馬なら一人で乗れると言いたかったが、セレスティーヌは乗馬の訓練をしていないので不自然なことは言えない。子供扱いに耐えるしかない。
少しでも隙間を空けようと身をよじると、「危険です」とぶっきらぼうに言われて引き寄せられる。普通の乙女だったら美男子のたくましい腕に頬のひとつも染めるだろうが、あいにくこっちは男――――いや、よく考えたら女だった。
そう、よくよく考えたら女だった。
しかも、廃されたとはいえ王家の息女だ。
セレスティーヌの血筋は、ぽっと出の新王家から玉座を奪いたいと願う者にとって、それはそれは価値ある血筋である。娶れば最も箔がつく血筋。セレスティーヌから生まれてくる子供は、神話時代から連綿と続く、由緒正しい前王家の血を引き継ぐことになるのだから――。
そこまで思い至ったとき、セレスティーヌは背中に感じるロランの体温を意識せずにはいられなかった。
なぜ、元上位貴族だったバルテス家の跡取り息子が、自ら危険を冒してセレスティーヌを迎えに来たのか。そこにどんな思惑があるのか。
(まさか。まさかな――)
おそるおそるロランを振り返る。氷のような冷たい美貌の貴公子は、「前を向いてください」とそっけなく言い放つばかりで、心のうちはまったく読めなかった。
(まさかこいつと結婚しろとか言われないよな!?)
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