18. 明石家マグラの仮説
日誌のコピーを受け取ってから一週間後、ようやく私は日誌を読み終えた。
本当はすぐに読み終えるはずだったのだが、読んでいる途中で体調を崩してしまったのだ。ちょうどミオも日誌を読み終えたところだったらしい。
「ちょっと、どう飲み込んでいいのかわかんないですね、これ」
いつも快活なミオが憔悴した声で答えた。
いろいろ確認したいことはあったが、明石家氏本人に話を訊いたほうが早いとなり、早速私は明石家氏に連絡を取った。
すぐに明石家氏からスタジオへ来るようにと云われ、私とミオは明石家マグラのオフィスを訪れた。
普段は撮影スタジオに使われているというオフィスには、様々な宗教のシンボルが置かれ、物々しい雰囲気を醸し出している。
「で、どうやった。読んだ感想は」
明石家は面白がるでもなく、様子を伺うように我々の方を見た。
まずは私から先に口を開く。
「非常に興味深かったです。我々が知りたかったこと、つなら信仰や津奈島の様子もわかり、大変参考になりました。ツナラについてもかなり理解できたと思います」
「おたくらが追ってる話と関係はあると?」
「はい。その点は確信しています」
日誌には、失踪した椛島健太郎の話と共通する項目が何点かあった。
ひとつは祝詞である。
日誌に記されていた津奈来之命への祝詞は椛島健太郎が唱えていた言葉とまったく同じだった。
もうひとつはヒルコである。
津奈来之命に奉納するため、島の人々はヒルコと呼ばれる赤ん坊を真似した藁人形を作っていた。この藁人形には中に牛肉が仕込まれていたらしい。
椛島健太郎も失踪前、ぬいぐるみの綿を抜いて、その中に肉を入れた儀式を行っていた。椛島が行っていた儀式は、龍鎮祭で執り行われた奉納の儀とも重なる。
椛島健太郎の云うツナラは、つなら信仰と関わりがあるとみて間違いない。
「その割には、納得しとらん顔やな?」
明石家はめざとく指摘する。
私は一呼吸おいて答えた。
「日誌の最後、教授はいったいなにを見たのですか?」
もともと七日に帰る予定でいた結城教授はまるで思い立ったように六日に帰還している。前日の日記も途中で終わっており、なにがあったのか記されていない。
さらにもうひとつ気になることがあった。
「最後のくだり。『天井 アレは』って書かれてる部分に染みのようなモノがありました。なにかが濡れた跡にも見えましたけど」
日誌の最後の部分、妙なシミができていたのだ。
ほかのコピーにそのような跡はまったく見当たらない。跡の形からして、真上から水を垂らしたように見えなくもない。
結城教授が最後に聞いたという赤ん坊の泣き声となにか関係があるのだろうか。
「前も云ったとおり、俺は先生からなにも聞いてはいない。つなら信仰について、先生は一切口を閉ざしとった。忘れたがってるみたいに見えたわ」
「先生にとって島でのことはイヤな思い出だった、ということですか?」
ミオは恐る恐るといった様子で訊ねる。明石家は身じろぎしながら、答えた。
「日誌を読む限り、島を嫌っとったわけやないと思う。もともとおもろい研究対象を見つけたら包丁突き付けられようが離さんのが先生スタイルやった。研究を断念したんはそれなりの理由があったんやろうし、無念やったんやないか? せやから俺みたいな不肖の弟子に日誌を託したんやろ」
「明石家さんはどうお考えなんですか。日誌のこと」
「先生が書いたもんやからな。嘘ってことはないやろうけど。ま、怪談みたいなもんとは思ったな。化け物を信仰する島って、ラブクラフトやないんやから」
「でも、お調べにはなったんじゃないですか?」
ミオは質問を畳みかける。まるでなにかを確信しているようだった。
「明石家さんは結城教授をとても尊敬してたんですよね? ほっといたわけじゃないと思うんですけど」
明石家は苦笑しつつも、目許は笑っていなかった。
「俺は津奈島には行ってない。この日誌に書かれたこと以上のことは知らん。だから話せるのは俺の仮説、というか与太話レベルでしかないが、それでもええか?」
私とミオが頷くと、明石家は話し始めた。
「日誌に出てきた、津奈来之命の説話があったやろ? 島に漂着したとかゆうやつ」
「ええ。島の女性に助けられ、そのお礼として島に恵みをもたらすようになったという話ですね」
「その話、どう思った?」
私は少し考えて云った。
「腑に落ちないというのが正直な感想です。実際の祭祀と説話には明らかに矛盾があるように感じます」
日誌を読んでいるあいだ、ずっと感じていた。
説話には奉納の儀に関する説明がない。というよりも津奈比売神社にはあまりにも欠けている伝承が多すぎる。
たとえば神社に代々伝わっていた掛け軸には由縁がなく、奉納の儀についても神社には由縁を伝える確かな伝承がない。
私がそれを伝えると、明石家は我が意を得たりとばかりに頷いた。
「まず説話のほうやけど、これにはおそらく元ネタがある」
「元ネタ?」
「ポリネシアの神話や。トゥナ・ロワって知っとるか?」
聞いたことがない名前だった。私が首を傾げている横で、ミオはスマートフォンを取り出し、検索をかけていた。
すぐにヒットしたらしい。
「あ、ウィキペディアにありますね。鰻の神、ですか」
「せや。島の娘をたぶらかすために、人間の男に変身して娘を誘惑したんやと。けど正体がバレて、首をはねられてもうた。切られた首からヤシの木が生えたといわれとる」
なるほど。たしかに似ている。
津奈来之命の説話には人を惑わす下りはなかったが、ウナギの神、そして最後には穀物などの食べ物を与える点は共通している。
なによりも名前だ。
「津奈来之命の名前は、トゥナ・ロワから来ていると?」
「偶然で片づけるには似すぎやろ。どっちもウナギが絡んどるしな。なんかの拍子に名前が伝わったとしても不思議やないんやないか?」
「でもポリネシアの神話から話を借りてるとして、岩屋のほうとは全然つながらなくないですか?」
ミオの指摘に、明石家はにやりと笑みを浮かべた。
「ごっちゃになってるんとちゃうかな」
「ごっちゃ?」
「あんたら、オカルトで飯食ってるなら、習合って言葉は知っとるやろ?」
「ええ。異なる教義の折衷ですよね。ほかの宗教の神や教えが合体したりする――」
そこで私は明石家がなにを云いたいのか理解した。
「岩屋にいるツナラと、つならの池に伝わるツナラはもともと別の神だった?」
「そう考えたら、辻褄が合う。岩屋にいるほうとつなら池で祀られてるんは別々の神やった。それが、なんらかのタイミングで習合し、ひとつの神として語られるようになった。そこにポリネシア神話の神の名前が伝わって、そっちの名前で統一するようになった。そんなとこやないかと俺は考えとる」
たしかに岩屋の神と、つなら池の神では扱われ方がまるで異なる。これが別々の神だったとすると理解はしやすい。
だが、そうするとまた別の疑問が湧いてくる。
「それにしても、岩屋にいる神に関してはなぜこんなに伝承が欠けているのでしょう? 習合するにしても、教義が残るような気はしますが」
「語りたくなかったんとちゃう? 岩屋にいるんは赤子を供物によこすような神やで? 碌なもんやないやろ。しかも名前や伝承を忘れられてもなお、しっかり供物の奉納はさせとる」
明石家は引きつるような笑いを浮かべた。
「そんだけヤバいなにかがあの島にはおった。そう考えるのが妥当なんちゃう?」
ヤバいなにか。
だんだん私は混乱してきた。いま私は島の信仰についての話をしているはずなのに、明石家氏は「実際になにかがいる」前提で話をしている。
そんなはずはない。そんなのは理屈に合わない。
「明石家さんはあの島になにかがいたと考えているのですか? ツナラと呼ばれるなにかがいたと」
「ああ。せやから、先生は研究を断念した。アレを見て、心をへし折られた。日誌を読んだなら、わかるやろ? 豊田行雄はなにかに怯えとった。千尋はなにかを知っとった。島の連中はなにかを知っとった!」
「ちょっと、落ち着いてください」
明石家氏の言葉がだんだんヒートアップする。私は明石家氏をたしなめるが、相手の語りはますますヒートアップしていた。
「あの島にはなにかがおったその結果が五年前のアレ! 津奈島災害や! 島の人間はみーんなおらんくなった! ツナラ様を信じる者はおらんのに、いまもまたこうしてツナラを追いかけとる人間が現れとる!」
いつのまにか明石家は血走った目で私を見ていた。相手の額には大量の汗が浮かんでいる。相手の血走った目がなにかを探るように私をじっと見据えていた。
「あんたもみとるんやろ。夢を」
「夢?」
「見とるはずや。海の底。島の影。行ったことのない島の姿! 無数の声!」
私は目を見開いた。
椛島健太郎も、椛島祥子も、おなじ話をしていた。
幸せな夢。暗い海の底にいる夢。
潮の香り。古い鳥居の神社。祭の太鼓。池で舞う神楽。夜の海を進む小舟。注連縄のある洞窟。無数の声。囁き声。呻き声。祈りの声。
おぎゃー、おぎゃー、おぎゃー。
赤ん坊の声が聞こえる。私は日誌の一節を思い出した。
泣き声が大きい?
どんどん近づいてる?
赤ん坊が
ひとりじゃない
複数
天井 アレは
私は天井を見上げた。
ここはマンションの一室のはずだ。天井は純白のクロスが貼られていた。しかし見上げたそれは木造りの竿縁天井に変わっていた。日本家屋によく見られる天井だ。横木を組み合わせ、天井板を載せた造りになっている。
その天井板から黒いなにかが複数、こちらを見つめている。
ウナギだ。黒いウナギたちがこちらを見ていた。鰓を動かしながら、ウナギはあえぐように口を開く。
おぎゃー、おぎゃー、おぎゃー。
ウナギたちから赤ん坊の声がした。ウナギたちから粘液が滴り、額にかかる。私は悲鳴もあげられず、ただ茫然とウナギたちを見ていた。
これは誰の光景だ?
教授が見た光景ではないのか?
ウナギたちは天井からぼたぼたぼたと音を立て、落ちた。たくさんのウナギたちが座敷を蛇のようにはいまわっている。
いつのまにか部屋が和室に変わっている。部屋の広さは八畳ほど。小さなテーブルライトが置かれた木彫りの座卓。部屋の隅に置かれた布団。
ウナギたちは互いに集まり、身体をくねらせ、絡ませる。ひとつの塊となり、徐々に形を成していく。
田所恵三の話。宮川の声で話す溺死体もどき。あれが本当だとしたら、ちょうどこんな姿ではないのだろうか?
塊はそれほど大きくない。ぬいぐるみほどの大きさだ。小さな手と足が生えている。ばたばた手足を動かし、ハイハイをする。
これは、ヒルコだ。
ツナラに捧げられた赤ん坊だ。
おぎゃー、おぎゃー、おぎゃー
ヒルコが泣きながら、私のもとへ迫りくる。身動きがとれない。金縛りにあったように立ち上がることができない。
やがてヒルコがこちらに手を伸ばす。小さな手はウナギの表面のように粘液にまみれている。その指先が鼻先に触れようとする。
私は見つめることしかできない。
ヒルコの目。黒い目。
奈落に通じるような、深い深い底無しの穴の目――
「久住さん!」
そこで私の意識は現実に引き戻された。ヒルコも、和室も消えている。明石家のオフィスに戻っていた。
ミオが私の腕をつかみ、明石家から引き離した。明石家のほうを睨み、ぺこりとお辞儀をする。
「今日はこれで失礼いたします。貴重なお話、ありがとうございました」
「待ってくれ、ミオさん。まだ話は――」
「いいから。行きましょう」
ミオは私の背中を押し、オフィスを出て行った。明石家は止めるでもなく、にやつきながら私たちを見送る。
明石家のオフィスがあるマンションの部屋を出て、私とミオはエレベーターに乗り込む。閉ボタンを連打したミオは扉が閉め切ったのを確認すると、大きく息を吐く。
「なんなんですか、あの人。頭おかしいんじゃないですか」
「ディスが過ぎるぞ、ミオさん」
「だってそうじゃないですか、夢だなんだって急に。それに津奈島災害のことも面白がってるみたいに語って……」
ミオの口調には怒気がこもっていた。何度も深呼吸をしてから、心配そうに私を見る。
「久住さんも、どうしたんですか。急にぼーっとして」
「ああ、すまない。明石家さんの迫力に呆気に取られてしまって」
なんでもない態度で答えたつもりだ。
しかしミオは訝しむような態度で私を見ている。エレベーターが一階にたどり着き、扉が開いた。私はミオから視線を逸らし、エレベーターを出て行った。
マンションの外は生暖かい空気に包まれていた。春の陽気が夜にもしみこんでいる。マンションの前に植えられた桜の木にはまだ花びらが残っていた。
「取材、まだ続けますか?」
ミオが私の背中に問いかける。
振り返ると、ミオは不安を押し殺した顔で私を見ていた。
「そりゃあ続けるさ。企画を持ち込んだのは私だから」
「そういうこと聞いてんじゃないですよ」
ミオはバッサリと切り捨てる。
「私は霊感ゼロ女ですけど、これがヤバい話だってのはわかります。本当にこれ以上踏み込む気なんですか?」
「我々は怪談を追ってるだけだ。ツナラだか、化け物だか知らないが、そんなものがいるわけがない」
「でも、現実に人はいなくなってます。椛島健太郎さんも、津奈島の人たちもみんな」
ミオは問いかけるように云った。
「それでも、久住さんが追いかける理由はなんですか? ネタのためですか?」
「……ああ、そうだ」
私は断言した。
「真実を暴きたいなんて殊勝な気持ちじゃない。ただ、面白そうなネタを追いかけたい。それだけだよ」
「それが、人の生き死に関わるようなネタでもですか?」
「ああ」
「そのために、ご自分に危険が及んだとしても?」
「ああ」
答えながら、私は冷静さを取り戻していく。
我ながら、なんて救いようがないのだろうと思う。
しかし結局のところ私は与太話で飯を食っている。この道に入ったのも人を面白がらせる与太話を扱いたかったからだ。
それが不謹慎なネタであろうと、ネタはネタだ。
いまさら引き下がる理由はない。
「そういうミオさんはどうなんだ。どうしてこのネタにこだわる?」
「……私はやるべきことをやる。それだけです」
ミオは感情を押し殺した声で答えると、私に向き直った。
「提案なんですけど、一度このあたりでレポートをまとめて、公開してみませんか?」
「レポートの公開?」
「私たちが追っているツナラと、津奈島の関係はもう疑いようがないと思うんです。いまは情報提供のDMも途絶えてますし、盛り上げが必要かなと。安達さんへの相談が必要ですけど」
「いや、うん。いいと思う。安達さんには僕からも話してみるよ。あの人は祭りを仕込むのが好きな人だから」
「たしかに」
そう云うと、ようやくミオは気が緩んだように笑顔を見えた。
「それじゃあ、また後で連絡します。おつかれさまでした」
「おう。おつかれ」
去っていくミオの背中を見送りながら、私は先ほどの明石家氏の言葉を反芻する。
――あんたもみとるんやろ。夢を。
この取材を始めたときから兆候はあった。日誌を読んだときに核心に至った。
誰かから話を訊いているあいだ、妙に生々しく情景が思い浮かぶことがあった。
おかげで途中から日誌をまともに読み進めることができず、体調を崩してしまった。
これがなんなのかわからない。
ただ、自分の認識している現実と幻想の境目が曖昧になる感覚があった。
この取材で関わった者たちはみな、夢の話をしていた。
いまでも番組のアカウントには夢に関する投稿が来るという。
私はどこに足を踏み入れているのか。ヤバいものに足を踏み入れているのか。
どちらでもいい。
いまさら引き返すことなどできないのだから。
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