四章

第41話


 竿を振って、仕掛けと練り餌を付けた針を、ポチャンと川の中へと放った。

 針が水中に十分沈んだのを確認したら、竿を少し動かして、水中の魚に餌の存在をアピールしていく。

 森の中の川で、錬金術で作った餌を使っての釣りならば、こんな手間を掛けずとも魚はすぐに食い付いてくるだろう。

 でも今日はアウロタレアの町の傍から、隣国であるツェーヌに向かって流れる川で、錬金アイテムの餌には頼らぬ釣りをしてる。

 竿と糸は面倒なので何時も使ってる物だけれども。

 要するに錬金術師として魚を採取する訳じゃなく、単に釣りと言う娯楽を愉しむのが目的だ。


 隣で岩に腰掛けたヴィール、僕のホムンクルスが、竿の操作に合わせて顔を上下させたり左右に振ってる。

 うずうずしてる彼が岩からずり落ちぬ様、僕は左手で竿を保持して、右手でヴィールの首根っこを掴んでちゃんと座り直させた。

「ッ!」

 しかしタイミング良く、と言うか悪く、僕がヴィールに危ないからと注意する直前に、竿にグンと手応えが走る。

 突然の変化にヴィールがまたも身を乗り出そうとするから、僕は右手で彼の襟首を引っ掴んだまま、左手だけで竿を持っていかれぬ様に魚と戦う。


 全く、困った事にこんな時に限って掛かったのはそこそこ大物らしい。

 グイグイと来る強い引きに四苦八苦しながら、僕は魚が疲れるまで必死に耐える。

 ヴィールは懸命に僕を応援してくれているけれど、本当は一番有り難いのは動かずにジッとしていてくれる事なのだが、……まぁそこは状況が落ち着いてから伝えよう。

 今は言葉を発すると、どうしても語気が強くなる。

 僕は危ないからと注意する気はあっても、怒る心算は欠片もないのだ。

 変な誤解を与えてヴィールを萎縮させたいとは、これっぽっちも思っちゃいない。


 右手と左手でそれぞれ別々の相手を制する僕の苦戦は暫く続いたが、魚が疲れて少し大人しくなってくる頃には、ヴィールも自分がはしゃぐと僕が大変である事に気付いた様で大人しくなった。

 外で活動する経験の少ない彼は、まだ色々と物が見えていないけれど、決して頭は悪くない……、と言うよりも知能は多分並の人間よりもずっと高いから。

 僕はヴィールの襟首を掴んでた右手を放し、両手で竿を立てて魚をゆっくりと釣り上げる。


 釣れた魚は……、ナマズの仲間か何かだろうか?

 六十センチを優に超える魚体で、中々の迫力だ。

 この川は水質が綺麗だけれど、一応は泥抜きをした方が、多分美味しく食べられるだろう。

 僕は水を張ったボックスに、ナマズを入れる。

 これは数日後のお楽しみだ。


 釣り上げたばかりの魚なんて初めて見るヴィールは、マジマジと目を見開いてボックスの中のナマズを観察していた。

 まぁ形も面白い魚だから、興味が尽きぬ気持ちは良くわかる。

 だけど今日の釣りには、僕だけが愉しむために来た訳じゃない。


「ヴィール、これ使って、自分でもやってみると良い」

 僕はそう言って釣竿を彼に渡す。

 練り餌の付け方も、針の投げ方も、竿の操作も、ヴィールは全てちゃんと見ていた。

 だったら次は実践あるのみ。


 もしかすると簡単には釣れないかも知れないが、寧ろその方が、何故釣れないかをヴィールが自分で考える切っ掛けとなる。

 どうすれば魚が食い付くのか、魚には餌や釣り針がどんな風に見えるのか、仕掛けには何の意味があるのか。

 考えて理解が出来たなら、釣れた魚を捌くか、串を刺して焼いて食べるとしよう。

 培養槽から出た今のヴィールは、食事が可能だし必要だ。

 だったら何をどうやって食べているのか、理解をした方が良い。

 それは錬金術を習得する上でも、絶対に必要な事だから。



 僕の研究パートナーとなった錬金術師、ディーチェ・フェグラーが町を出る少し前位から、普通の人と変わらぬ程度に動き方を覚えたヴィールは、アトリエの外にも出られる様になった。

 アトリエがある歓楽街は、ホムンクルスとは言え見た目は子供で、精神も未熟であるヴィールにとって、あまり良い環境とは言い難い。

 だから当初は引っ越しも考えたのだけれど、アウロタレアの町を出る前にディーチェが言った言葉に、僕は住処をそのままにしてる。


「ヴィールちゃんはホムンクルスだからこそ、人の欲や悪意を知らなきゃいけません。ルービットさんの影響力が及んで、人の欲と悪意を適度に学べる。ここは逆の意味で良い環境だと思います。優しい人も多いですし、ね」

 ……と、そんな風にディーチェは言って笑ってた。

 それは実に尤もな話だろう。

 勿論、欲や悪意だけじゃなくて、綺麗な物も多く学ぶべきである。

 友情や慈悲、慈愛に情熱。

 色んな事を知って、多様な考え方を身に付ける必要は絶対にあるだろう。


 けれども、そう、欲や悪意と言った負の面を、安全に学ぶ機会は滅多にない。

 遠ざけるのは簡単だが、遠ざけてしまえば学べないのだ。

 要するに必要以上に過保護である事は、ヴィール自身の為にならないって話だった。



「あっ、あっ、掛かった!! 来たよマスター!!!」

 ふと物思いに耽っていると、ヴィールが悲鳴と歓声の入り混じった様な声で僕を呼ぶ。

 焦った様子のヴィールの姿に、思わず笑いが零れてしまう。

 まぁ急に魚が掛かると、手応えに驚くのと釣らなきゃいけないって使命感で、パニックになる気持ちは十分にわかる。


「大丈夫。落ち着いて。竿をしっかり持ってたら、そのうち魚が大人しくなってくれるから、ゆっくりいこう」

 僕はヴィールの肩に手を置き、体勢が整うのを少し手伝う。

 バシャバシャと水面で魚が暴れてるけれど、食った針が外れる様子はない。

 そしてヴィールも落ち着きさえすれば、普段は加減させてるけれども腕力、膂力は並の人間よりも強いのだ。

 多少魚が暴れた位で、竿を持っていかれてしまう様なへまはしないだろう。

 

 やがて抵抗の弱まった魚はゆっくりとこちらへ引き寄せられて、

「釣れたーっ!」

 ヴィールの嬉しそうな歓声が、まだ冷たい風の吹く川面に響き渡った。

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