風の匂い

よつば 綴

頼りない姉


 薄暗い部屋で、夕飯のハンバーガーを頬張る。特に疲れた日は、こうして自分をダメにする。

 明々としたテレビは、見るわけでもなく聞いているわけでもなく、ただ手元を照らす為につけているだけ。寂しさを紛らわせる為の、ささやかな抵抗なのだろうとも思う。


 流行りも社会情勢も特に気にならない。近頃は、洗濯のタイミングと次の食事の事くらいでしか悩まないのだから。

 仕事は恙無く進み昇進目前。成功している、とでも思われるだろうか。心が徐々に、感情を忘れてゆくことが薄ら淋しい。



 二つ目のバーガーを食べようと袋に手を突っ込んだ時、ナゲットの不在に気づいた。くそ、今日一番食べたかったのに。しかし、連絡するのも面倒に思い諦める決意をした。

 その時、偶々流れていたニュースが耳に入った。



『今日午後5時過ぎ頃、○○県○○市で大型トラックと乗用車が正面衝突しました。見晴らしのいい道路で――』



 そこは弟の正樹まさきの転勤先だ。突然不安になった。そして、その不安はさらに大きくなる。

 事故現場を映した映像には、弟が勤める会社のロゴが入った乗用車が。助手席が大きくへしゃげている。



『乗用車を運転していた40代の男性が重症、助手席に乗っていた20代の男性はその場で死亡が確認されました。トラックの運転手は軽傷で────』



 心臓がドクンドクンと、一つずつ早く大きく打つ。弟に連絡しようとスマホを探す。

 帰ってすぐにベッドに放り投げたはずなのだが見当たらない。



『なお、トラックの運転手の呼気から基準値を超えるアルコールが出ており、飲酒運転と見られ────』



 ようやくスマホを見つけたが、手が上手く動かない。震えを抑え、やっとの事で正樹に電話をかける。

 呼出音が続き、不安が募る。まさかあの子が····、と。



「――はい。姉ちゃん、どしたん?」


「アンタ生きてたん? 今そっちで事故があったってニュースで、アンタかと思って······」


「テレビ見たん? 俺は大丈夫やよ。会社はバタバタしてるけどな。姉ちゃん、相変わらず心配性やな」


「しゃーないやろ。唯一の家族やねんから! 良かった、アンタやなくて····」


「こら! 姉ちゃん、それはアカンで。俺やなくても、死んでもうた人がおるんやで? 気持ちはわかるけど、それはアカン。母ちゃんがずっと言うてたやろ」


「せやな、せやったな。ごめん。アンタが無事なん分かったら安心してもうて」


「そうか。まぁ、しゃーないわな。なぁ姉ちゃん、近々一緒に母ちゃんの墓参り行こうや。1回気持ち入れ直そう」


「うん、ええね。そうしよ。休み合わせるわ。落ち着いたら連絡して」



 正樹の言葉にハッとした。母の教えを蔑ろにしていた自分に嫌気がさす。

 母はとても穏やかで優しい人だった。父親の暴力から、私たち姉弟を連れて逃げてくれた。朝から夜遅くまで無理して働いて、身体を壊してまで働いて、正樹が成人する前に死んでしまった。

 そんな母の口癖は『他人を大切に思える優しい人に、この世界の全てを許せる大きい人になりなさい』だった。きっと父親を恨んだり、上手くいかない事に嘆くなという事だったのだと思う。

 私はあまりこの口癖が好きではなかった。押しつけがましいとさえ思っていた。しかし、真面目な正樹は違ったようだ。

 正樹はしっかり者で頼りになる存在だった。小さい頃から頼りない私とは正反対だ。私は今でも、正樹に依存している気がする。心が自立できていないんだ。

 正樹に何かあったら····、そう考えただけで涙が溢れてくる。私はお姉ちゃんなんだから、もっとしっかりしないと。




 墓参りの日、久々に正樹に会った。1年も経っていないのに、別人のように筋骨隆々になっている。昔はすらっと細くて、モデル体型だったのに····。



「アンタ、なんか大きなったなぁ。鍛えてんの?」


「ちゃうちゃう。現場仕事で鍛えられてん」


「へぇ、メンテナンスってもっと大人しいんや思ってたわ」


「まぁ、うちの会社が特別力仕事多いだけやで。普通はもっとヒョロいわ」



 あぁ、正樹だ。ニカッと笑う悪ガキのような笑顔。この笑顔に何度救われただろう。



「こないだ、電話でごめんな? アンタがって思ったら、姉ちゃんパニックってもうて」


「ええよ。姉ちゃん、昔からそうやんな。俺がちょーっと怪我しただけで泣きながら『正樹が死んでまう~』って騒いでたもんな」


「ちょ、もうやめぇや! 恥ずかしいわ!」


「いやいや、事実やからしゃーない」


「もうええって。ほら、はよ母ちゃんトコ行くで!」



 約1年ぶりに訪れた母のお墓は、思っていたよりも綺麗だった。誰か来たのだろうか。祖父母はとうに亡くなっていて、母には私たち以外に親族はいないはずなのだが。



「姉ちゃん、実はな、吃驚せんと聞いてほしいねんけどな······」


「何なん?」


「親父がな、来てん」


「は?」


「親父な、ずっと俺らに謝りたかってんて。母ちゃんにも俺らにも酷いことして、謝って済まへんのはわかってるけど、どうしても謝りたかってんて」


「············で?」


「母ちゃんが死んだって言うたら泣いてたわ。どうしよう、どうしようって言いながら」


「····自業自得やろ」


「親父、病気やねんて。あと1年、生きれるかどうかって言うてた」


「あの人がどうなろうと知ったこっちゃないわ」


「そう言わんと、な? 1回だけでもええから、うたってくれへんか?」


「なんで会わなあかんのよ。あんなクソみたいな人間に」


「姉ちゃん、母ちゃんの口癖覚えてるか?」


「······うん」


「たぶん母ちゃんは、親父の良いトコもいっぱい知ってたんやん? そら結婚したぐらいやねんから。で、こうなる事も多分わかってたんやと思うねん」


「······うん」


「お墓、綺麗やったやろ? この前、親父と来てん」


「······うん」


「でもな、俺親父にな、姉ちゃんには会いに行くなって言うてん」


「····なんで?」


「姉ちゃんヘタレやから」


「なにそれ、意味わからん」


「ちゃうねん、ごめんて。ホンマはな、心配やってん。姉ちゃんは絶対許さんと思ったから、揉めたらどないしようって思ってな。俺かて親父の事許した訳ちゃうし、ましてや信用なんかできんからな」


「······ふーん」


「ふーんて。まぁでもな、反省して歩み寄ろうとしてるみたいやし、あんま蔑ろにすんのもなぁと思うねん」



 私は、何も言えず黙ってしまった。正樹は優しい。昔から、誰にでも優しい子だった。

 だから、あんなクズみたいな人間でも、どうにか許してしまおうとするんだ。いつか騙されて、酷い目に遭わないか心配だ。



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