第23話虹色は不幸の証
「あーだるっ!」
煉獄を、二人の天使が飛んでいた。彼らは死者を案内する権利をはく奪されたが、煉獄そのものは立ち入り禁止になっていない。それに、地獄に行くには必ず煉獄を通らなければならないのだ。
「仕方ないだろ。昨日は結局、なんにも起きなかったんだから」
眼鏡の天使が恨めしそうに、ピアスの天使を見る。その懐に入っているはずの虹色のクローバー。彼らはそれに期待していたが、結局一夜明けても、何の変化もなかったのだ。
「くっそ。やっぱそんなに甘くねーか」
「あーいいな……飛んでるよ」
「見んなって。羨ましくて死んじまう」
見上げると、死者の手を取って飛んでいく白い翼が見える。生前どんなに悲惨な死を遂げていたとしても、あのオーラを見れば心が癒され、天国で幸せに暮らせるという。あれこそが天使の本来の姿であり、自分たちもほんの少し前まではあそこに加わっていたのだ。
「で、俺らは今日もここかよ……」
地獄への長い階段の前で、二人は一度白いタイルに足を付けた。白い階段は地獄に近づくほどに黒く染まっていき、漆黒の階段を踏んだ先には地獄の景色。二度と見たくないと思っていたが、今日も彼らは階段を降りなければならない。
「あら? あなたたち……この階段を降りるの?」
知り合いに見られないうちに急ごうと再び浮き上がった二人の前に、濃紺の豊かな巻き髪の悪魔が青い花を一輪持って階段を上がってきた。この階段を通る天使は珍しい。不審そうな視線を受けて、ピアスの天使が口を開く。
「あの、俺たちは……」
「あぁ! わかったわ。あなたたち、煉獄クビになった天使たちね!」
どうやら、彼女は天使たちの事を知っているようだ。ポンと手を叩いたメルルに、眼鏡の天使が慌てて言った。
「あのっ! お願いですから、その事は天使には言わないでください!」
「つか、なんで知ってるんすか?」
「仕事おろしてるんだから当然でしょ」
メルルの言葉から、どうやら毒の沼の責任者らしいと天使ふたりは理解した。しかし今の会話を周囲の天使に聞かれてはいないかどうかが気になって挨拶どころではない。きょろきょろと周りを気にする天使たちを見て、メルルは首を傾げた。
「もしかして転職した事周りに言ってないの?」
「……はい。その……言いづらくて」
「あらどうして? 天使ってそんなに転職に厳しいの? 仕事なんて自由に選べば良いのに」
「いえ。そういうわけじゃないんですけど」
「煉獄の仕事……好きだったので」
ピアスの天使が唇を噛んだ。たった一度の間違いで失った、誇り高き天使の仕事。しかし、地獄には天国よりも多くの仕事があるので転職も普通の事だし、悪魔たちは煉獄から死者を引っ張ってくる仕事が特別重要なものだとも思っていない。煉獄勤務が階段を何往復もしないといけない面倒な仕事とだけ認識しているメルルには、天使たちの気持ちはわからなかった。
「あんな仕事が大事だなんて、ほんと変わってるわね」
高く昇る白い翼を見上げて、メルルはどうでも良さそうに言った。その態度は天使の花形を侮辱しているように聞こえ、ピアスの天使は眉を吊り上げ、眼鏡の天使は眉を寄せた。しかしそんな表情の変化も、ピリッとした空気感さえも、メルルにとってはどうでもいい事だ。彼女はふたりの天使に対して、爪の先ほども興味を持っていない。
「……誇り高い仕事なんですよ。一日中陰気臭い霧の中にいるあなたにはわからないと思いますけど」
「何ですって!?」
しかしムッとしたように言い返した眼鏡の天使の言葉に、今度はメルルが眉を吊り上げた。
「責任者になるのどんだけ大変だったかわかってんの!? そっか、お気楽な天使にはわかんないわよね」
「気楽!? 俺たちがどんな気持ちでこの階段降りてるかなんて知らないくせに! 悪魔ってほんと無神経ですよね」
「何ですって!? 軟弱な天使が傷つかないように、お守りしてやってんのがわかんないの!?」
「そんなの頼んでないですし」
「はぁ!? あんた達そんな事言って……」
「どうしたの? こんなところで」
言い争っている途中で、ルシファーがやってきた。天使ふたりが軽く頭を下げる。ルシファーは、メルルに向かってにっこりと微笑みかけた。
「こんにちは」
「……どうも」
メルルは少しだけ眉を寄せて彼女を見た。白い翼を持ちながら、悪魔のリーダーと婚約して地獄一の豪邸に住む女。悪魔の女性なら誰もが憧れる立場を手に入れたにしては、何に秀でているわけでもなく、何を努力しているわけでもないように見える。一体こんな女の何がいいのか、メルルは探るような視線を向けた。
「ちょうどよかったわ。次回の医療棟の注文リスト、お願いしようと思ってたのよ」
ルシファーはメルルの視線を気にせず、一枚の紙を差し出した。メルルは一目それを見て、がっかりした声を出した。
「注文リスト、ね」
以前はクロムが仲介していたシルバーの注文票は、最近ルシファーが持ってくるのだ。それは早く地獄にも馴染みたいと積極的に関わろうとしているルシファーの努力なのだが、メルルに対しては逆効果だった。彼女はクロムを狙っている。貴重な接点を奪った者のことを、好きになれるはずがない。
「別にあなたが持ってこなくてもいいのに」
「いえ。これからも私が持って行くわ。よろしくね」
「いいわよ無理しなくて。今まで通りクロム様に頼めば……」
「クロム様はお忙しいもの。仕事が減って助かるって言ってくれてるし」
ルシファーは微笑んだが、メルルの気持ちを知らないが故の言葉は彼女を更に苛立たせる。
「ねぇ……もしかしてわかってて邪魔してるの? あなたってほんと、自分の事しか考えてないのね」
「え? 何言ってるの? 私はただ、仲良く……」
「仲良くですって? いかにも天使の発想よね。お気楽ムードには付き合ってらんないのよ」
メルルはルシファーの手から注文用紙を乱暴にひったくった。いかにも苦労をしていなさそうな、無垢な小動物のようなきょとんとした顔。ケルベスが可愛らしいと称するその表情が、メルルにはやけに癪に障るのだ。
「そんなに仕事に自信があるなら、これ持ってってくれる? 医療棟に」
メルルは、苛立ち紛れに持っていた
「この花はちょっと特殊なのよね。天使にはちょっと難しいから、私が持って行こうと思ってたんだけど……やっぱり無理よね」
「いいえ、大丈夫よ。持って行くわ」
メルルの挑発じみた視線を強い眼差しで押し返して、ルシファーは
「あら。もしかして見たことないのかしら? 教えてあげるわ。それはね……」
「だ、大丈夫よ。知ってるわ。医療棟に持って行けばいいんでしょ?」
ルシファーは咄嗟に嘘をついた。天使である自分を蔑むように見る彼女に、これ以上無能だと思われたくなかったのだ。もともとルシファーは毒の沼の植物はほとんど知っているし、扱いも熟知している。この花もたまたま見たことが無いだけで、毒の沼に咲く毒花と似たようなものだと彼女は思い込んでいた。地獄の上層までしか行ったことのない彼女は、下層の恐ろしさを知らない。天使や悪魔を一瞬で灰にするような植物があるなんて、想像もしていなかった。
(きっと、麻痺毒かなにかね。衝撃を与えると毒を吐くタイプかしら)
宝石のような青い花をじっと見るルシファーに、メルルは再び聞いた。
「本当に説明しなくて大丈夫なのね?」
「えぇ、大丈夫よ。私だって、この仕事はそこそこ長いんだから」
「そう。ならいいんだけど……事故を起こしても、私のせいじゃないわよ」
メルルは冷たく言った。この花は下層に咲く植物の中ではあまり危険ではない方の部類だ。噴き出す炎は確かに威力が高いが、繊細に見える花弁は意外にも固く丈夫で、少し落としたくらいの衝撃ではびくともしない。普段から毒草を扱っているルシファーなら、思い切り投げつけたり握りつぶすなんてことは無いだろう。本人も自信満々だし、問題ないとメルルは判断した。
(大丈夫よね)
メルルはひとり頷き、追い払うようにリストを持ったままひらりと手を振った。
「じゃあさっさと行っちゃって。間抜けな天使ふたりも連れてってよね。邪魔だから」
「ほんと悪魔って性格悪いっすね。地獄で罪人と一緒にいるのがお似合いっすよ」
「はぁ!? あんた達ほんとムカつくわ! 天使って皆こうなのかしら」
「臭くて汚い地獄に住んでる悪魔に言われたくないっすね」
「何ですって!?」
先ほど中断した喧嘩が、それ以上の勢いで再開された。これくらいの口論は地獄では普通の事だが、慣れていない天使達は一言ごとに傷つき、それ以上で言い返そうと眉を吊り上げて言い返す。ルシファーはというと、戸惑いながら両者の間でおろおろするばかりだ。
「あの……ちょっと、落ち着いて……」
「うるさいなっ。地獄に住んでる奴は黙ってろよ!」
興奮していたピアスの天使が衝動的にルシファーを追い払うように手を振った時、彼の懐から白いハンカチがポロリとこぼれた。ルシファーが目の前に落ちたそれを拾う。ピアスの天使は焦ってルシファーに駆け寄った。
「早く返してください!」
「どうぞ」
ルシファーからハンカチをひったくるようにして持ち、ピアスの天使はすぐに中身を確かめた。そこには虹色のクローバーが挟まっているはずなので、万が一無くしていたらと思うと気が気ではない。そして、まさかというかやはりというか、ハンカチの中には、虹色は欠片もなかった。
「無いっ! 嘘だろ、どこに……」
「どうしたの?」
「クローバー! 虹色の!」
もはや敬語を使う余裕もないまま、ピアスの天使は地面に視線を這わせて虹色を探した。やがて眼鏡の天使もそれに気が付き、一緒に虹色を探し出す。その間に、メルルは興味なさげにその場を去っていった。
(虹色のクローバー? それって確か……)
ルシファーは彼らを見ながら、以前虹色のクローバーを見つけたことを思い出していた。不幸の証だと、確かに彼女はメルルから聞いていたのだ。
「無くなったの? 良かったじゃない」
成程、不幸の証なんて持っていたから、彼らはこんなに不満だらけなのだ。そう内心で納得して頷くルシファーだったが、彼女の口から出た言葉は完全に、喧嘩を売っているようにしか聞こえなかった。
「は?」
ピアスの天使が、今まで出したことのないであろうほど低い声を出した。眼鏡の天使も拳を握り、ルシファーを睨んでいる。
「……今、何て言ったんすか?」
「良かったわねって」
「人の不幸を喜ぶなんて、天使がそれでいいんすか!?」
「不幸? えぇ。だから、不幸が無くな……」
「地獄にいるから頭がおかしくなったんすね。悪魔になったみたいっすよ」
説明を遮るようにして放たれた眼鏡の天使の一言が、ルシファーに刺さった。祭りの夜に言われたことを思い出す。地獄に住んだら、悪魔になったと見なされる。しかしそれは彼女の本意ではない。
「……いいえ。地獄に住んでも私は天使よ。白い翼に誇りを持ってるの。あなた達よりもずっとね」
ルシファーは白い翼を広げて、自分に言い聞かせるように言った。最後に付けた余計な一言は、普段誰の悪口も言ったことがない彼女の精一杯の嫌味だ。そしてそれは、彼女の思惑以上にふたりの天使を怒らせた。
「……ふざけんなよ!」
「きゃーっ!」
ふたりは怒りを抑えきれず、ルシファーに飛び掛かった。眼鏡の天使がルシファーの片手を押さえ、ピアスの天使がもう片方の腕を掴む。少しの間揉み合いが続き、やがてピアスの天使は彼女の手の中の青い花に目を向けた。ルシファーが先ほど自信満々に運ぶと言っていた花。もしこの場で落として台無しにしたりすれば、彼女は恥をかくだろうか。
(どうせ悪魔は毒なんか効かないんだし、彼女は治癒があるから治せるし)
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