第7話愛のためなら無理もする

「ルシファー!」


 地獄で最も広い上層。地獄行きの中でも最も軽い罪の魂がいくところで、ケルベスは煉獄に繋がる黒い階段を降りてきた天使の手を取り迎え入れた。


 ふわっとした栗色の髪。一見黒かと思われがちだが、よく見ると緑がかった小動物のように丸い瞳。背に広がる翼はリーダー天使と比べると小さいが、清らかで愛らしい。


「ケルベス! 待っててくれたの?」

「当然だよ。やっと婚約できた、大事な妻になるひとだからな」


 ケルベスは愛しの婚約者に笑いかけた。ルシファーも微笑み返し、地獄の景色を見渡す。


「ここが私たちの新居を構える地獄ね」

「正確には、ここの一つ上だけどな」


 ケルベスは天井を指した。天国に比べて狭く深く、いくつもの層に分かれている地獄に空はない。しかし上層の一つ上の層には、多くの悪魔たちが住む住居エリアがある。空は常に暗く腐臭と血の匂いが地面に染みついていて、天使や人間の感覚ではとても居心地がいいとはいえないが、二人はそこに新居を構えることになっている。


「やっぱり天国に住まないか? そっちの方が居心地いいだろ」

「いいのよ。悪魔のリーダーが天国に住むなんて、それこそ周りに何て言われるかわからないわ」

「言わせておけばいいじゃないか」

「そういうわけにはいかないでしょ」


 ルシファーは困ったように笑った。地獄に住むと言い出したのは彼女の方だ。ケルベスは天国の方がいいと思っているが、周囲の視線が気になるのだと言われれば、押し切ることなど出来ない。申し訳なさそうに眉を下げるケルベスを見て、ルシファーは付け加えた。


「それに、誇り高き指導者リーダーの妻になるんだもの。地獄にくらい住めないと、あなたには釣り合わないわ」

「釣り合いなんて関係ない。無理しない方が……」

「いいの! 少しくらい無理させて。誰もが納得するような素敵な指導者リーダーの妻になりたいのよ」

 

 ルシファーは胸を張って繰り返した。自分のリーダーとしての誇りが彼女の胸の中にもあるのだと、ケルベスは嬉しく思いながら黒い翼をピンと伸ばす。黒いコウモリのような翼。彼の翼は生まれつき、右側が少し欠けている。


「じゃあ行こうか。地獄中で一番でかい家建てようぜ!」

「キッチンは広い方がいいわ。あと天国から大きな保管庫取り寄せてね。地獄って食材もすぐ腐っちゃうんだもの」

「仰せのままに、お姫様」


 ケルベスは再びルシファーに向けて手を出したが、彼女は今度はその手を取らなかった。


「大丈夫よ、自分の翼で飛べるわ。地獄に住む初の天使として、しっかりしないとね」

「ははっ! 俺の妻になる天使ひとは頼もしいな」


 ケルベスは豪快に笑うと、住居エリアに向けて飛びあがった。ルシファーはその顔が後ろを向いたのを確認した途端、少しだけ眉を寄せて口元を押さえる。耐え難い悪臭、よどんだ空気、暗い景色、絶えず聞こえる罪人たちのうめき声。本音を言うと、目と耳と鼻を塞いで今すぐ天国へ帰りたい。


(ダメ。頑張るって決めたんだから、ちゃんとしなきゃ)


 すぐについてこないのを不思議に思ったケルベスが、空中で止まってこちらを見ている。無理しているのを悟られてはいけないと、ルシファーは先ほどのように笑顔を浮かべながら、愛しの彼のもとへと白い翼を動かしたのだった。




             ◇





「なんでそんな無理すんのよ」


 天国の中心部。多くの天使が住み込みで働く大きな白亜の城の隣に、『医療棟』と呼ばれる天国一高い塔がある。治療や最先端医療の研究を行うそこの最上階の研究室で、シルバーは眉を寄せてルシファーを見た。


 シルバーと同じく癒しの力を持っているルシファーは、数多くいる彼女の助手のひとりにすぎない。しかし、他の能力に比べて多くの体力を必要とする癒しの力を立派に使いこなし、体力自慢の男性が多い中、小柄な身体で一生懸命働く彼女の努力をシルバーは大いにかっていた。


「だって、リーダーに無理させられないじゃないですか」

「あんたのその体育会系の思考って、婚約者にも適用されんのね」


 シルバーは呆れ顔で白衣のポケットに手を突っ込むと、中から小さな瓶を出してルシファーに渡した。ルシファーはその瓶を光にかざしてみた。透明な液体だが、微かに紫がかった細かい泡がたっている。見たことのないものだ。


「何ですか、これ? 新薬?」

「地獄に行く前に飲みなさい。少し慣れるのが早くなるわ」

「ありがとうございます! シルバー様天才っ!」


 ルシファーはその愛らしい小動物のような顔に満面の笑みをうかべてシルバーを見た。シルバーはくすりと笑って、その栗色の髪をぽんぽん撫でる。


「言っとくけど、こんな薬は気休めだからね? 天使が地獄で暮らすって大変よ」

「わかってます。でも悪魔が天国で暮らすのだって大変ですからね」

「相手はケルベスでしょ? 強いんだから、ちょっとくらい無理させなさいよ」


 シルバーは心配そうにルシファーを見ている。しかし、ルシファーは笑った。


「彼もそう言ってくれるんですけどね。でも、正直ちょっと興味もあるんです。彼の生まれ育ったところですから」

 

「地獄って、彼氏の実家っていうノリだけで住めるとこじゃないと思うんだけど」


 そういうシルバーは、ミカエルを除けば地獄の最下層まで行ける唯一の天使だ。しかし行けるのと行きたいのとは別である。たとえ魔王と結婚したとしても、シルバーは地獄に住もうとは思わないだろう。


「最下層ってどんなとこですかね?」

「長くいると自分の首を切り落としたくなるくらいやばいとこよ」

「行ったことあるんですか!?」

「たまにね。でも二度と泊まることは無いわ」

「と、泊まり……? まさかクロム様と……」

「まさか」

「だってお似合いですし。あ、一緒に地獄に住みません?」

「絶対嫌よ」


 とんでもない誘いにシルバーの頬が引き攣った。


「だいたいあいつとはデートしたこともないっていうのに、何でこんなに勘違いされんのかしら」

「え、いつも一緒にいるじゃないですか?」

「違うのよ。あたしが行くところに、何故かいっつもあいつがいんの」


 よほど行動範囲が近いのか、一日に何度も顔を合わせるあの背の高い悪魔を思い出し、シルバーは首を振った。二人は相手に合わせて自分を変える事はないし、相手にそれを求める事もない。

 

「でもシルバー様とクロム様って、私の憧れなんですよね。あのお似合いなのにベタベタしてない大人の距離感というか」

「そりゃ付き合ってないもの」

「信頼感というか、何か事件が起きた時には真っ先に報告に行くし」

「仕事だからよ」


 両手を胸の前で組んでキラキラした目で自分を見る部下の目を覚まそうと、シルバーはルシファーの瞳の前で手を振った。


「夢見る乙女ね」

「ダメですか?」

「いいんじゃない? 結婚間近なんてそんなもんでしょ」

「ふふ、浮かれてるのかもしれません」


 ルシファーのにやけた顔を見る限り、浮かれているのは本当だろう。彼女は丸い瞳をキラキラさせて続けた。


「彼と会うまでは天使と悪魔って全然違う生き物だと思ってたんです。でも、彼に会ってから私変わりました。だってすごく簡単に分かり合えるんですもの。もしかしたら私たち、違うのは翼だけなんじゃないかって最近は……」

「全然違う生き物よ」


 シルバーは頬を引き攣らせながら言った。これは危ない。どんなに分かり合えても一緒にいて楽しくても、悪魔と天使は別物だ。気遣い合って一緒にいることはもちろんできるが、全く違う文化に合わせるのは簡単ではない。


「天使と悪魔が一緒に住むのは大変よ。地獄に住むなら、それなりに勉強しないと」

「シルバーさんも、クロムさんと一緒にいるために勉強したりしますか?」

「だから違うって……」


 再度否定しかけて、シルバーは一度言葉を呑み込んだ。ルシファーの瞳が不安に揺れている。


 心細いのだろう。仲間が欲しいのかもしれない。前例があるとはいえ、異種族間結婚は少数派だ。そしてその全ての組が、別居婚を選ぶか天国に住んでいる。


「でも、そうね……もし・・、あいつと結婚するとしたら・・・・・・


 シルバーは少し考えて、あり得ない未来を想像してみた。結婚式? しないだろう。新居? 想像できない。きっとあっさり書類だけ書いて、いつも通り過ごすだろう。何百年かに一度くらいは、どこかに出かけたりするだろうか。


「……あたしは別居婚を選ぶわね。でも悪魔の事は徹底的に勉強するわ。きっとあいつもそうするでしょうし。あとは……そうね。たまに食事くらいは」

「作るんですか!?」

「食べに行くに決まってんでしょうが」


 生まれてこの方料理なんてしたことのないシルバーが両手を腰に当てて呆れたように言った。それを見て、ルシファーが笑う。

 

「シルバー様、料理の才能なさそうですもんね。薬草の調合は上手ですけど」

「うっさいわね。いいのよ、必要無いんだから」


 あまり笑ったら悪いと思っているのか、口を押さえて肩を震わせているルシファー。彼女の表情からは、もう先ほどの不安は消えているようだった。しかし料理にしても、天使は菜食、悪魔は肉食が基本。必要な栄養素も何もかもが違う。


「頑張って」


 やはり難しいのではとの言葉は呑み込み、シルバーは激励だけを口にした。

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