遠能温泉旅館事件 2

森 三治郎

遠能温泉旅館事件 2


「いらっしゃいませ~、長谷川はせがわ様ですね。お待ちしておりました」

「どうも」

「さっそく、お部屋へご案内しますね」

亭主は仲居に案内されて行ったが、妻は残った。

「何か・・・・・?」

「部屋空いてないかしら、せっかく風光明媚ふうこうめいびな温泉に来たのに夫と一緒の部屋じゃ、息がつまるわ」

「まあ、そんな~・・・・・月の間なら空いてますが」

「そこ、お願い」

「承知いたしました。マネージャー」


「あの夫婦、別々の部屋を取ったんだって。一緒に来たのにね。仲悪いんだ~」

「そんなもんだろ。何処でも似たようなものだ」

「菊久池さんとこもそうなの」

「俺んとこは、ラブラブさ」

「ウソ~、見栄張っちゃて~。そんなこと無いでしょうよ」

「勢津子さんとこはどうなのさ」

「うちのは年金暮らしのひきこもり亭主、鬱陶うっとうしいたらありゃしない」


 今日はもう2組の客があった。

一組目は直井 つとむと田中 わたるの老人二人組。もう一組は高藤たかとう 日出雄という、中年の一人客。


「風呂の時間割は、どうなっているのかしら」

渡辺 勢津子は、長谷川夫妻の妻の方、長谷川 由布ゆふに風呂の時間割を聞かれた。

「ヒノキ大風呂及び露天風呂は朝6時から9時まで、昼は2時から11時までです。なお、崖下にある川べり露天岩風呂は夜7時から男女1時間ごとの交代制となっております。

時間割については、各部屋に説明書が置いてあります。はい」

「そう、ありがとう」



異変


 夜、11時10分過ぎ崖下の露天風呂に続く階段付近で「ギャー!」という悲鳴が上がった。

夜の部のフロントに居たマネージャーが、夜の部の清掃担当の平山に見に行かせると、さっき通ったお客さんが階段で滑ったらしく頭、後頭部から血を流して倒れているとのこと。

倒れたのは、長谷川 悦郎様、直ちに救急車を要請。妻の長谷川 由布様に連絡、女将にも連絡、菊久池、勢津子にも来てもらいと、大騒ぎになった。


 救急車は来るのに10分ほど時間を要し、その間怪我人は頭にタオルが当てられ、身体には毛布が掛けられていた。

直ちに救急車で病院へ搬送されるが、意識不明の重体。

代わりに、南能の警察が来た。


 現場を担当するのは、南能署の岩瀬係長。

岩瀬は単純な転落事故かと思っていたが、現場を見、関係者に話しを聞くと不自然な状況が浮かんできた。



マネージャーの証言


 怪我人は長谷川 悦郎63歳。会社経営。夫婦で宿泊。が、夫妻の部屋は別々。仲が悪いらしい。その長谷川 悦郎が、7月7日11時10分ごろ崖下岩風呂に行くのをマネージャーの江藤 歳哉が確認。さほど酔った風はなく「岩風呂は、あそこの階段を行けばいいのですね」と声を掛けたと言う。

「12時までです。どうぞ、ごゆっくり」と言うと、頷いて歩いて行ったと証言した。

いくらもしない内に、「ギャー!」という悲鳴と鈍い音がしたので、夜間清掃担当の平山を見に行かせた。平山は直ぐ帰って来て、階段で滑ってお客様がケガをしてると報告した。

平山に救急車を呼ぶように頼むと、私は階段の方へ。


 長谷川様は、岩階段の途中にある踊り場に階段の下の方に頭を向け、仰向けに倒れていました。血だまりがみるみる大きくなって、これは重症だなと思いました。

下手に動かしてはいけないと思い、傷口にタオルを当てるだけに留めました。

でも不思議なのですよね、見てもらえば解るのですが、岩階段を降りるにはわざわざ特注の草履に履き替えるのですよ。表面は畳模様、材質は濡れてもいいようにビニール製ですが。底は、滑らないようにゴム製。階段の角には、滑り止め加工が施してあります。安全には重々気を付けております。はい。滑ろうとしたって、滑りようがない。

さほど、酔っている風にも見えなかったし、滑って落ちるとは・・・・・。

ご覧になったと思いますが、階段は右手が岩の壁に手すりが、左手は開けていて岩が点々と散らばりその間に野草、今の時期は山ユリの花が咲いていて、途中には岩が覆いかぶさったトンネルもあって、それはそれは、評判が良いのですよ。

はい。以前は滑った事故がありまして、肘を擦りむいただけでしたが、それで滑り止めを付けた訳で、それからは一度も事故は起きておりません。



疑義


 マネージャーの証言は、事故の可能性は低いという。それでは、加害者が居たということか。崖下の露天風呂に降りる左手には岩が点々とあり、その間に季節草花が植えられ散策コースがトンネルの手前まである。

夜、こっそり抜け出して被害者を突き飛ばすことも可能だ。

これは、関係者全員に事情を聞く必要があるな。

岩瀬の心象は、事件の方に傾いていた。



岩瀬の事情聴取


 犯罪の要因は

1、金銭目的

2、怨恨

3、愛憎の縺れ に、おおむね集約される。

今回は、3番かな、もしくは1番。

旅館の従業員は除外していいだろう。動機がない。犯行を依頼された可能性も極めて低い。

簡単な事情聴取でいいだろう。

問題は宿泊客。

高藤 日出雄と直井 努、田中 わたる組は関連性が薄いと思われる。

一応は、事情聴取する必要がある。関連性なしの確認だ。

が、直井、田中組は別の面で怪しい。直井は女と見れば誰彼なく声を掛ける。

女将には「風情があって、いい旅館ですね。ヒノキ風呂もいいし、崖下の岩風呂も入って見たい。女将も美人だし、いう事ないねぇ~」

由布に対しては「憂いがあって、この宿にぴったり。湯上りにご一緒したいなあ」などと、言っていたという。

勢津子に対しては「俺、ふくよかな人が好きなんだ。女は、ふくよかじゃなくちゃねえ。

俺、勢津子さんに押しつぶされたい」などと言っていた。

対し、相棒の田中は「直井先輩は口先だけだよ。口先先行の不実行。口先スケベ」と、言うと、「亘先生は、むっつりスケベなんだよ」と言う。

亘先生こと田中は、下が紺のジャージ、上がポロシャツに野球帽。

おしゃべり好きの勢津子によると「運動靴にジャージ、ポロシャツに野球帽何てかっこうで来た客は、田中様が初めて」と言い、何でもWeb作家らしいと言う。

『口先スケベ』と『むっつりスケベ』のWeb作家、何か怪しい。

いかん、問題なのは、長谷川 悦郎の妻由布だ。


 岩瀬は由布の一日の行動を詳細に聞いた。当然、夫悦郎とは別行動。問題の崖下の露天風呂へは、8時の部の女性専用時に階段を下るのをマネージャーと他の数人が確認。現場の認識がある。階段左に広がる散策コースも認識してるはずだ。

だが、心象的にあやしいというだけで、証拠も目撃情報も何もない。このままでは、一番無難な事故ということで片付ける事になりそうだ。

 真夜中の1時過ぎに、長谷川 悦郎死亡との知らせがあった。

岩瀬は複雑な思いを抱えて、一夜を過ごした。



急展開


 空き部屋で束の間の仮眠を取っていた岩瀬に、部下が「田中さんが証言したい」と言っていると、知らせてきた。

時刻は7時30分過ぎ、岩瀬は「すぐ、会う」と伝えた。どうせ、食欲はない。

顔だけ洗って、出向いた。


 自称Web作家の田中は、紺のジャージ下、灰色のポロシャツに野球帽、とても宿泊客には見えない。

その田中が「付いてきて」と言うので、岩瀬以下ぞろぞろと付いて行った。

 着いたのは、階段左側に広がる岩の点在した散策コース。今の時期は、山ユリの花が咲いていてあたりは、むせかえるような濃厚な芳香が漂っていた。

「あれを見て」

田中が指さす先に、岩陰の先の段ボールがあった。取りに行こうとする捜査員を田中は「待って」と押しとどめた。

「昨日は、強い風があったでしょう。もし、強い風で飛ばされてきた段ボールを知らずに急階段の所で踏んだら、滑るでしょうね。旅館の人が来た時、怪我人の所に段ボールが無かったのは、滑った弾みで飛ばされたのかもしれません。それなら、この不可解な状況に説明が付くと思うのですが。

そうです。あれは、重要な証拠物件かもしれません」


 直ちに鑑識が呼ばれ、実況見分が行われた。

見立ては、ほぼ田中説に沿ったものだった。事件は事故へと傾いた。



 帰途、長谷川 由布が奇異な視線が混じるものの、丁寧に田中にお礼述べた。

帰り際、由布は居合わせた高藤氏とほんの僅かではあるが、アイコンタクトを取った。

少なくとも、田中にはそう感じた。それとも、気のせいだろうか。単に、たまたま視線が合っただけなのだろうか。

何だろうこの違和感は、そもそも段ボールって簡単に飛ぶものなのか。都合よく階段に落ちて、また飛んで行くものなのか。段ボールの発見者が俺だった。もし俺が言い出さなかったら、高藤氏が言い出しただろうか。何の関係性も無い俺が言い出したことが、由布側には都合が良かったのだろうか。


 田中の胸に、黒っぽい疑念が広がって行った。


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