第一章 自殺決行

 雅秀は、地元にある工業高校を卒業して以降、上京し、ずっと都内で一人暮らしをしていた。


 長野にある実家には、両親がいたが、雅秀が二十歳になった時、二人共事故に遭い、すでに他界している。


 元々人付き合いが得意ではなかった雅秀は、すぐに親類と疎遠になった。その上、友人や知人といった類もおらず、両親を失ったことを期に、ほぼ孤立無援の状態に陥った。


 その時は、特に生活に困っているわけではなかったため、一人で生きることに問題はなかった。


 だが、三十ニを迎えた時、とある出来事が起きた。


 呪いのように続く不景気により、雅秀が長年勤めていた工場が閉鎖されたのだ。

 突如、無職となった雅秀は、住んでいたアパートを追い出された。元々安月給の身。貯金もなく、収入が途絶えたのでは、家賃を払えるわけがなかった。


 雅秀は、ホームレス同然の身に落ちた。


 しばらくの期間、そのような状態が続いた。


 自殺のことが頭によぎるようになったのは、その頃からである。


 極めて惨めな生活。手を差し伸べてくれる者もおらず、ゴキブリのように底辺を這いずる人生。一体、自分の人生は何なのか。生きる意味はあるのか。


 亡者のように過ごす日々。死んだも同然と言える状況だ。


 幸い、餓死するよりも前に、寮付きの派遣会社の仕事が見つかり、ホームレスからは脱却できた。だが、頭に発生した『希死念慮』の思考は、消えてくれなかった。


 派遣社員として、半導体工場で働き始めた雅秀。ホームレスではなくなったものの、以前よりも安月給となり、また、家族も恋人もおらず、友達すらいない孤独な日常は変わらなかった。


 次第に、『希死念慮』が、風船のように膨らんでいった。


 雅秀は、自殺を本格的に考えるようになったのだ。


 同時に、もう一つの、とある願望が雅秀の中に生まれていた。


 もしも自殺をするならば、女子高生と一緒がいい――。


 なぜそのような願望が生まれたのか、明確な理由は自分でもわからなかった。もしかすると、自殺についてネットで調べていた際に、目にした記事のせいなのかもしれない。二年年近く前のものだ。


 その記事は、自分と同じ三十代の男が、女子高生と練炭自殺を行った記事を報していた。公園内の駐車場に停めた車で、二人の遺体が発見されたらしい。


 二人の詳細な関係性は不明。ただ、SNSを通じて知り合ったとだけ書かれてあった。


 それを見て、雅秀は、心底羨ましいと思った。同時に、性的好奇心に似た熱が、疼くようにして、下腹部を中心に沸き起こったことも記憶にあった。


 自分も同じように、女子高生との心中を行えたなら――。


 どうして、そこまで女子高生との心中が雅秀の琴線に触れるのかはわからなかった。


 女と縁のない人生であったため、若く瑞々しい年代に惹かれたのかもしれないし、はたまた、失われた青春を、一時的にでも取り戻したかったのかもしれない。あるいは――。


 ともかく、その願望は、次第に雅秀の頭を占有し始めた。


 やがて、雅秀は行動を起こした。仕事が終わると、ネットの自殺系サイトやSNSを中心に徘徊し、女子高生が心中志願者を募集しているコメントを探した。


 それには難儀した。近年、自殺に対する危機意識が高まり、国を挙げての防止策が施行されている背景がある。


 自殺を募集する自殺系サイトは、軒並み潰され、立ててもすぐに消される始末。SNSなどでも同じで、自殺者を募るコメントを書き込んだら、コメントそのものが削除対象になり、下手をするとアカウントが失われてしまう。


 前途多難な幕開けだったが、どんなものでも穴はある。完全に犯罪を防げないのと同じように、自殺志願者の投稿を一切発生させないようにすることは、現実的に不可能なのだ。


 雅秀が目にした記事の二人の自殺者は、それを潜り抜けて達成したはずだ。ならば、俺にだって――。


 雅秀は諦めず、初志貫徹した。『女子高生と共に自殺を行う』という胸に生じたこの願望を、どうしても叶えたかった。


 そのような中で、アズサのコメントを発見したのだ。


 まさに天からの思し召しだった。




 アズサと知り合い、自殺の計画を立ててから、二週間ほどが経過した。


 やがて、自殺決行の日が訪れた。


 計画に従って準備を整えた雅秀は、手にボストンバックを持ち、住んでいる寮を後にした。もうここには二度と戻らないつもりだ。


 雅秀は、最寄の駅からJRを利用し、立川駅へと向かった。


 乗り継ぎを行い、列車に揺られること一時間半ほど。景色が紅葉で彩られた静謐な山に変わり始めた頃。


 雅秀は、西多摩郡にある奥多摩駅へと降り立っていた。


 奥多摩駅の駅舎は、古い旅館のような外観を有している。雅秀は、他の乗客と共にその駅舎から外に出ると、歩道へと足を踏み入れた。それから、近くにあるバスの停留所を目指す。


 事前にアズサと話し合い、待ち合わせに定めた場所だ。


 停留所へ続く遊歩道を歩いている最中、大勢の人間とすれ違った。その人間たちは、家族連れや、カップルがほとんどだ。


 今日は祝日で、紅葉が見ごろの時期でもある。おそらく、大半が旅行者や行楽客なのだろう。


 そして、その誰もが、明るく楽しそうに笑っていた。


 今の雅秀のように、地獄の淵を歩いているような、暗い表情をしている者は皆無である。


 彼らも、今すれ違った男が、これから――しかも女子高生と――自殺を決行するつもりであることなど、想像の埒外だろう。


 彼らと自分の間に、光と影のような境界線がはっきりと見えた気がした。当然、自分は影の側。これまでと同じように。


 だが、今はかすかに目の前に光が見えた。共に死んでくれる理想の相手がいるのだから。


 しばらく歩き続け、やがて、雅秀は停留所へと到着した。バスが出発した直後らしく、人はいない。


 アズサとメッセージでやり取りした際に、教えられた彼女の服装――グレーのチェスターコートと、チャックパンツ――をした者の姿も今はなかった。


 雅秀は、スマートフォンをポケットから取り出し、時刻を確認する。


 十一時が終わりを迎える頃だった。待ち合わせの時間は、正午。あと少しだ。


 雅秀は、ボストンバックを持ったまま停留所に立ち、アズサを待つ。


 胸が少しだけ、ときめいていた。甘酸っぱく、切ない感覚。まるで学生時代に、恋人と初デートの待ち合わせをしている気分だった。


 波打つ心を抑え、雅秀は空を見上げた、抜けるような青い世界。高いところを、鳥が飛んでいた。とてもさわやかな秋の空である。


 自殺するには、絶好の日といえた。もっとも、決行時は、日が落ちてからになるが。


 時刻は、やがて正午を迎えた。昼を知らせる自治体のチャイムが、周囲に鳴り響く。


 雅秀は周囲を見渡した。アズサはまだこない。相変わらず行楽客と思しき人々ばかりだ。大抵が複数人で、一人でいる者すら稀だった。


 さらに時間が経過した。画面のデジタル時計は、十二時十五分を表示する。


 いまだアズサらしい人影はない。


 雅秀の心に、濁りのような不安が湧き起こった。もしかしたら、アズサはこないのではないか。


 そんな思いにとらわれた。


 よくある話らしい。自殺志願者たちが意気揚々と計画を立てるものの、いざ決行日になると、怖気づいたのか、すっぽかす者が現れるのだと。


 これもそうではないのか。アズサはこず、雅秀一人が馬鹿みたいに待ちぼうけを喰らう。そして、雅秀は、惨めに退散し、誰も待ち人がいない寮の部屋へと舞い戻るのだ。


 例の自殺者二人の記事が、頭をよぎった。女子高生との自殺を見事成就させた彼は、実は極めて運が良かったのだ。


 少しずつ、胸の中の不安が増していく。スマートフォンを取り出し、SNSのアカウントを通じて、アズサへダイレクトメッセージを送るが、返信はなかった。そもそも、既読すら付かない。


 不安がさらに募る。実は、アズサは始めから自殺する気などなかったのではないか。そんな疑惑が生まれた。


 今改めて、アズサと交わしたメッセージの内容を読み返すと、そんな気配をどことなく感じた。


 思春期特有のナイーブな精神により、一時の希死念慮を抱えただけで、本心では死にたい気持ちなどなかった――。


 相手は女子高生。何ら不思議な話ではない。


 もしもその通りならば、非常に残念なことだ。せっかく少ない収入から出費し、準備を整えたのに。


 せっかく、女子高生と一緒に自殺できるはずだったのに……。


 ドタキャンの疑惑は、次第に確信へと変容し始めた。恋人から裏切られた時のような、暗い気持ちが押し寄せる。


 アズサの連絡先は、SNS上のものでしか知らなかった。そのため、電話もできず、こちらのメッセージに既読が付かない以上、もう連絡手段は存在しなかった。


 雅秀は、大きくため息をつく。失敗のようだ。もう自分がここにいる意味はない。いつでも練炭自殺できる準備はしてあるが、一人で死ぬつもりはなかった。やはり女子高生と……。


 最後にもう一度アズサにメッセージを送り、そこで返信がなかったら、諦めて帰ろう。


 雅秀がそう思った時だ。


 背後から、声がかかった。


 「あの、雅秀さんですか?」


 雅秀は、弾かれたように、振り返った。そして、はっとする。


 目の前に少女がいた。色白の鼻梁が整った美人。スラリとした体型で、肩まで伸びた少し赤みがかったストレートヘアが印象的だ。


 雅秀は思わず、目の前の少女の容姿に目を奪われた。


 「あ、はいそうです」


 雅秀は、おどおどしながら、相手の質問を肯定する。


 少女は言う。


 「私、アズサです」


 少女の自己紹介を聞き、雅秀の胸がときめいた。


 やはりアズサだ。彼女はすっぽかすことなく、ちゃんと自殺を決行するためにやってきたのだ。


 雅秀は、唾を飲み込んだ。想像だにしていないほどの、美形の相手。今時の女子高生にしては化粧っ気も少ない。にも関わらず、街を歩けば、一度や二度、芸能事務所からスカウトを受けてもおかしくないくらいの美貌だ。


 緊張で、足が震える。いい年した大人が情けないと思う。アズサに悟られなければいいが。


 アズサは、事前情報の通り、グレーのチェスターコートと、チャックパンツというカジュアルな服装であった。


 雅秀が、どう話そうかと逡巡した時、アズサが言葉を発した。


 「あの、遅れてごめんなさい。列車に乗り損なってしまって……」


 アズサは、ぺこりと頭を下げる。シルクのような綺麗な髪が揺れた。


 顔を上げたアズサの大きな目が、雅秀を捕らえる。雅秀と目が合った。


 見た限り、容姿端麗の女子高生で、軽そうな印象はあるものの、それ以上でもそれ以下でもない人物だ。


 言うなれば、普通の少女である。自殺するようなイメージとは、随分とかけ離れている気がした。


 雅秀は、目を逸らし、停留所のアスファルトを見つめながら訊く。


 「自殺のために俺たちは集まったけど、本当に死ぬ気があるの?」


 実際にこうしてやってきた以上は、そのつもりなのだろうが、どうしても確認せざるを得なかった。


 雅秀の質問に、アズサはコクリと頷いた。


 「はい。もちろん。私、どうしても自殺したいんです」


 アズサは、将来の夢を語るような、キラキラした目でそう言った。


 あまりに希望が満ちた目をしているため、むしろ雅秀が尻込みをしてしまう。


 「そ、そう。それなら行こうか」


 雅秀は、計画通り、近くのレンタカーショップに向かう提案を行う。


 アズサは、にこやかに笑って頷いた。




 その後、雅秀はアズサを従え、駅近くにあるレンタカーでワンボックスカーを借りた。車体がブラックの、どこにでも走っていそうな車だ。


 アズサを助手席に乗せ、奥多摩湖へ向かう。


 道中、アズサと色々な話をした。生い立ちや家族のこと、死にたい理由など。


 雅秀は、そのほとんどを包み隠さず話した。これから共に心中する仲。親近感もあってか、自分のことを知っておいてほしかった。


 それはアズサも同じらしく、初対面の男にもかかわらず、様々なことを教えてくれた。


 アズサは、SNSのプロフィール欄に記載していた通り、都内に住む十七歳の女子高生であった。


 家族は公務員の両親と、高校一年生の妹の四人暮らし。妹は品行方正で、学校の成績も優秀。両親は二人共妹ばかりを可愛がるため、アズサは不満に思っているようだ。


 しかし、それがアズサの自殺したい理由ではないらしい。


 話を聞くと、彼女の自殺願望の原因は『何となく』だそうだ。


 雅秀が最初に目にしたアズサの心中募集メッセージに書いてあったように、特にこれといった大きな理由があるわけではなく、漠然とした『希死念慮』が存在するようだ。夢や希望が持てず、ただ死にたい願望があるだけなのだと。


 少し前に、同じ高校の同級生が練炭自殺を図り、死亡したことも少しばかり影響しているようである。


 思春期の女の子らしい共感性と、将来への不安。モラトリアム期によくある症状だろう。


 とはいっても、三十を越えた雅秀の自殺理由も似たようなものであるため、案外、自殺志願者の動機など単純なものかもしれない。


 本来、雅秀のような大人の立場なら、十七歳の女子高生がそんな理由で自殺を図ろうとしていたら、止めるのが筋である。というより、義務といえるだろう。


 だが、そんなつもりは毛頭なかった。


 むしろ喜びが満ち満ちているのだ。ようやく俺は女子高生――しかも平均以上に美人――と一緒に死ねるのだから。しかも、自殺理由が雅秀と似通っていることから、親近感がさらに増していた。


 アズサの自殺を止める理由など、自分にとって微塵もないのだ。


 お互い情報交換をしている内に、二人の乗ったワンボックスカーは、奥多摩湖へと到着した。




 雅秀は、奥多摩湖の駐車場にワンボックスカーを停めた。広い駐車場は、行楽客のものらしき車で、ほとんどが埋まっている。


 助手席にいたアズサが尋ねてきた。


 「こんなに多いと自殺は難しいね」


 雅秀は首を横に振る。


 「決行は夜だから、それまでには全員いなくなるさ」


 道中の会話により、単時間で、雅秀とアズサは親身になっていた。すでにお互い、友達のような砕けた口調になっている。


 「自殺の道具は用意してきたの?」


 アズサの質問に、雅秀は頷く。


 「ボストンバックに入れてある」


 雅秀は、後部座席に置いた大型のボストンバックを指差した。


 「強力な睡眠薬もちゃんと用意してあるから、問題なく完遂できると思うよ」


 雅秀がそう言うと、アズサは満足気に微笑んだ。子供のような、可愛らしいえくぼが際立つ。


 「よかった。確実に死ねるんだね」


 「そうだな」


 そう。ようやく、女子高生と自殺できるのだ。


 そして、遺書は二人共用意していなかった。雅秀自身は、この世界に最後のメッセージを伝えたい人間などいなかったし、アズサも似たようなものだという。


 お互い、この世界に未練すらないということだ。そんなところまで一緒なのかと、雅秀は嬉しさに包まれた。


 雅秀は言う。


 「夜まで時間があるから、それまで公園内を散策しようか」


 「うん」


 雅秀の提案に、アズサはためらうことなく同意した。




 雅秀とアズサは、他の観光客や行楽客に混ざって、奥多摩湖を見て回った。


 初めてくる奥多摩湖は、思いの他素晴らしい場所だった。紅葉の時期でもあり、色鮮やかな自然が、死を覚悟した二人を祝福しているようでもあった。


 雅秀とアズサは、そこでも色々な話をした。


 湖のほとりを歩きながら、アズサは言う。


 「私、成績が悪くて……。親にいつも怒られてたんだ」


 「妹さんは成績良いんだよね?」


 「うん。それだけじゃなく、私と違って、妹は生活態度も良いから、一層私の印象が悪くなっちゃって」


 「妹さんとの仲はいいの?」


 「いいよ。両親は扱いを変えてるけど、妹は変わらない」


 雅秀は、小さく笑って言った。


 「いい妹さんじゃないか」


 一瞬だけ、アズサの顔に陰が差す。


 「そうなんだけどね……」


 アズサは、わだかまりがあるような表情を浮かべた。仲は良いが、優秀な妹に対して、少なからずコンプレックスを抱いているようであった。


 アズサは、自殺の理由を、家族関係に求めていない。だが、本人が意識しない部分で、多少は影響しているかもしれなかった。


 一陣の風が吹き、アズサの赤みがかった髪が草の葉のようになびいた。アズサは、左手で髪の毛を押さえる。


 その時、雅秀は見てしまった。左腕のチェスターコートの袖口から覗く、左手首を。


 手首には、白い筋のようなものが複数、刻まれていた。リストカットの傷跡だろう。傷ができてから、まだ一、二年といったところか。


 アズサは雅秀の視線に気がつくことなく、気持ち良さそうに秋風に目を細めている。


 雅秀は、自身の左腕に目を落とした。


 綺麗な手首。傷跡などなかった。


 死に対する願望は、彼女のほうが強いのかもしれない。はじめはアズサのような女子高生が自殺願望を持っていること自体、疑問だったが、心の奥底には、他者が知る由もない大きな闇が渦巻いていたのだろう。


 それは、晴れやかな世界にいる人間を、容易に死へと誘う深い奈落だ。人々が忌み嫌う対象でありながら、一方の人間にとっては救済となりえるもの。


 そして、その闇は、誰の心にも、奥底に存在しているのだ。


 雅秀は、アズサと共に湖を回りながら、自身の心の中にある『闇』に対し、自問自答を繰り返していた。




 やがて、夜が訪れた。


 奥多摩湖はほぼ無人となり、闇夜と静寂に包まれている。


 駐車場に他の車がいなくなったことを確認した雅秀は、後部座席に置いてあったボストンバックを開いた。


 中から小型の七輪と、練炭、そしてガムテープを何本か取り出す。一見すると、これから炭火焼料理でも始めるかのような道具だが、もちろん違う。


 「これで車の窓ガラスの隙間を目張りして」


 雅秀は、隣にいたアズサにガムテープを差し出した。アズサは頷き、ガムテープを受け取ると、さっそく作業に取り掛かった。


 雅秀も、ガムテープを使い、窓の隙間やエアコンの吹き出し口を塞いでいく。これが甘いと、気密性が低くなり、練炭の効果が薄れてしまう。可能な限り、それこそ、缶詰のように密封状態を確保することが理想だ。


 確実に自殺を成功させるために。


 しばらく作業を進め、概ね目張りは終わった。隙間はあらかたなくなり、充分密封性は保たれたのだと思う。


 それから雅秀は、練炭をカッターで小さく切り、七輪の中に投入した。その後すぐに、ライターで着火し、火を起こす。薄暗い車内に、煌々とした練炭の炎光が広がった。


 やがて、懐かしいような匂いと共に、うっすらとした煙が漂い始めた。


 火が消えないことを確認した雅秀は、カッターをポケットに入れた後、七輪を後部座席の上へと置く。そしてバックから手の平ほどのピルケースを出す。


 中の錠剤を何錠かアズサに手渡した。


 「これが睡眠薬。短時間で効く強力なやつだから、途中で目が覚めることはないと思うよ」


 アズサはゆっくりと頷いた。緊張しているのか、表情が強張っているようであった。


 雅秀は訊く。


 「今ならまだ中止できるけど、どうする?」


 雅秀の最終確認に、アズサは小さく首を振った。


 「必要ないよ。私、絶対に自殺するって決めたんだから」


 そう言うと、アズサは、睡眠薬を口に入れ、ペットボトルの水を勢いよくあおった。


 雅秀も同じように、睡眠薬を飲む。


 これで二人共、あと数分もすれば睡魔が訪れ、水をかけられようとも、そう簡単には起きないくらい熟睡することだろう。


 二度と目覚めることのない、常世の世界への眠りへと。


 雅秀とアズサは、それぞれ運転席と助手席のシートを倒し、寝入る準備に入る。


 雅秀は、車内のワンボックスカーの天井を見つめながら、睡魔が訪れるのを待った。


 助手席のアズサを見ると、彼女はすでに眠り始めているようだ。目を閉じ、かすかに寝息を立てている。


 雅秀は、顔を天井へ戻した。


 しばらくすると、雅秀にまどろみがやってくる。車内の天井が、うっすらとぼやけ始めた。


 最後に目にする景色が、レンタカーの天井とは、なんともしまりがないが、自分の人生を象徴していると考えると、そんなものだろうと思う。


 後は、このまま眠りへと落ち、運命に身を任せればいい。やがて車内に充満した一酸化炭素により、二人は眠ったまま苦痛なく死ぬのだ。


 ようやく、下らない人生と決別できる。しかも、念願の女子高生と共に自殺する夢を叶えたまま。


 最後の最後は、多少なりとも満たされた心であの世へ旅立てるということだ。上出来だと言っていいだろう。


 雅秀は、完全に目を閉じた。水の底へと沈んでいくような、不思議な感覚がする。


 やがて、意識が薄れ始めた。


 睡眠薬の強力な効果により、睡魔が怒涛のように襲ってきたのだ。すでに手足は鉄になったように重く、身体そのものが動かせない。


 雅秀は、睡魔に身を委ねた。意識が遠のいていく。人生で最後の意識。これでもう終わる。


 次生まれ変わる時は、もっとマシな人生を送れますように。


 意識が、ブラックアウトする。


 その直後だった。脳裏の奥底で、光が明滅した。


 唐突に、これまでの人生の光景が、走馬灯のように目の前を流れ始めたのだ。


 それは思い出の奔流だった。


 小学校へ入学し、校門で親と一緒に記念撮影をした時のこと。中学に入り、初めて制服に袖を通した瞬間のこと。高校を卒業した時のこと。


 社会人になり、一人暮らしを始めた時のこと。両親が亡くなった時のこと。十年以上勤めた工場が倒産した時の、悲痛な出来事のこと。社会の底辺に落ち、絶望に打ちひしがれた時のこと。


 自殺を考えるようになり、うな垂れながら人生を生きなければならなくなったこと。薄闇の中、悲観に暮れながら瞑目したこと。


 それらの映像が、映写機のように目の前を駆け巡った。


 そこには、華やかな場面がなかった。荒野のような寂寥感が漂うだけの、不毛な世界。


 そう。俺は、まだ何も成し遂げていない。満足に『生きて』いないのだ。


 深く沈んだ暗い意識の奥底から、急に無念さと悔しさが浮かび上がってきた。


 それは焔のように発火し、大きく立ち登った。


 雅秀は、はっと目を見開く。小さく喘ぐようにして、息を吸う。眩暈と共に、きな臭さが鼻腔を突いた。


 練炭から発生した一酸化炭素は、車内に充満しつつあるようだ。だが、まだ致死量に至るほどには増えていないことがわかった。もしもそうなっていたら、先ほどの一呼吸で、雅秀は即座に気を失っていただろう。


 雅秀は体を動かそうとした。だが、鉛のように重い。強力な睡眠薬の効果で、体の自由が奪われているのだ。


 頭も霞がかっており、覚醒したばかりにも関わらず、今にも眠りに落ちそうだった。


 早くしないと……。


 雅秀は、力を振り絞って、手足を動かそうとした。かすかに右手が動く。さらに力を込める。次は両足が。


 徐々に、糸がほぐれるようにして、様々な部位が動き始める。いい感じだ。


 悪戦苦闘した末、ある程度、体の自由が利くようになった。


 雅秀は、ゆっくりと体を起こした。頭が重く、霞んでいる。睡魔が眼前まで迫っていることを示していた。


 雅秀は、助手席に顔を向けた。アズサは眠ったままだった。身じろぎをしていることから、生きてはいるようだ。しかし、全く起きる気配はない。睡眠薬は、彼女に対し、覿面に作用しているようだった。


 雅秀は咳き込んだ。一酸化炭素が、充満しつつあった。時間が差し迫っている。


 雅秀は、手を伸ばし、運転席の扉に目張りしたガムテープを剥がし始めた。つい十分ほど前に、自身が張ったばかりのものである。


 目張りしたガムテープは、強固だった。自殺に失敗しないように、入念に隙間を塞いだのだ。剥がすのが困難なのは当然である。


 それでも雅秀は、一心不乱に剥がし続けた。死に物狂いで、毟り取るように。


 ここまで必死に何かをやるのは、はじめての経験な気がした。


 やがて、運転席側のガムテープは、全てが剥がれ落ちた。


 雅秀はドアハンドルを掴み、思いっきり押し開く。そして、転がるようにして、外へと出た。


 途端に、夜風が全身を包んだ。この場所が自然に囲まれているせいか、真冬のように空気は冷えていた。


 雅秀は深呼吸し、新鮮な冷たい空気を吸った。少しだけ腐葉土に似た、妙な臭いがするのは、周囲に木々が多いせいか。


 相変わらず駐車場は無人で、静寂と闇に包まれている。その景色を、煌びやかに瞬く星たちが見下ろしていた。


 呼吸を整えた雅秀は、車のほうへ顔を向けた。助手席で、アズサが眠りこけている姿が目に映る。


 雅秀は、再び運転席へ乗り込んだ。アズサの腕を掴み、自分のほうへと引っ張る。アズサはうなされたように、体を捻らせたが、起きることはなかった。


 全身の力を使い、アズサを何とか外へと引きずり出すことに成功した。


 駐車場の隅にまでアズサを引きずっていき、そこで崩れるようにして雅秀は、地面へと倒れ込んだ。


 もう限界だった。


 睡魔が押し寄せ、視界が狭まる。


 雅秀は、朦朧とする意識の中、隣で倒れているアズサを見た。彼女は野外コンサートにでもやってきたように、スヤスヤと寝息を立てており、無事であることが確認できた。


 瞼が下り、雅秀はそのまま入眠しようとする。


 意識が奈落へと没する直前、どうして俺は、自殺を止めたのだろうと疑問に思った。自身の行動なのに、不思議でならなかった。あのままなら、自殺は確実に成功していたはずなのに。


 それに、アズサを助けたことも理由が不明だった。雅秀が外へ出たまではいいが、その後、ドアを閉めればよかったのだ。彼女も自殺志願者。死にたがっている以上、そうすることが彼女のためになる。


 それなのに、俺はアズサまで助けてしまった。重大な裏切り行為だ。共に自殺しようと誓い、計画を立てた仲なのに。しかも、偉そうに自殺意志の確認までしておきながら。


 意識が途切れるその瞬間まで、雅秀の心の中は、アズサへの申し訳ない気持ちで一杯だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る