第29話二度目の過ち
静けさが包み込む玄関は季節はずれの雨の音を反響させて虚しい響きを孕んでいた。刺すような寒さが俺の肌をチクチクと突き刺してくる。
俺は呆然と立っていた。未だに覚めやらない夢なのだと。そう願うのもつかの間、ぎりりと手を握りしめた玲奈が俺を見た。
「…湊くん、どうして出たの」
その震えた声には後悔と哀れみが混じり合っていた。そんな問いかけに俺は言葉を返すことができなかった。
あの状況で出るのはとても得策とは言えない。だが、俺は出てしまった。いや、出たかった。どうしても真相を確かめたくて。直接話せば確かめられる気がして。
しかし、残ったのはただ非情な現実だった。淡い期待は見事に打ち砕かれ、青藍の夜空に虚しく散った。
玲奈は振り絞るように続けて話す。
「貴方にはまだ後悔があって、あの女に対する執着が抜けきっていないことも分かっているわ。…でも、やっぱり関わってはいけなかったのよ…」
うつむいた彼女の表情は分かりにくい。ただ、口元が震えているのだけは見えた。押し寄せる感情を押し殺すように震えるその口元を俺はただ呆然と眺めるしかなかった。
玲奈がその震える口を開く。
「あの女は、湊くんを利用していただけなの。貴方が想像していたような彼女は、今までの彼女は全部嘘。嘘なの…」
「…」
徐々に衝撃を受けた俺の脳が働き出す。玲奈の言葉は俺の心に残った愚かな妄想を一気に打ち砕いた。
今までの期待は虚しくも全てただの俺の見た幻想に過ぎなかった。そのどうしようもなく愚かな事実が俺の心を突き刺す。馬鹿だ。俺は。
立ち尽くした俺を玲奈が抱きしめた。
「…湊くん。つらくて、忘れられないのは分かってる。分かってるの。でもね。それ以上につらい顔をする湊くんは見たくないの」
玲奈の悲しそうな声は虚しさを孕んで俺の耳にまで届いた。彼女の心からの心配した声が俺の心を揺るがす。
「別に貴方を責めるつもりは無いわ。…最初から怪しんでおいて教えなかった私も悪いもの。こんなことになるなら最初から言っておくべきだったわ。ごめんなさい…」
「そんな、謝らないで…」
俯く玲奈に俺はそんなありきたりな言葉しかかけることができなかった。
彼女はこんなにも俺のことを思い、心配してくれているというのに。勝手に元カノとのいざこざに巻き込んで、迷惑をかけているのはこっちだというのに。
未練たらたらな自分が嫌で、どうしても気持ち悪く感じてしまった俺は自分を自分で罵った。
「謝るのは俺のほうなのに…こんな、こんな俺に付き合ってくれてるのは玲奈の方なんだから…」
「そんなことを言わないで湊くん。自分を傷つけてしまってはダメ。これ以上傷ついたら、湊くんが持たないわ」
いつになっても、どんな状況でも玲奈は俺の心配ばかりだ。自分の身を顧みない。一途でありながら無謀。そんな彼女こそ、傷だらけだ。でもその傷の一つ一つの原因は、俺。俺を守るためにできた傷の一つ一つが俺に罪悪感を与えてくる。
俺はその傷を見てただ謝ることしかできなかった。
「ごめん、ごめん玲奈…」
男らしくなく、弱々としたその声は果たして彼女の耳に届いたかどうか。強く抱きしめた俺を玲奈もぎゅっと抱きしめてくれた。
「いいのよ謝らなくて。湊くんの失恋を癒やすのは私の役目なんだから」
いつものように頼もしい笑みで俺を支えてくれる玲奈。その笑顔で安心して、身を預けてしまう。完全に頼りっきりだ。何度もそれを痛感する。
「…恋というものは結果がどうあれ、人を簡単に狂わせてしまうわ。それぐらい残酷で、それでも陶酔してしまうものなの。だから、仕方ないわ」
玲奈が一言ずつゆっくりと教え込むように語りかけてくる。その言葉には計り知れない重みと説得力がある。
「湊くんはあんな事を二回も立て続けに経験したの。だから少しぐらいの気の迷いは仕方ないの。どんなに道を踏み外して、どんなに崩れようともまた私の元に戻ってきてくれれば、それでいいわ。湊くんは私から逃げられないの」
玲奈の手が俺の頭にぽんと置かれる。ゆっくりと俺の心を溶かすように彼女は頭を撫でてくる。なにを言わずとも俺の心を分かっているような彼女の行動は俺をいつも励ましてくれている。
俺は彼女に身を任せてそのまましばらく抱き合っていた。
「…ん……ぁ」
朦朧とした意識のまま、目を開く。まだ薄暗い状態の寝室は寒い。朝の澄んだ空気は俺の肺に入り込むと、意識を覚醒させてくれた。
俺は昨日の記憶をたどる。玄関で瑠璃奈に会って、それで、…なんだか嫌な事を思い出してしまった。ただ確かなのは昨日は玲奈と抱き合ってこのベッドに寝転んだ事だ。その証拠に俺の腕の中にはすぅすぅと寝息を立てて寝ている彼女がいる。
昨日は散々だった。病み上がりの状態であんな事を言われて。きっとあの場に玲奈がいなかったら俺は今もあいつに利用されていたのだろう。そう思うとつくづく自分が愚かだと感じる。
昨日俺に堂々と宣言したあいつは俺との思い出を簡単に否定した。最初からあいつにとっては思い出でもなんでもなかったのかもしれない。
昨日の一件の事をふまえ、あいつとの思い出を頭に思い浮かべる。今までは思い出すだけでも虚しい気分になていたのだが、不思議なことに今の俺にはそこになんの感情も沸いてこなかった。バッサリと振られたことで自分の中でも一つ区切りができたのかもしれない。俺は一日寝たことにより、気持ちの整理がついたようだった。
『恋は簡単に人を狂わせてしまう』。玲奈の昨日の言葉が脳裏に蘇る。
恋に溺れているのは彼女の方だろうとも思ってしまうが、あの言葉は無意識中にあいつに固執してしまっていた俺の隠れた思いを掘り起こしてくれた。立ち直れたと思ったらこれだ。いつまでも立ち直れない自分が心底惨めに思える。
…思えば俺玲奈という存在がありながらずっとあいつの事考えて引きずってたのか。あんなことやこんあことしておいて元カノに未練あるとか俺キモすぎんか…
そう思うと朝から少し憂鬱な気分になった。
ため息混じりに視線を落とすと、玲奈の寝顔が目に止まった。
いつもは彼女が先に起きているため、寝顔を見るのはこれが初めてだ。いつもは凛々しく俺の隣に座っている彼女の顔も寝ている時は幼い子どものようだった。思わず彼女の頬に手が伸びる。彼女のhだが綺麗過ぎるあまり自分でやっておいて少し気が引けた。
…綺麗な肌だ。きめ細やかなその肌は白くまさに純白と言っても差し支えない程に美しい。人形のようなその顔は触ってしまえば崩れてしまいそうな程に繊細な雰囲気を漂わせていた。
…これが虜美人。流石の美貌だ。今なら分かる気がする。
顔を触っても彼女が目を覚ます様子は無い。…単に寝ているふりかもしれないが。
いつでも頼ってこいと側で寄り添ってくれる彼女。全てを捨てきった今なら少しだけ頼ってもいいかなと感じてしまう。…いいよな。
俺は彼女の額に一つキスを落とす。感謝とそれと、…。俺は彼女をそのまま抱き寄せると再び瞼を閉じた。
「…ありがとう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます