宇宙の果ての座敷牢

真狩海斗

🛸

< 1 >

 地下への階段を下る。お盆に載せた食器が僅かに揺れた。先月戻ってきた"兄"の大切な夕食だ。落とさないように、一段一段を慎重に降りる。

 まだ10月にも関わらず、地下はよく冷えていた。日が当たらないというのもあるだろう。だが、この寒気はそれとは違う気がした。魂の奥底から凍てつくような、そんな寒気。口から吐く息が白く濁る。階段をくだり終え、冷え切った地面に素足がピタリと着く。座敷牢に閉じ込められた"兄"の姿が見えた。

 "兄"の前に食器を差し出して、様子を観察する。まだ"兄"の姿に見慣れない。その原因は、兄の失踪から帰還までに、8年が経っていたからではなかった。

 "兄"が格子の隙間から、長い腕を伸ばす。6本の指を器用に操り食器を掴むと、大きな口に運んだ。その鉛色の顔には目も鼻も耳もなく、表情は見えない。後ろに異様に伸びた頭部が腰まで垂れ下がり、その内部で揺蕩う脳味噌が半透明に透けていた。チャプ、チャプ、と脳みそが揺れる。晩ご飯を貪る"兄"の喉から、ガーッ、ガーッ、と奇怪な音が鳴った。

 8年ぶりに戻ってきた"兄"は、得体の知れない怪物になっていた。


< 2 >

 先月、私の住む村落の裏山に奇妙な物体が墜落した。早朝の衝撃音に驚いた数名の村民が通報し、駐在所の警察官が現場に駆けつけた。

 警察官がそこで目にしたものは、民家ほどの大きさの巨大な円盤と謎の生物2体の死骸であった。円盤はその全面が金属で覆われ、あちこちから破片が飛び出していたという。黒焦げの謎の死骸は、2体それぞれが2mから2.5mほどの大きさで、巨大な頭部や尻尾など、地球上の生物とは到底思えない特徴を持っていたそうだ。円盤から上がる火が付近の木につき始めていた。

 警察官からの報告を受けた村長は、村の消防団、青年団を動員をかけると、先ずは消火を指示した。

 無事消火を終え、村長と村落幹部で今後の方針に関する話し合いが開かれた。彼らが何より危惧していたのは、このことが切っ掛けで、村の秘密が外に暴かれることであった。

 会合は夜まで続き、翌朝、この件に関する口外の禁止が通達されることとなった。

 警察官や消防団には、口止めの対価として、村の若い女を自由にすることが許されたという。

 当時の出来事に関する村民たちの虚実入り混じった噂を纏めると、上のようになる。


 だが、実際には、そこにあったのは壊れた巨大な円盤と2体の異形の生物の死骸だけではなかった。瀕死の生き残りが1体だけいた。

 なぜ、私がそれを知っているのか。それは、落下場所に誰よりも早く辿り着いたのが、私の父と母であったからだ。


< 3 >

 8年前の夏、当時16歳だった私の兄は突然失踪した。頭脳明晰であり、村一番の美少年の兄は家族の自慢だった。妹の私から見ても、惚れ惚れするほどに美しかった。母によれば、兄の最後の言葉は「裏山の祠に御供えをしてくるよ」であったという。母は、テマネキ様の時期にはまだ早いのに、と一瞬訝しんだそうだ。だが、特段気には留めず、送り出した。母はそのことを生涯悔やむこととなった。

 昼過ぎに裏山に向かった兄がいつまで経っても戻ってこなかった。心配した母が夕方に裏山で捜索を始めた。父も寄合から抜け出して合流し、一晩中裏山を捜索したが、手掛かりは何も見つからなかった。父と母が声を荒げて互いを口汚く罵り合っていた様子は、当時10歳だった私の記憶に強く刻まれた。

 翌日、父と母が村長に頼み込み、村の青年団総出で大規模な捜索と聞き込みが行われた。その結果、祠から北に5kmほど離れた山中の樹木に付着した血痕と精液が見つかり、当日に見知らぬ男が村を彷徨いていたことが判明した。

 だが、連日に渡る捜査にそれ以上の進展は見られず、一方で、村には無責任な噂が蔓延った。テマネキ様が祠から迎えにきてくれたと有り難がる者、それとは逆に、これまでの悪行がテマネキ様にバレて祟りに遭ったと非難する者。父と母が殺した自作自演と噂する村民も居た。父と母は次第に村民との繋がりを断つようになり、自分たちの殻に篭もるようになった。毎日、早朝から2人で裏山に出かけて、兄の捜索をして、何も見つからずに夕方帰る。これだけが彼らの生活の全てとなった。

 去年、失踪から7年が経ち、私の親族からの申し立てで、兄は法律上死亡したとみなされることとなった。だが、それでも父と母の毎朝の捜索が終わることはなかった。もしかしたら、兄が見つかるかも知れない。その奇跡に縋ることだけが、彼らの虚ろな目に、命の火を灯していた。


 そして先月、9月12日。父と母は遂に満願を成就する。兄が向かうと宣言していた祠の近くで、燃え上がる円盤と異形の生物を発見した。異形の生物は、地球上のどの生物からもかけ離れた姿形をしており、当然ながら人間とも違っていた。しかし、その異形の傍には、ある物が落ちていた。当時兄が身につけていたものとよく似た腕時計。父と母はその一点をもって彼を、異形に変身させられた兄と認定した。

 当時のことは、今思い出しても鳥肌が立つ。黄金色の朝陽の真下で、神から洗礼を受けたかのような蕩けた表情で感涙する父と母。そして、彼らの腕の中には、まるで生まれたての赤ん坊のように大切に、愛おしげに抱かれた異形の怪物があった。恐怖と嫌悪感が無数の蟲となり、私の全身を這いずり回った。もう正気の家族には戻れない、取り返しのつかない一線を超えてしまったと感じた。兄の失踪という地獄の底を抜けた先には、更なる地獄が待っていた。


< 4 >

 "兄"の夕食を運び終え、居間に戻ると、父と母が先に食事を始めていた。父がこちらも見ずに問いかける。

 「お兄ちゃん、なんか喋りよったか?」

私が、何も、と返すと、父は不満を示すように、ズズズと音を立てて味噌汁を啜った。

 「せや!今度ハンバーグを持っていくんはどやろ?ほら、あの子ハンバーグが好きだったやんかあ」

母が不意に声を弾ませる。その目は夢の中に居るかのように焦点が定まらないまま輝いていた。父が上機嫌で「ええなあ!」と相槌を打つ。父と母が盛り上がるのを横目に、私は自分の分の白飯を茶碗によそった。兄が消えた8年前から、彼らの目に、私の姿は映っていなかった。

 

 奥歯で米を擦り潰しながら考える。座敷牢はかつて、狂人を閉じ込めて隔離するために作られたと読んだことがある。ならば、と思う。ならば、異形の怪物を兄として扱い、盲信している狂った父と母こそが入るべきなのではないのだろうか。潰され尽くした米は殆ど液体と化しており、歯と歯がぶつかる音が、口腔内に幾度も響いていた。


< 5 >

 12月になり、外ではパラパラと雪が散り始めていた。私は毎日変わらず、"兄"への食事を運んでいた。

 父と母がここに来ることは一度もなかった。"兄"を連れ帰ったときは、狂喜していた彼らも、徐々に冷静さを取り戻したのだろう。これはただの怪物なんじゃないのか、と。兄の腕時計が落ちていたとしても、"兄"が変身した兄であるとは限らない。兄を殺して奪った可能性や、たまたま裏山に落ちていただけの可能性もある。そもそも兄の腕時計ですらないかも知れない。

 そこまで気づいた父と母は本能的に恐れを抱くようになった。この座敷牢で"兄"を見ることで、兄が帰ってきたという幻想が壊れてしまうんじゃないのか。幻想が壊れたら次はどうなる。また、早朝から死んだように裏山を歩き回る日々に戻るのか。

 彼らは、その恐怖にそっと蓋をして、"兄"の面倒を私に任せると、兄が帰ってきたという幸せな夢に閉じ籠るようになった。


< 6 >

 私が座敷牢に来ると、"兄"が両手を広げ、太く鱗だらけの尾をゆらゆらと揺らしていた。喜んでいるのかも知れない。

 彼の、ガーッ、ガーッという無邪気な鳴き声にも、いつからか愛着を覚えるようになっていた。

 8年前から父と母に無視され、村民からも爪弾きにされている私のことを、唯一"兄"だけが認めてくれていた。

 ガーッ、ガーッと"兄"の鳴き声を真似てみる。反応して、私を向く"兄"の様子に、心のどこかが満たされていた。わが子を持った母の感情とは、このようなものだろうか。無意識に笑みを浮かべる私の姿が、"兄"の鉛色の能面に、歪んで反射していた。


< 7 >

 窓から差し込んだ光で目を覚ます。時計を見ると、午前1時13分だった。月の明かりではなさそうだ。

 窓を開けて外を見る。虹色の光線が、私の家に向けて照射されていた。光の先には、巨大な円盤が浮かんでいる。直感で確信した。"兄"を迎えにきたのだ。私は布団から跳ね起きると、勢いよく地下へ駆け降りた。"兄"を渡したくなかった。"兄"という、か弱い存在を守ることが、私に人間としての誇りを取り戻させていた。


< 8 >

 "兄"が座敷牢から出ていた。立っている姿は初めて見たが、大きい。3m近くあるだろうか。見上げてしまう。本能的に足がすくんだ。

 "兄"が私を向く。尻尾が大蛇のようにゾゾリと蠢いた。尻尾が静かに起き上がり、私を招くように揺れていた。良かった、と私は安堵する。私の到着を喜んでいるようだった。私は一歩ずつ"兄"に向かう。尻尾から粘液が飛び散り、降りかかっていたが、全く気にならなかった。私は、"兄"に抱きつくと、期待とともに、彼の顔を見上げた。


< 9 >

 "兄"の口が大きく開く。嗤っているのだろうか。口角に醜く皺が寄り、悪魔めいた表情になる。歯の一本一本が、包丁のように鋭く尖っている。大きく開いた口の中から、その悪魔の本性を露わにするかのように、ゆっくりと、巨大な舌がぬめり出してきた。悪意で塗り固められた赤紫色の舌。

 "兄"ではない、怪物の姿がそこにはあった。

 怪物が動きを止める。その悪魔の鏡面に、恥もなく命乞いをする私の姿が映し出されていた。怪物の舌が私を舐め回そうとする。咄嗟に左手を伸ばして顔を防ぐ。直後に経験したことのない激痛が私を襲った。強酸性の唾液が、私の左手と顔面を猛烈な勢いで溶かしていた。


< 10 >

 痛みにのたうち回る私を一瞥する怪物の顔からは何の感情も読み取れなかった。四足歩行となった怪物は、鋭利な爪を階段に突き立てると、解放の悦びを全身で表すように勢いよく駆け上がった。階段が削られるギャギャギャという音が、私の鼓膜を直接引っ掻くように、不快に反響する。

 痛みで朦朧とするなか、私は、かつての自分の言葉を思い出した。

 『座敷牢はかつて、狂人を閉じ込めて隔離するために作られたと読んだことがある。ならば、と思う。ならば、異形の怪物を兄として扱い、盲信している狂った父と母こそが入るべきなのではないのだろうか。』

 私も同じだった。怪物を"兄"と信じて都合のいい夢の中を生き続ける父と母。怪物を育てることで母性と優越感を満たしていた私。

 どちらも同じ狂人だった。座敷牢で蚯蚓みみずのように這いずる今の醜い姿こそが、私に相応しいものだったのだろう。

 いや、と蚯蚓みみずが狂人の頭で思う。父と母と私だけではない。テマネキ様という因習に囚われた村民。兄の死を娯楽とし嘘八百の噂で父と母を虐め抜いた村民。若い女をモノ扱いし私を慰みものにした村民。それを当然として見て見ぬふりをする村民。この村自体が狂人の坩堝るつぼだった

 宇宙から見れば、この村自体が巨大な座敷牢なのかも知れない。

 あゝ、私もこの座敷牢から抜け出したい。半身を踏み躙られて足掻く蚯蚓みみずのように、惨めに左手を伸ばす。宇宙まで届くことを祈り、精一杯に伸ばした。指がジュクジュクと骨を剥き出しにして溶けている。指が欠けた左手の隙間から見えたのは、薄汚れた天井だった。あゝと絞り出すように息を吐くと、左手首が崩れ、今まさに地面へと堕ちていった。

 



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