何それ、笑えないよ

鈴木魚(幌宵さかな)

何それ、笑えないよ

 その日、私はさっちゃんに初めてを奪われた。

 それは、処女とかそういうのではなくて、唇を。

 つまりファーストキスを奪われたのだ。    

 それは突然のことで、私はもちろん驚いたけど、それよりもさっちゃんの方が驚いるように見えた。


 じっとりとまとわりつくような湿気を帯びた梅雨が明け、気温はぐんぐんと上昇し始める7月。

 太陽は容赦なく地球を照らし、忙しなく蝉が鳴き始める。

 高校の登下校では汗が噴き出し、着替えが必要なほどだった。


 そんな夏休みが近づいたある日、私は親友のさっちゃんを自宅に呼んで、期末試験の勉強をすることになっていた。

 熱波が降り注ぐ野外を歩いてきたさっちゃんは、サウナに入ったように全身が汗で濡れていた。

「ごめんね、来てもらって」

「……ううん、いいの」

 さっちゃんにタオルを渡しながら、クーラーで冷やした部屋へと案内をした。

 そういえばさっちゃんが私の家に来るのは久しぶりかもしれない。

「汚い部屋だけど、座って、座って」

 一応掃除をした部屋にさっちゃんを招き入れて、ローテーブルの前に座ってもらう。

「とりあえず、試験範囲の数学からやりたいんだけど、いい?」

「……うん」

「わかんなかったら聞いてもいい?」

「……うん」

 私とさっちゃんは向かい合う形で机に座った。

「じゃあ、始めよっか!」

 お互いに教科書と問題集を出して、勉強を始めた。

 しばらくはノートに文字を書く音と、紙を捲る音しか聞こえなかったが、私はすぐに勉強に飽きてしまった。

 問題を解きながら、私はさっちゃんに話しかける。

「ねぇ、夏休みて何する?」

「……何って?」

「いや、予定とかあるのかなーって。私はこっそりとバイトしようかなーって思ってるんだ」

「……そうなんだ」

「うん、ほら、夏祭りとかあるじゃん、今年も一緒にさ……」

 そう言いかけた時、さっちゃんが急に立ち上げって、私の隣に座った。

「え、どうしたの?」

 私が数学の問題集から顔を上げると、さっちゃんが私を真剣な顔で見つめていた。

「え、どうした……」

 さっちゃんが私に抱きついた。

「え、」

 さっちゃんがそのまま体重預けてきたので、私は床に横倒しされる形になった。

「あ、」

 それは一瞬の出来事だった。

 さっちゃんの唇が私の唇にくっついていた。 

 さっちゃんの髪の匂いが、柔軟剤の香りが、制汗剤の匂いが、体臭が鼻の奥まで香った。

 何が起こったのか私にはわからなった。

 状況に頭が追いつかない。

 今、私はさっちゃんとキスをしている?らしい。

 さっちゃんの長い髪の毛が私の視界を覆っている。

 細くて黒い綺麗な髪の間からは白い天井が見えていた。

 私はどうすればわからず、それでもさっちゃんに何かを伝えようと唇を動かした瞬間、さっちゃんが飛び上がるようにして私から離れた。

 私は、まだ状況がわからず横倒しのまま、さっちゃんを見つめた。

 さっちゃんが青ざめた顔で私を見つめ返していた。

 目をいっぱいに見開き、さっちゃんは何か怖がっているようにも見えた

「……ごめん」

 さっちゃんはそう言うと、鞄を抱えて、慌てて私の部屋から出て行った。

 私は床に倒れたまましばらく起き上がることができなかった。


 次の日、私はどんな顔をしてさっちゃんと会えばいいのだろうとかと、胃が痛くなる思いで学校に向かった。

 しかし、その日さっちゃんは休みだった。  

 次の日も、そして次の日もさっちゃん休みだった。

 期末試験の日もさっちゃんは休みだった。

 さっちゃんは学校に来なかった。

 私はその間に連絡を送ろうとしたが、なんと言えばいいのかわからず、LINEを書いて消してを何度も繰り返した。


 夏休みになる前日、私はさっちゃんにメッセージを送った。

「私は何も気にしてないよ。また、一緒に遊ぼ」

 こんな簡単なメッセージを作るのに、2週間以上もかかっていた。

 しかし、そのメッセージは既読にはならず、返信もなかった。


 そして、さっちゃんに会えないまま夏休みになった。

 人生で一番つまらない夏休みだった。

 他の友達と映画に行ったり、服を買いに出かけたりもしたが、さっちゃんのことが気になって、何も楽しくなかった。

 私はクーラーが効いた部屋で、さっちゃんに押し倒された場所で、天井をぼんやり見上げている時間が増えた。

 何が正解なのか、どうすればさっちゃんとまた会えるのかを考えた。


 夏休みが明けた9月、さっちゃんが転校したことを担任の先生から聞かされた。

 親の都合での転校で、すでに夏休み前からそのことは決まっていたらしい。

 誰にも言わないで欲しいというのが、本人の強い希望だったと先生は言っていた。

 転校先はイギリスのロンドン。

 何それ、笑えないよ。


 先生の話を聞きながら、私はそっと自分自信の唇を指で触ってみた。

 あの日、さっちゃんが口づけをした唇。

 ファーストキスを奪われた唇。

 なぜさっちゃんがキスをしたのか、あの時何を思っていたのか、私にはわからなかった。

 わかる術すらもうなかった。


 ただ、もうさっちゃんに会えないという事実に私は深く傷ついていた。

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何それ、笑えないよ 鈴木魚(幌宵さかな) @horoyoisakana

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