魔法使い絢雲の恋物語

葛鷲つるぎ

第1話 ――――の始まり

 冷たい風が頬を打った。人の姿のまま翼を広げた燕飛えんひが、絢雲くくもをかばうように抱き込んで決して落とすまいと滑空する。だがそれは、ほとんど墜落だった。


 少しでもまともに飛ぼうと、燕飛はうめくように口を開いた。


「――背中に」

「えんひ、でも」


 風にあおられなから、絢雲はためらった。燕飛は怪我をしているし、へたにうごくと強風に身体が拐われそうでもあった。


「いいから」


 青年が言う。彼から魔力が滲み出て、二人を覆った。風が和らいで絢雲は自覚しないまま、こわばりが抜ける。


「……わかった」


 それに促されるように絇雲はひとつ頷くと、即席の命綱を魔力で編み、その背中に乗った。失くしてはならない大切なぎょくを懐にしまいこんで、彼の背中の付け根に注意して、空を見渡す。


 絢雲がたしかに上に乗ると、燕飛は完全にツバメに姿を変えた。


 雪をかぶる山の尾根から、朝日が昇ろうとしていた。わずかな雲間から差し込まれる光は、予想外に世界をあまねく照らしている。


 その景色に、絇雲は束の間、見惚れた。


 さっきまで燕飛と絢雲のいた魔導院が、別世界から天空越しに薄っすらと姿を見せる偉業と比べれば、なんてことはないありふれた光景だというのに、どうしてか、とても神々しく感じられる。


「どうして、こんなことになっちゃったんだろう」


 急にやるせなさが込み上げてきて、絢雲はか細くつぶやいた。世界はこんなにも美しいのに、幸せなまま生きていくことが出来ないなんて。


 絢雲も燕飛も、呪いを背負わされていた。絢雲はそれに抗いたくて魔導院に入学したが、呪いのせいで、こうして命を狙われてしまった。


 燕飛はそれでも絢雲を助けてくれようとしていた。愛しい人。絢雲がひそかに思いを寄せている青年。


 絢雲の、雨に濡れ緑色に反射する鴉の羽根を、前衛的に活けたようなボロボロの黒髪と違って、燕飛は同じ黒髪でも、大切に生育された燕の艷やかな羽根色をしていた。


 瞳の色は呪いのせいで黒々しく濁っているが、本来の赤色も見えている。呪いが解ければ、きっと宝石のようにキラキラとしているに違いない。


 絢雲は、碧眼だった。これといって特徴はないが、燕飛から南国の海のような肌によく合う碧色だと言われてからは、心の中で自慢になっている。


 夢のような時間だった。呪いなんて、魔導院の知識と呪いに打ち克つ意志さえあれば解けると信じていた。――すべては、人々を見返すために。


 そうでなければ、ならなかった。


『っ、絢雲……っ』


 魔力を纏った声。限界が来た燕飛が、忠告を短く発する。


 そして今度こそ、二人は墜落した。


 絢雲が編んだ命綱が幸か不幸か二人を繋ぎ止め、木々を覆い隠すほど降り積もった雪を二人でごっそりと削って、もんどり打つ。パタタタタタッ、と燕飛の血が飛び散った。


 絢雲は強い衝撃で、息が一瞬切れる。


「……う、……燕飛ッ」


 命綱はちぎれてしまっていた。視界は不明瞭で頭の中がかき混ぜられるように、ぐるぐると揺れを感じる。肉体は有ると分かるのに、手も足も自分のものではないみたいに動かない。


 雪の下で眠っていたところを起こしてしまったせいか、木々がざわめいていた。


 燕飛の反応はなかった。絢雲は視界が効かない代わりに、触覚を頼った。得意の糸魔法で網を張り、手探りで状況を確かめていく。


 木々のざわめきが大きく聞こえた。


「追手が来てる……?」


 絢雲はそれを把握すると、危機的状況に火事場の馬鹿力を発揮した。意識が覚醒し、視界も明瞭になる。


 気配を探った。曇り空。風がわずかに吹いている。雪は降っていなかった。空は明け方に見えたが、地面の上ではまだ薄明にもならない。雲間から光が射す様子もなかった。


 わずかに吹く風は、落下のそれとは違って、おそらく追手の魔力マナが大気に伝搬しているせいだった。なんとしても絢雲を捕らえようと、鬼気迫る気配が風とともに伝わってくる。


「あっ。えっ!?」


 その理由を、絢雲は思い出した。慌てて懐にしまった玉に触れる。それから、おかしな感触に胸元を見れば、絢雲は声を上げた。ぎょく、形は手のひらほどの無機質な鉄の塊が、絢雲の心臓に半分溶け込んでいる。


「燕飛」


 思わず絢雲は彼を見た。応えはない。変身が中途半端に解けた、有翼の青年がいるのみ。翼があるのは、最後まで落下の衝撃を殺そうとしていたからか。


「どうして……、どうしよう……!」


 絢雲はあえぐ。どうしてこうなったのか。絢雲には本当に、分からないのだ。だが絶望していられる暇はなかった。


「どうしよう……! でも……!」


 敵意を向けられることには慣れている。そのことが功を奏して絢雲は平心を取り戻した。片手で上半身を支え、もう片方の手を恭しく掲げる。


「精霊よ。静寂を破ったことをお許しください」


 今すぐに追跡を逃れ、安全に身を隠す必要があった。


 燕飛は今、生きているが、死に向かっている気配がある。治療しなければ。あとどのくらい保つのか。しかも絢雲の魔力マナは、底を尽きかけている。


「樹木、雪、風、大地の精霊。どうか私たちを隠してください。逃げているのです。お願いします。空の城より来たる彼らから、私たちを隠してください!」


 風が吹いた。強さを増した風が。


 だんだん、だんだん。



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