第02話 勘弁して下さい

「ハァ、ただいまー」


 ガチャリと扉を開け、誰もいないマンションへと帰る。うざったい前髪をピンで留め、メガネを掛ける。思い返せば今日は散々だった。新学年初日からホモ疑惑だし、そんなことよりも──。


「くそ、雪め」


 別にあんな軽口を秀一がつついてくることはない。だが、言霊には力があると俺は思っている。あのタイミングで俺が雪が降ったらという言葉を口にし、ありえないくらい低い確率である雪が降ったこと。それが気持ち悪くて仕方がなかった。


「ハァ……。お天道様すみませんでした。前言撤回させて下さい」


 俺は天井に向け、手を合わせ、頭を下げる。これはお天道様を軽んじた俺への罰だろう。こういうのはきちんと謝っておくに限る。


「はい、反省終了。さぁて、バイトバイト」


 ブレザーから、私服に着替え、ささっと鏡の前で整えたら出発だ。


「いってきます」


 一人暮らしをしているわけだから、それは誰かに向けたものではない。強いて言えば、この家に対しての挨拶だ。


 ガチャリ。


「おわっ、あ、すみません」


 扉を開けた先で段ボールを抱えた引っ越し作業のお兄さんににぶつかりそうになった。


「あ、こちらこそすみません」


 お互い会釈し、俺はそっと半身で外へ出ると、鍵を閉める。


 (隣、か)


 隣が確か空き部屋だった記憶がある。チラリと覗けば隣の部屋の扉は全開になっており、そこへ段ボールが吸い込まれて行っているようだ。


「おわっ」


「キャッ」


「あっ、前見てなくてすみませんっ」


「いえ、こちらこそっ」


 そんな方を向きながら歩きだそうとしたら、女性とぶつかりそうになってしまった。慌てて謝り、その顔を見る。


「「ん?」」


 見つめて三秒。


(気のせい、ではないよな。こいつは伊佐凪、だよな? いや、伊佐凪なわけないか。そんな偶然はない。人違い。世界には似た人間が三人いると言うし。うん、そうだ)


 俺は、自分を洗脳することにした。


「あ、すみません。知人に似ていたもので。それでは、失礼します」


「ちょちょちょちょ。えと、霧山くんだよねっ? あの、私、同じクラスになった伊佐凪ですけど、分かります?」


「霧山……? 伊佐凪……? ちょっと人違いだと思いますね。では」


 立ち去ろうとすると、伊佐凪……に似た女はジッと一点を凝視する。


「あの、それ……」


 Kiriyama。ローマ字で書かれた表札。栗山ですと誤魔化すか、とも思ったがまず無理だろう。


「ハァ、そう霧山。で、伊佐凪ね。知ってるよ」


 俺は諦め、いつものモードで対応することにした。


「だよねっ! 実は私、今日からお隣に越してきまして、初めての一人暮らしで不安もあったのですが、隣が知り合いですごくホッとしています! 霧山くん、ご近所付き合いどうぞよろしくお願いします」


 伊佐凪は、嬉しそうな笑顔を作り、ペコリと頭を下げてきた。俺はしばし逡巡し──。


「あぁー、伊佐凪さん。後出しで言うのも何だから、先に言っておくね。俺、人付き合い苦手だし、その中でも特に女性が苦手で、更に言えば伊佐凪みたい──じゃなくて、とにかく無理なのでご近所付き合いとかは本当に勘弁して下さい。じゃ」


 つい、伊佐凪に対してのオブラートに包めば苦手意識、包まなければ嫌悪感にも似た気持ちまで口にしてしまいそうになったので、それは言い過ぎだと自重し、ぽかーんとする伊佐凪を置いて、去ろうとする。


「ちょちょちょちょ。待って下さいっ」


 キュッと上着の裾を掴まれ、引き留められる。仕方なく振り返り、言葉を待つことにした。


「あの、あ、えと。失礼しました。すみません。その、私のこと苦手ってなんででしょうか? 私、霧山くんに何か失礼なことしちゃっていましたか?」


「いや、伊佐凪のことは苦手とは言っていない」


 そう言いかけてしまっただけであり、明言はしていない。


「じゃあ苦手じゃないです?」


「…………ノーコメント」


「ほらぁー!」


(あー、どうしよう。めんどくさいの極みだぞー。秀一助けてくれ)


 俺は心の中で友人にヘルプを求めてしまう。が、秀一は残念ながら電波キャッチできる系男子ではないので、俺の心の声が届くことはなかった。


「「…………」」


 またしても睨み合い、硬直する。どうやら意外にも伊佐凪は頑固なようだ。


「雰囲気。伊佐凪を見てると胸が締め付けられるんだよね、悪い意味で。なんつーか、緊張感みたいなものがずっと伝わってくる感じ。そんななのに本人は笑顔で明るく振舞ってる。その気持ち悪さみたいな感じ。もういい?」


「……あ、はい。その、ありがとう、ございます……」


伊佐凪はうつむいてしまう。聞きたいと言ったから言ったのにこれだ。俺は後味の悪いやり取りを切り上げて、自転車に乗り、バイトへと向かった。

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