バカの人外の座敷牢

マフィン

第1話


 その廃墟には「何か」がいるのだという。

 元々は地域一体でもかなりの名家の屋敷だったと言われている。薄汚れているが敷地を囲む白塀は長く、荒れた砂利と枯れた松が据えられた庭には往年の栄華の名残がある。元々の普請が強固だからか、屋敷自体も朽ちてはいるが崩れ落ちたりなどはしていないのだ。

 そんな廃墟の一角。巨大な屋敷にはそぐわない小さな蔵の中に「何か」はいる。と言われている。縁起も正体も何もわからないモノが。

 出くわした者がどうなるかはわからない。内臓を綺麗に抜かれて食われると言う人もいる。正気を失って一生精神病院入りだと言う人もいる。一方、途方もない富と栄誉を得るという人もいる。かつての住人はその力でこの立派な邸宅を建てたのだと。真相は誰も知らない。実際に見に行った人がいるのかどうかさえもわからない。真実は消えては立ち上る噂の中にその姿をくらませている。

 とにかく、日本のどこかに「何か」がいる屋敷があるのだ――




「おのれ、おのれェ……!ワシを出せ!出さねば喰ろうてやるぞ、人間どもめ……!」

 大学生は今、自分の顔面がこれまでの人生にないほど凪いでいるのを感じていた。昔ネットで見たやたらスンとした顔の動物が脳裏に浮かぶ。あれなんだっけ。スナイヌ?

 子供の頃に見たアニメ映画に憧れて、近所のボロ屋におやつのバナナ片手に侵入してから十数年。あれ以来廃墟の静かさ不気味さ埃っぽさにすっかり魅せられた少年は、暇さえあれば夜な夜な廃墟への不法侵入を繰り返す非行青年へと著しい成長を遂げていた。その道中で霊的なものや不審者的なもの、廃墟にまつわる奇妙な体験は掃いて捨ててさらにフリマアプリで売りさばけるほどにはしてきた。だが過去現在未来ひっくるめても、きっと今の状況が一番奇妙だろう。

「口惜しい、口惜しい……!あの腐れ陰陽師めが!我が名を盗んだ賊めが!」

 大学生の目の前には「何か」がいた。人のかたちをしているが人ではない。人であれば牙のある口は耳元まで裂けていないし、目玉も額を含めて3つもついていない。何より全身に血にまみれた毛皮をまとっていない。禍々しいそれは蔵の壁に爪を立てては、しきりに己を封印した人間達への呪詛を血みどろの声で吐いていた。

 これがきっと噂に語られていたものの正体だ。おそらく妖怪や祟り神の類だろう。しかも人間に激しい憎悪を抱いている、廃墟ではヤクザの次に出会いたくないタイプの存在だ。あいにく大学生は宇宙人、未来人、異世界人、霊能力者。どれでもないただの人間だ。この怪異がひとたび牙を剥けばひとたまりもない。それでも彼は落ち着いて、恐れず「何か」に声をかけた。

「なあ……出ないの?」

「出ろ、だと!?何を抜かすか!出られるものならとうの昔に出ておる!これが見えぬか!ワシを封じるこの忌々しい牢が!」

 確かにそれは閉じ込められていた。狭苦しい蔵の壁はサイズと相反するようにどっしり厚く、朽ちた今でも簡単には打ち破れそうにはない。さらに大学生が入ってきた扉側には強固な鉄格子が嵌められ、外と内とを区切っている。ここは完全に中にいるモノが抜け出せないように作られた牢獄だった。

 だが、それは「横」の話だ。

「……あそこから出れない?」

 炯々と敵意を向けてくる「何か」に、彼はそっと右手の人差し指を立てた。そしてゆっくりと持ち上げて上を示す。つられてそれも上を向いた。背に伸びる鬣の墨を流したような黒がはっきりと見えた。

 普段黒い夜空は薄っすら青く、この時期瞬いているはずの夏の大三角形はよく見えない。本も読めそうな月の白い光が、しずしずと大学生と獣を照らしていた。


 つまり、空が見えていた。かつての住人達が施したはずの重い封印は、屋根の崩壊という形で解けていた。


 中天に浮かぶ満月が映った紅い三眼が、ゆっくりと数度瞬いた。数拍置いて、再びこちらを向いたそれの首が「どうして?」と問いかけるようにゆっくりと傾く。大学生もつられて首を傾けかけて――正気に返り盛大に叫んだ。

「気づいてなかったのかよ!?あそこ!穴!開いてる!出ろ!」

「き、気づいていたわ穴ぐらい!雨水飲んでたもん!雪も見たもん!」

 急に可愛気のある口調になった「何か」はぶんぶんと首を振って己が注意不足を否定していたが、ふと何かを思い出したのか動きを止め勝ち誇るような顔で口を開いた。先と同じく威厳と呪いの乗った、恐るべきものの声だった。

「……ふ、ふふ。ただのヒト風情には分からぬようだな。壁があり、檻があるから出られぬのではない。この身は卑劣な陰陽師の猪口才な札で縛られておるのよ」

 あれすら無ければ今すぐ抜け出してワシを封じた愚かな人間どもを喰らってやるものを……と忌々しげに顔を伏せたそれの目の前に、大学生は少し申し訳無さそうな顔で拾ったものを突き出した。紙だった。泥に汚れてあちこち破れた紙だった。更に言うならば、白地に墨で文様と漢字が書きつけてある、神社などで売っていそうな紙だった。

「札ってこれか?外に落ちてた……」

「…………」

 気まずい沈黙が夜に満ちた。夏の夜に吹くほんのりと涼しい風でも流せぬほどの、重く悲痛な静けさだった。

 流石にもう帰ってもいいかな。明日レポートの提出日だし。大学生が冷静さを取り戻してそんなことを考え始めた頃、「何か」がどさりと崩れ落ちた。蹲った体が、やがて小刻みに震え出す。

「ど、して……どうして……そんなんだったなら、オレなんでずっとここに……」

 遺恨も威厳も一人称も、何もかもすっかり失い子供のようにしゃくりあげるそれの姿に、流石の大学生も哀れみを感じた。確実に自分のせいではないのだが、それでもきっかけを作ったのは自分であると思うと謎のいたたまれなさが湧いてくる。彼はついつい声をかけてしまった。目の前にいるのが人間を恨む人外であることを半ば忘れていた。心境としては、無様に振られた友人を慰める時の気持ちだった。

「あのさ、元気出せよ。もう出られるってわかったんだから出ればいいじゃん?したいことすればいいじゃん」

「けど……何すりゃいいのかわかんない……」

「あー…ほらさっき自分封印した人間喰いたいって言ってたろ?そいつらの子孫探して喰っちゃえばいいんじゃね?」

 大学生の口から無責任な提案が飛び出す。ある意味殺人教唆に近い発言だが、ぶっちゃけ昔ここに住んでいた人間の子孫なんてどうでもいいや、地元じゃないし。と判断したぐらいには大学生は人でなしであった。しかしその報いは数秒後、「何か」の口から返ってくることになる。

「人間ども……ここにはもういないのか?」

「気づいてなかったのかよ!?」

「いや最近静かだなと思ってたが……どうしていなくなった?引っ越したか?」

「死んだんだよ!!!!!!!!!」

 肺の中の空気を全て絞り出して夜空に叫ぶ。こいつの顔がさっき思い浮かべていた友人にダブった。友人はバカだった。つまりこいつもバカだ。もう嫌だ。大学生は泣き止んで落ち着いたらしいそれの横顔に、胸に浮かんだ疑問をそのまま声にして叩きつけた。

「大体なんでお前捕まったんだよ!人間喰えるんなら喰って逃げればよかったろ!陰陽師とかも喰っときゃよかったろ!」

「いやあの……まあいい、オ…ワシが捕まった理由を話してやろう。ついでに、人間どもの横暴もな」

 大声に体を竦ませながらも「何か」は起き上がり居住まいを正した。視線で大学生に座るように促すと、蛇のように先の割れた舌を覗かせてぺろりと唇を湿す。

「まずワシはその昔、獣より変じてこの辺りで人を取っては喰らっていたのだが」

「その時点でお前の方が横暴じゃねえか」

 大学生がすかさず話の腰を折る。彼は聞き手には向いていないタイプの人間であった。

「ぐっ……いやまあそれはよい。強きモノが好きに振る舞うのは世の道理よ。だがワシを封じた弱い人間はな、坊主や陰陽師どもを使ってワシのようなモノを捕らえては、その力を繁栄のために搾り取っておったのよ」

「あーなんか……パワーストーンとかパワースポット的な?」

 なんだそれは。自分が大分失礼で的外れな例えをされたことに気づかぬままにそれは語り続けた。紅い瞳が過去の記憶をまさぐるようにちらちらと動く。

「詳しくは知らぬ。だがともかく、その邪法の生贄にワシを選んだ人間どもは陰陽師を一人ワシの元に寄越した。そして卑劣な手段をもって……我が名を奪い取ったのよ!」

 名を知る。やっていることの割にオカルトには詳しくない大学生にも、それが呪いや化け物退治などに重要であることは知っていた。真実の名を知ることにより相手の霊魂を支配することができる。だから人も怪異も本当の名を隠していたのだと。現在よりその概念が強かった時代にどうやって名前を盗んだのか。彼は少し興味が湧いた。

「卑劣って、どんなことされたんだ?」

「いやなに、腐れ陰陽師がな。『偉大なる荒神よ、貴方様の社を作りこの地に祀らせていただきたいのです。お祀りさせていただいた暁には毎月3人の生贄を捧げさせていただきます。しかも今ならなんと季節の果物もおつけします!ですから是非お名前をお聞かせいただく』などと言ってきたのでな。ワシは正々堂々と『我が名はマガツヒコ』と名乗り……」

「バカ!!!!!!!!!!!!!」

 大学生は再び叫んた。「何か」改めマガツヒコが怯えるのも構わず地面を殴りつける。さっきまでのことを忘れていた。こいつはバカだった。完全に詐欺に引っかかっただけだ。しかも今自分にも本当の名前を言った。二重にバカだ。こんな手段でいけると思った陰陽師も多分バカだ。バカのトリプルアクセルだ。

「絶対怪しいだろうそんなもん!聞くな!言うな!」

「だ、だって……季節の果物は得じゃん……人間取るのも楽じゃないし」

「だから騙すネタに使ったんだよ!気づけバカ!!!」

 バカの奔流に襲われて精神的ダメージを負った大学生が落ち着くまで多少時間がかかった。その間ずっと縮こまって弁明を繰り返していたそれはもう恐ろしい「何か」には見えない。ちょっと口が裂けてて目が多くて毛むくじゃらの「何か」だった。

「だってまずさー、騙そうとするのがずるいじゃん……もうそれはいいだろ、続き話すぞ?」

 こわごわと切り出すマガツヒコに、大学生はやさぐれた目で頷いた。もうこうなったら最後まで聞いてやる、聞いて突っ込んでやるところには全部突っ込んでやる意気込みだった。  

「わかった……で、まんまと我が名を聞き出した陰陽師はまずそれを呪と共に札に印した。お前が手に持っておるそれよ。次に生贄を捧げると偽って儀式を執り行い、ワシを弱らせこの蔵に追い詰めた。そして札で結界を張り閉じ込めたのよ」

 見てみるがよい。そう促されて大学生は手に持った札を眺めた。書かれた字は奇妙なほどかすれておらず、今でも読み取れる。マガツヒコ。音的には禍津彦などと書くのだろうか。紙の上に何度か視線を往復させて、彼はマガツヒコの名と思われる文字列を見つけ出した。


『渦津彦』


「バーカ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 大学生の喉から夜闇を割る大音声が轟いた。何!?オレ今何もしてないよ!?半泣きで戸惑うマガツヒコを尻目についに大学生は泣いた。もう涙しか出てこなかった。

 名前間違ってんじゃねえか。

 てかそれなら効果ねえじゃねえか呪い。こいつ閉じ込められてねえじゃねえか。気づけよ。

 彼は滂沱の涙を流した。目の前の怪異のバカさに泣いた。顔も見たこともない何年も昔の陰陽師のバカさに泣いた。そして何より、今ここでこんな話を聞いている己のバカさにも泣いた。

「大丈夫か……?」

「うっ、っく……大変だったなお前も……こんなバカに捕まって……力絞り取られて……」

 つらかったよなあ、オイオイと泣きながら大学生は顔を上げた。度重なる衝撃に耐えきれなかった彼の精神は崩壊し、目の前の諸悪の根源的な存在に心からの哀れみを向けていた。誰も悪くなかったのだ。ただ全てが噛み合わなかったのだ。そんな悟りさえも開いていた。

 だが。

 慰めの言葉をかけられたマガツヒコはぴたりと動きを止めた。凍りついた顔の中で三眼だけがくるくると動き回り、次第に様々な表情を形作っていく。大学生はその全てに見覚えがあった。まず何か大事なことを思い出そうとする時の顔。次に取り返しのつかないことをしてしまった時の顔。そして、誰かに叱られることを告白する時の、あの。


「……よく考えたら、力、吸われてなかった気がする」

「バカ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 





 後日。

 大学生はレポートの再提出のために大学図書館へと足を向けていた。検索システムの印刷用紙を手に死んだ魚の目で本棚の間を回る途中で「◯◯地方史」と書かれた分厚い本が彼の目に留まった。大学のあるこの地方都市の細かな歴史――当時の有力者などについてを詳しくまとめた郷土資料らしい。

 あのバカの家の一族のことも、載っているのだろうか。バカを犠牲にして得た繁栄とその末路も。

 よからぬ好奇心がむくむくと頭をもたげ、気がつけば彼はレポートそっちのけで分厚い史料を読みふけっていた。カビ臭いページをめくり、しらみつぶしにあの家のある土地の名前や該当しそうな一族を探す。数時間も粘り本も佳境に差し掛かった頃、ようやくそれは見つかった。


1914年:豪農の◯◯家、鏡開きの餅による食あたりで滅亡


 図書館から一人の学生が、叩き出された。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る