天命の剣
如月六花
わからないこと
『人生いくつになってもわからないこと、知らないことは幾らでもある』
数年前に亡くなった祖父の言葉を思い出しながら、
これはおそらくだし巻き卵……になるはずだったものだ。
現状では炭だが。
彼はそこに手を伸ばし、抓んだ箸の先に感じる、卵とは思えないカサっとした感触に箸を引き戻した。
出された料理に文句をつけるほど小さい男にはならないように育てられた彼ではあったが、あからさまに食品とは思えない物を口に運ぶほどには愚かでない。
絶対食べられないだろうに何故これを食卓に並べたのか、これもわからないことの一つだ。
兎角この家はわからないことが多い。
武公が小学生の頃、両親の仕事を調べるという宿題を出されたことがあった。
訊ねると両親は公務員であると答えたが、夜毎に夫婦連れ立って普段着で向かう公務員の職場というものは彼が高校生になった今でもどうにも思いつかない。
まして年に数回は母が怪我をして帰ってくるという状況を考えると、よりいっそうだ。
彼らはいつも通り夜9時前に出掛け、翌朝5時を過ぎる頃に帰宅して、7時に布団に向かった。
武公は黙って朝食を進めた。
味噌汁を啜ってみれば、どうやら今日は成功したらしい。
出汁を入れ忘れもしなければ、味噌の量を間違える事もなく、奇抜な具材でもない至極一般的な味噌汁である。
実に数週間ぶりのまともな味噌汁の有る朝食だ。
具材の油揚げが切りそびれて繋がっていることにも、
左側で同じく箸を進める祖母も少しホッとしたような顔に見えた。
この祖母も謎の人だ。
日がな一日、家から程近い神社に入り浸っている。
ならばさぞかし信仰心の強い人物かといえば、全くそんな様子もない。
家は確かに神道信徒ではあるようなので
では亡くなった祖父が
閉じたままの理由は、白木は汚れやすいからというなんともざっくりしたもので、他意はないらしい。
では信仰心の希薄な人間が何故毎日神社に向かうかというと、どうやらそこの宮司と近所の年寄りとで集まって茶飲み話をしているようだ。
謎が深いのは、その際の茶菓子の類。
若い娘でもあるまいに、やけに流行り物を欲しがる。
しかし本人はそれが何か良くわかっていないようなのだ。
季節限定のみかん味のポテトチップスを買って来いだの、どこの店の何を探してくれだのと言うが、これで合っているのかと訊ねると首を捻る。
更には商品名さえうろ覚えであるために、時によっては大変難解な事もある。
先日の“食べるのに戸惑うような派手な色で、おもちゃのような見た目のお菓子”がトゥンカロンとかいう韓国のマカロンであるという事に行き着くまではもはや
男子高校生には出入りしにくいような可愛らしい店に、女性ばかりの大行列を耐えてどうにか購入するというある種の苦行を武公は物ともしない。
何故なら彼は幼少期よりこの理不尽なお使いに慣れきっているからだ。更に言うならば、様々に無頓着な彼にはそれを気にする繊細な神経も持ち合わせてはいない。
武公が3杯目になる米を盛る為に立ち上がろうとすると、彼の正面に座る少女が透けるほど白い手を伸ばした。
「私がやります」
肩までの髪を揺らして立ち上がろうとする彼女を、彼は止める。
「いや、自分のメシくらい自分でよそる。それより……それを食べるのはやめておいたらどうだろう。絶対苦いと思うぞ」
「失敗したのは私だから」
声量だけは控えめ、でも譲る気のなさそうな頑固な口調の答えに彼は小さくため息をついた。
「椿さん、無理は身体に良くない。君は昨日も生煮えの煮物を食べていただろう。そういうのはもうやめてくれ」
武公はこのところずっと続いている彼女の食生活について苦言を呈するが、当の本人である
「椿ちゃん、武公の言う通り。まだお料理を始めたばかりなのだから失敗して当然。どうにもならなかったら諦めなさいな」
「ご厄介になっているのに、無駄には出来ないです」
彼女はここ数週間、武公の祖母に教わって朝食作りに励んでいる。
しかし料理の才が無いのか失敗が続き、その失敗作を自ら消費していた。
居候の身分では何一つ無駄には出来ないと言うことらしいが……武公は祖母の言葉にすら頷かない椿の頑固ぶりに渋面になる。
「無駄じゃないだろう。君は何度も失敗しているが、上達もしている。無駄にしたわけじゃなくて……その……なんだ……」
言いたいことはあるが、彼の頭では上手く処理が追い付かない。
やや時代錯誤感のある賢そうな口調は、祖父の趣味であった大河ドラマや時代劇の影響だ。
武公は身体の鍛錬については怠っていないが、その分脳みそまで筋肉が詰まっているような人間なので、いざという時に言葉が思いつかない。
賢そうなのは口調だけである。
彼の祖母は孫に向けて情けない顔をしながら口を開く。
「誰だって最初から上手くはいかないから練習するの。練習すれば失敗もある。でもその失敗は無駄じゃない。その分上手になれば、椿ちゃんの力になるの。だから身体に無理をさせてまで食べないで。ちゃんとあなたの栄養になってるんだから」
「そ、そうだ! つまりそれが言いたかったんだ」
朝っぱらから5キロのランニングと各種筋トレ、最重量である1キロを少し超えた居合刀での素振りを日課とする脳筋男子としては言語を尽くしてもこの程度。
孫の不甲斐なさに祖母は一つため息をつく。
彼女は本来であれば拳骨の一つもくれてやりたかったが、頭蓋骨まで丈夫なのか殴った手の方が痛いのを身に沁みて知っているので諦め顔だ。
「椿ちゃんも家族になるんだから、過ごしやすいようになさい。無理をする必要はないの」
「ありがとうございます」
椿は嬉しそうに微笑む。
どうやら納得してくれたらしいと武公は安心して炊飯器から飯を盛るが、そこでふとまた思う。
この家で目下のところ最大の「わからないこと」は黒焦げのだし巻き卵を諦めた同い年の少女、椿なのだ。
遡ること1ヶ月、まだ春休みの間に祖母が連れて来たのがこの同級生という少女だ。
武公が知らないうちにこの家で共に生活することが決まっていた。
しかも彼の一切関与しないところで勝手に
武公にとっては正に青天の霹靂。
年頃の男女がいきなり同居、しかも許嫁とくれば普通はウキウキワクワクのラブコメ展開が予想されて然るべきだが、彼は良く言えば生真面目、悪く言えばカタブツ脳筋……けしからんと大いに騒いだ。
椿の容姿が気に入らないわけではない。
彼の好みよりはずっと儚げで頼りないが、茶色の大きな瞳には意志の強い光が見える。
透けるほど白い肌や病的に華奢な体躯と、身体つきの割に主張する胸の膨らみは「女の子」という概念を具現化したかのようでどうしても意識せざるを得ない。
要は武公は色恋というものが苦手なのだ。
年頃なりの身体的な欲求はあるが、色恋のような繊細な機微は全くわからない。
そこにいきなり脳筋男子が迂闊に触れれば壊れそうな少女が、自分の許嫁として現れればどうなるか。
答えは簡単、万一過ちでもあったならと気が気ではなくなる。
だからこそ同居は良くないと騒いだ結果、初対面の彼女を泣かせてしまった。
椿は唇を噛み締めて声を殺し、ぼろぼろと涙を零したのだ。
おかげで家族からの非難を浴び、なし崩しに同居生活は開始された。
「ごちそうさま」
武公は食べ終えた食器を流しに運びながら件の少女を見る。
ちまちまと食べる様子はなんだか小鳥のようだ。
自分が3杯の山盛り飯を食べる間に、彼女はたった1杯の茶碗を空にするのにも手こずっている。
最初は具合でも悪いのかと思ったのだが、どうやらこれが彼女のペースらしい。
武公は食器を水に沈めながら、何故金持ちでもない我が家に許嫁というものがいるのか、あの日からずっと聞けずにいる疑問を反芻する。
更に言うならば、彼女がその許嫁という立場をどのように考えているのか……その疑問も口に出せずにいた。
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