第9話
009
翌日。
休日の学院の屋上で、クロードは暫しの休息に煙草を吹かしながら城下を眺めていると、彼を訪ねて一人の女生徒が現れた。
「……先生」
「やぁ、レディ・ルシル。休日まで学院に足を運ぶとは、随分と勉強熱心だな」
「レディはいりません。あと、ルーシーと呼んでください……。そう、お願いしていますよね……」
彼女は、ルシル・エクフイユ。短い橙色の髪とまん丸な同色の瞳に、小柄な体躯とか弱いイメージを持つ名門エクフイユ侯爵家の三女だ。
「……分かったよ、ルーシー。それで、私に何か用が?」
彼女は、クロードを我が物とするべく暗躍する父親に命を受けたが、しかし本気で彼に惚れてしまった女の一人であり。
「昨日の夜、どこへ行っていたんですか……?」
そして、メアリがクロードの研究室へ入っていくのを監視していた女でもある。
「……ん?」
「昨日の夜、どこへ行っていたのかを訊いているんです……。もしかして、先生ほど聡明な方がこんな質問も理解出来ないとは思えないのですが……」
「いつも通り、研究室で寝ていたよ。ひょっとして、私は何かの容疑者に――」
「嘘つきィ!」
叫ぶと、ルーシーはローブの袂から杖を取り出して一振り。クロードの体を高いフェンスへ貼り付けて背伸びをし、黒い瞳で吐息の当たる場所まで顔を近付けた。
煙草は、地面に落ちている。
「なんで嘘つくんですか? なんであんなお店に行ったんですか? 先生は、とても高貴で清廉な方じゃないですか。もしかして、一緒にいた殿方に何か弱味を握られているんですか? 悪の道を唆されたんですか?」
「ちょ、ちょっと待ちたまえ。暴力はいけない」
「それとも、あたしが悪いんですか? そうですね、先生。あたしが、ずっと寂しい思いをさせてしまったのがいけないんですよね。ごめんなさい、先生。先生の事、あたしが満足させてあげられなかったのがいけないんですよね」
彼女は、妄想の中で彼を神格化し、やがて本物の彼の人格も歪めて認識していた。
果ては、脳内で巻起こった悲劇から本気で救おうと、こうして彼に過激なアプローチを仕掛けるまでになってしまったのだ。
「ルーシー、杖を下げてくれ。それ以上は君のためにならない」
「あたしを研究室に入れてくれたとき、優しく頭を撫でてくださいましたよね。そんな先生の手が、淫猥を求めているとは思えませんでした。ですから、誰が入っていっても心配していなかったんです」
言いながら、ルーシーは首筋へ唇を這わせると深く息を吸い込んで笑った。生暖かい感覚に、背筋が冷えつく感覚を覚えてしまう。
「でも、そうじゃなかった。先生は、今とても危ない場所に立っているんです。先生という偉大な叡智の結晶が、色欲によって失われようとしているんですよ。ですから、あたしが先生を満足させてあげます。あなたを、これ以上悪の道へは行かせません」
「……ルーシー」
抱きつき、再び見上げた彼が静かに言う。
「はい」
「離したまえ。君は、私の授業から何を学んでいたんだ」
すると、ルーシーの顔は青ざめて体を離し、杖を落とすと怯えたような表情で三歩後ろへ蹌踉めき蹲って頭を掻きむしった。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……。違うんです、先生……。あたしは、決して先生のそんな顔が見たかったワケじゃ……」
動揺を隠しもせず、ガタガタと震えている。拘束の解かれたクロードは、落ちた煙草を拾って灰皿へ押し付けた。
「悪かったな、ルーシー」
「……え?」
「君を、辛い目に合わせてしまった。この状況は、私の自己認識不足が招いたんだ」
ルーシーは、膝をついて目線を合わせてくれたクロードを見ると、思わず涙を流していた。
彼女は、決して彼を害すために行動したのではなく、あくまで彼を悪から守るために正義を行ったのだ。
そして、それが彼の教える『戦争の理由』に基づいていると気が付いた。涙は、彼の教えを忘れてしまった事への罪悪感の表れなのだろう。
――扉が強く開く音。
「失礼、こちらで申請のない強力な魔法反応が感知されたようですが。……あれ、クロード先生?」
駆けつけた二人は、クロードが魔法を魔法をほとんど使えないことを知っている守衛騎士だ。触媒の白い剣を抜いて、臨戦態勢に入っている。
「こんにちは、守衛さん。いい天気ですな」
「……そちらの少女は、エクフイユ侯爵のご令嬢ですか」
服には黒い魔力の痕跡、更に乱れた髪型を見て守衛たちはここで何が起きたのかを理解した。未だに泣いているルーシーは、彼らを見て更に動揺を激しくしている。
「襲われたのですね、クロード先生」
「いえ、私が頼んで公女様に天才の才覚を見せて頂いたんですよ。知的好奇心が先走って連絡も忘れてしまいました」
「……嘘はなりません。あなたまで、罪に問われる事になる」
「嘘だなんて滅相もない。しかし、ここまでご足労頂いた迷惑は償わなれなければなりませんな。どうか、お納めを」
クロードが手渡したのは数枚の札。小遣いにしては、些か多すぎる額だ。
「せ、先生!?」
「幸い、今日は休日で事実を知るのはあなた方だけ。彼女の教育のために、ここはどうか受け取ってください」
クロードの考えを察したのか、二人は悩み抜いてから仕方なく金を受け取るとルーシーを見逃して屋上から出ていった。
見送り、クロードは再び膝をつく。
「……分かったか? ルーシー」
「な、何がですか……?」
「知っての通り、私は酒も煙草もやるし、たまに羽目を外すし、時にはあんなふうに賄賂を渡したりもする。決して、上等な男なんかじゃない。憧れに足る資格は持ち合わせていないよ」
「う、うぅ……っ」
「だから、目を覚ましたまえ。君はそんな愚かな子じゃないだろう」
こうして、ルーシーは彼への恋心を疑う理由を持たされ、クロードに送られるままに家へ帰ったのだった。
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