第二部 シマとルイ

 真っ暗だった。

 昼間のはずだったけれど、暗かった。


 暗いトンネルを高速で移動している感覚がした。


 前方に光が見えた。

 そこが出口だと思った。


 私は光に向かって飛んだ。


 光はどんどん大きくなり私を包み込んだ。とてつもなく大きな愛に包まれていると感じた。


 いくつもの幾何学模様が光の中に見えて、まるで万華鏡のように変化しているのが見えた。


 その模様を見ていると意思が伝わって来た。光の意思? そのようなものだった。

 自分の全てが肯定され、受け入れてもらえたと私は確信した。


 これで心置きなく空に帰っていける…そう思った時に、私を引き戻すものがあった。


 …イカセナイ…。


 ヤミだった。

 ヤミが私を行かせてくれなかった。


 目の前にルイの気配がした。

 ギラギラトゲトゲしたものが漂ってきた。


 ルイ…!!


 私はギラギラトゲトゲを捕まえてしっかり抱き留めた。

 体中がチクチク痛んだが、私は決して放すまいとルイを抱きしめた。


 急激に世界が動いていた。


 どこかに落下しているような感覚がして、そしてそれはどんどん強まった。


 ものすごい振動だった。

 あまりの振動にルイを落っことしてしまった


 あろうことは、私はルイを落っことしてしまったのだった。


・・・・


 目をあけた。

 ぼやけて良く見えなかった。


 ただ暖かな感覚。優しい誰かに包み込まれている感覚。


 お腹が空けば口元に柔らかいものが押し付けられ飲み物が出てきた。

 排泄をすれば誰かがおしめを取り換えてくれた。


 死に損なって寝たきりになったのかと思った。


 だが違った。


 赤ん坊になったのだった。


 私は自分の両方の拳を持ち上げた。ぼんやりとそれは認識できた。

 それを口元に持って行き、アグアグして自分の手であることを確認した。


 歯はまだなかった。


 私の名前はシマ。

 ついこの間まで老婆であったことをはっきりと覚えていた。


 ここへ来る途中に、ルイの魂を落としてしまったことも覚えていた。


 早くあの子を見つけてあげないと。

 きっと独りで寂しがっている。


 私は漠然とした感覚の中で、じりじりと時が過ぎていくのを待った。


 赤子の世界は視覚による認識よりも、肌で感じることの方が多かった。

 誰かに抱かれている感覚。肌着や肌掛けの感触。

 暑いのか、寒いのか。


 眠くなると眼球や背中がムズムズして気色悪くて私は泣いた。

 お腹が空いて来るとどうしようもない怒りが溢れて私は泣いた。

 おしめが汚れると感触が気持ち悪くて私は泣いた。


 泣かないと何もしてもらえないのだ。

 どうにかしてほしい。そう思ってひたすら泣いた。


 やがて眼が見えるようになってくると、私は周りの状況に少々困惑していた。


 目に入る人たちはいずれも着物のような衣装を身に着けていて、とても古風に感じた。


 私は確かに生まれ変わったように思ったのだが、生まれ変わりとは、死んだあとの世界に行くのではないのか?


 この世界はどう見ても死んだ後の世界とは思えなかった。

 それどころか、ずいぶん昔…まだ科学のカの字もないような時代に生まれてしまったようだった。


 生まれ出る時を間違ってしまったのだろうか…。


 私はとてつもなく不安になった。


 ルイが居なかったらどうしよう。


 ルイが居ないのであれば彼の記憶を持ったまま再び人生を送る意味はまるでない。


 そうして私が赤子の思考の中を漂っているうちに、数ヶ月が過ぎた。

 最初は解らなかった言葉もだいぶ理解できるようになった。


 ここの人たちが話す言葉は、どうやら自分が知る言語ではないような気がした。


 …日本ではないのかな?


 そして、私は、自分の股の間にちんちんがついていることを発見した。


 薄々感づいてはいたのだが、私は男として生を受けていた。


 大人たちは私のこと “しーちゃま” と呼んでいた。


 私は裕福な家に生まれたようだった。

 乳母のような者が普段は私の世話をし、本当の母親は時々やってきた。


 時々しか来ないのだが、母は母だとわかるので不思議だった。


 この家は学問を重んじる家系のようで、私は幼少期から勉学に励むようにしつけられた。


 字を覚えると、自分の名が “志摩しま” であることが判明した。

 これは偶然か必然か…。


 私は志摩の若様と呼ばれる立場であるらしかった。


 この世界での学問はまるで風水か占いのような非科学的なものだった。

 この世界は「地」「水」「火」「風」「空」「闇」の六元素から成り、この性質を正確に把握することで天地が安泰すると考えられているようだった。

 それぞれの元素には最もらしい神話が付属していた。


 このフィフス・エレメント的なものは何だか聞いたことがあったが、それに「闇」なんて含まれていただろうか? と私は常に引っかかっていた。


 「闇」という言葉の響きが私を不安にさせていた。


 なぜなら、私をここへ連れてきたのは確実にヤミだからである。

 私の魂が昇天しようとしたその時、“イカセナイ” と言ったのはヤミだった。


 さらに私を不安にさせるのは「闇」に付属している神話だった。

 「闇」の神話は私にとって暗示的で大変に不気味なものだった。


 むかしむかし。夜の番人と呼ばれる恐ろしい神様がいた。

 その神様は夜を司る存在で、夜の邪悪さと静寂を担う神だった。


 夜の番人はこの世の第六の元素「闇」を生み出した。

 「闇」は混沌から黄泉の世界を生成した。


 夜の番人は盲だった。それは古の呪いだった。

 呪いは夜の番人に不死の試練を与えた。


 永遠に滅びない肉体を持ち、果てしない時の中を夜の番人は今もまだ彷徨っている。


 そして、夜の番人がその目を開くとき、世界が滅びると言われていた。


 この物語はどうしても私にあの黒い女とヤミを連想させた。

 あの女は夜の番人だったのだろうか。


 では、なぜ私たちの前に現われた?

 私たちに何をさせたいのだ?


 ヤミは彼女の目を治したがっていたではないか。


 私はこの非科学的な世界観を嫌悪するようになった。


 自分自身が体験した説明のつかない現象ですら、私は霊的な解釈で片付けるのを拒んだ。

 何か理由があるはずなのだ。私が納得できるような明確な理由が。


 私は前世の記憶もふんだんに使って学問に挑み、やがて神童と呼ばれるまでになった。


 だが神扱いはそう長くは続かなかった。

 郷に従えない元は孤立する。


 私はこの世界の学問をないがしろにし、化学的な考えを人々に話してまわった。

 この世界の人々、とりわけ身分の高い人たちほど、科学的な話を忌み嫌った。


 それで私はすっかり変人扱いされるようになったのだが、構わなかった。

 迷信深い祖母とは絶縁状態になり、父母もめったに私に会いに来てくれなくなったが、衣食住だけは保証してもらえた。

 だから私は孤独であったが自由だった。


 ルイを見つけることだけが私にとって重要なこととなって行った。

 だが、ルイは一向に私の前には現れなかった。


 やがて十五歳になるとこの世界では成人として扱われるようになり、私には同世代の男子が世話役として配属された。


 望月という名の者で、彼には左腕がなかった。

 どことなく見覚えのあるような気がしたが、誰なのかは思い出せなかった。

 ルイではないことだけは確かだった。ルイはこんなにまじめではない。


 この世界では身体の形状に異常や欠損があると、一方的に呪いだと決めつけられる傾向にあった。

 望月はそう言った差別的な中で育ちながらも腐らず、誠実で柔軟、強靭な心を持った男だった。


 異端には異端を、という単純な発想で家の者たちは望月を私にあてがったつもりだろうけれど、私はこれには運命的なものを感じていた。


 ここでもし、私を更生させようと頭の固い世話役が付けられていたら、私は気が狂っていたかもしれない。

 私は望月には常に感謝の意を伝えるように心掛けた。


 そんな私を望月も慕ってくれるようになった。


 望月は常に私の傍にいて、どこへでも同行した。


 ある程度仕事を任され、自由に出歩けるようになると、私は方々ルイを探してまわった。

 私の家系は代々各地の人口調査を行っている一族だったので、仕事のついでに人々に話を聞くことができた。


 十代も後半になってくると、変人の私には遠方の調査ばかりが命じられるようになった。

 都から離れれば離れるほど卑しい者たちが暮らしていると家の者たちは思っていたので、誰も遠くには行きたがらないのだ。


 望月は私ばかり不公平だと怒っているようだったが、広範囲の噂話を聞くことができて私には都合がよかった。


 …ルイは必ずいる。


 私は自分にそう言い聞かせていた。


 だが、どうやって探す? ルイに前世の記憶がなかったら探しようがない。


 私はとにかく、人口の調査と称して各地の一軒一軒を見てまわり、ルイと思われる人を探し続けた。


 そんなある日、とある農村を訪れた時のことである。


 村人たちが大騒ぎをしているので何事かと聞いてみると、何でも隣の村にいつのまにか住みついていた浮浪児が、不作の続いた田畑をたちまち回復させて見事に豊作へと導いたのだという。


「うちの村にもそいつを連れて来て立て直してもらおうかと相談していたところです」


 村人たちは自分の畑を見渡しながら口々に言った。


 話を聞く限りではルイと関係がありそうには思えなかったが、念のためにその浮浪児の様子を見に行くことにした。

 望月は何も言わずについて来てくれた。


 隣の村に行くと、ちょうど例の浮浪児が村人たちに肥料の作り方を説明しているところだった。

 見た感じ、十歳くらいに見えた。

 薄汚れていて髪の毛はぼさぼさ。まるで捨てられた犬のような子供だった。


 離れた場所から観察していると、その子供はこの世界の人々が知らない知識を持っているように見えた。


 まじないばかりしている人々に対して、糞尿で肥料を作る方法を教えているようだった。

 ここら辺の人たちはそれほど信心深いことはないようで、子供の言うことを素直に聞いて実践している様子だった。


 村人たちの邪魔をしたくなかったので、私は近くの木の下に腰を下ろし、子供がせっせと働く様子を見ていた。


 そしてふと思い出した。


 …ルイの実家は農家だった。


 あれは…ルイなのか?


 子供が働いている姿を見ながら私は期待に胸を膨らませた。

 しかし、なぜ彼は子供なのだろうか。私が落っことしたからか?


 私は何と言って彼に声をかけようかと考えを巡らせた。

 私が男だとわかったら何と思うだろうか。


 いや、そもそもルイじゃなかったらどうしよう…。


 数時間のち、やっと子供は村人たちから解放された様子だった。

 私はゆっくりと子供の方へと歩いて行った。


 子供は私に気が付くと警戒したようにこちらを睨みつけた。

 それが子供のころのルイとそっくりで私は思わず笑ってしまった。


「何だあんた。何で笑ってるんだ?」


 薄汚い子供だった。望月が無礼をたしなめようとしたが、私はそれを止めた。


「私はこの辺りの人口の調査をしている者だ。君がこの辺の田畑を回復させたと聞いてね」


「そうだよ。こいつら何にも知らないからさ、黙って見てらんなくて」


「君は、その知識をどこで知ったんだい?」


「企業秘密だよ」


 …企業秘密…。私はその言葉を聞き逃さなかった。

 この世界にはない言葉だ。


 私はますます確信した。この子は確実にルイだ。


「…少しいろいろと聞きたいことがあるんだが、私と一緒に都に来てくれないか?」


「俺? 嫌だよ」


 私はルイの前にかがみこむと、囁くように彼の名を呼んだ。


「ルイ?」


 ルイはきょとんとした表情をしていたが、やがてその目がみるみる見開かれた。


「お前、ルイじゃないのか?」


 もう一度私が名を呼ぶと子供は胸のあたりをぎゅっと掴んで一歩後ろに下がった。

 そして恐る恐る私の名を呼んだ。


「シマ…なの?」


 私は頷いた。


「男なの? なんで男? しかも大人?」


 ルイは立て続けに質問してきた。それはどちらも私には答えられない問だった。


「さあ…なんでだろう」


 私は言いながらルイを抱き上げた。

 ルイは私の首に腕を回し、ギュッとしがみついてきた。


「一緒に来るでしょう?」


 ルイは私の腕の中で何度も頷いていた。


 屋敷に帰ると私が汚い子供を連れ帰ったと一時騒然となった。

 私は有無を言わせぬ態度で、家の者にルイを清潔にするよう頼んだ。


 その後、私が食事の指示をしていると、望月がそっと寄って来て「あの子供、女子おなごでした」と告げた。


 …女の子…!! ルイは女の子か!!!


 自分でもどう処理してよいのか解らない感情が溢れ出た。

 いや、ルイが男でも女でもどちらでも構わないと思っていたが、女の子のルイとは何とも魅惑的な響きに思えてしまった。


 望月は私のそんな様子を不思議そうに見ていた。

 私は彼には少し説明してやらないとなと思った。


「なあ、望月。私があの子を連れて帰ったことを正直、どう思っている?」


 望月は少し考えてからこう言った。


「正直…驚きましたが、若様がどなたかを探されていたのは知っていました。あの子がそうなんですね?」


 私は頷いた。


「それならば、見つけることができて私も嬉しいです」


 その言葉を聞いて私はますます望月が好きになった。

 望月には言い訳も説明もいらない。私のことを信じてくれる。


 私は感謝の意を込めて彼の肩を叩いた。


 ルイが戻って来た。

 男の子用の着物を着ていたが人形のように可愛らしかった。


 ルイはだいぶ恥ずかしそうにしていた。


「男物がいいって言ったら用意してくれたんだ」


 もじもじしながらルイが言った。自分が女であることが私に知れたとわかっているのだ。

 その様子がいじらしく愛おしかった。


「いいよ。着たいものを着て」


 私はできるかぎりそっけなく言った。

 こんなに自分が激しく萌えていることをルイに悟られたくないと思った。


 ルイは「うん」と頷くと少し安心したようだった。


 食事が運ばれて来た。

 普段は私のことなど気にも留めないような者たちが好奇心から何度も部屋を覗きに来るので落ち着かなかった。


 食事をしながらルイにこれまでのことを話してもらおうと思ったので、私は望月にだけ同席を許し、後の者は一切立入禁止とした。


 望月が我々の話を聞いてどう思うかはわからないが、彼には聞いていてほしいと思ったのだ。


 ルイが話すところによると、やはり光のトンネルのようなものを通ってこの世界に来た記憶があるようだった。


 彼女も自分がルイである記憶を保持したままこの世界に生を受け、自分は生まれ変わったのだと最初から分かったらしい。


 ただ、前世の記憶は後半ぼんやりしててよく思い出せないところがある様子だった。

 特に認知症が進行しはじめてからの記憶がだいぶ怪しかった。


 介護施設での再会をルイに伝えるべきか私は迷った。

 もう少しルイの状況を知った方がよいかもしれない…と私は考えルイに話しを続けさせた。


 この世界に生まれてからは、最初は母親のような存在がいたのだが、物心つくころには独りになってしまったらしい。


 自分が女に生まれたことは不思議とすんなり受け入れたとルイは笑った。


 ルイは何となく私も一緒に生まれ変わったと感覚的に知っていたが、確信はなかったそうだ。


「そしたら急にシマが現われてさ。こんなイケメン若様になってるとはね。やっぱり前世の行いがいいからかな」


 ルイはそう言いながら私の顔を何度も盗み見ていた。


「私だとよく分かったね」


「名前呼ばれてすぐわかったよ」


 ルイは恥ずかしそうにすると、それを誤魔化すために食事を掻き込んだ。


 我々はこの世界についてお互いの見解を述べ合った。

 どうやらここは自分たちがいた世界の未来でも過去でもないらしい、ということで意見が一致した。


「そんなに単純なことではない気がする」


「うん、日本ぽいけど日本じゃない。でも人間は人間だし、歴はおそらく太陰暦だ。動物や植物も見慣れたものばかりで、全くの別世界とも言い切れない…」


 ルイが実に的を射た見解を述べた。

 私は感心しながらそれに賛同した。


「そうなのだ。言葉や文化だけ馴染みがない…いつの時代のどの国なのかまるでわからんのだ」


 すると急にルイが何か面白がっているような表情でこちらを見てきた。


「何? どうかした?」


「シマ、お前、すっかり若様みたいな喋り方するのな」


 からかうように笑いながらルイが言った。

 私は急に恥ずかしくなってしまった。


「それは…もう何年も若様やってりゃなるでしょうよ…」


 ルイはうふふふと笑った。

 こういうところが、かつてのルイとまるで変っていなくて私は呆れてしまった。

 こいつは生まれ変わるくらいでは人格が変わらないのか…。


 望月はこのやり取りを表情ひとつ変えずに傍らで聞いていた。


「まあ、それはさておき、これで俺は確信したよ。ここは古代極東の雰囲気に似ているけど、日本でも韓国でも中国でもない。パラレルワールドって言うのかな? ここは俺たちの知らない世界だ」


 ルイはそう言い切った。

 浮浪児という立場でありながら、ルイはルイなりにこの世界のことをいろいろ調べていたようだ。

 たくましい。


「なあシマ、なんで俺たちはこんなことになったんだ?」


「…わからないけど…でも、ヤミが関係してるんだろうね…」


「え? ヤミ?」


 ルイは意外そうな表情をした。


 私はうっかりしていた。ルイには介護施設での記憶はないのだった。

 ルイの精神は思った以上にしっかりしている。我々の最期のことを話しても差し支えないだろう、と私は判断した。


「実はね、ルイ。私はお前を看取っているんだよ」


 これにはルイは目を見開いて驚いた。


「私たちは介護施設で再会したんだ。いわゆる老人ホーム。ルイはもう自分が誰なのか解らない状態になってたけどね。これ偶然だと思う?」


「いや、思わないね」


 それで私はルイの最期の時にヤミが現れたことを語った。


「そうか、ヤミか…。あの山で奇声を発して逃げたのを見てからは一度も見てない、はずだ。で、ヤミはその時も若いままだったの?」


「ああ、そうだよ」


 そう言いながら私は自分でもぞっとしてしまった。

 ヤミとはいったい何者なのだ。


 私たちに何をさせたいのだ?


 あの目がつぶれた黒い女に関わることだろうか。

 普通に考えてそうとしか思えなかった。


「ねえ、ルイ。あの黒い女のことも覚えてる? あの後会わなかった?」


 それを聞くと、ルイは少し強張った顔をした。

 それからルイは「会っていない」と言った。


 何となく、私はそれは嘘だと思った。

 だけれども気が付かないフリをした。


 私は気が付かないフリをしてしまったのだ。


「俺たちはここで何をしたらいい? ヤミを探す?」


 ルイは少しイラついたように言った。


 ヤミを探す? 私はそれにはどうも賛同できなかった。

 ヤミはほっといても向こうから姿を現わすような気がしていた。


 この人生では、私はルイとの時間を何より最優先に大切にしたいと思い始めていた。


 ルイと共に生きる人生とはどんなものだったのか。

 前世で知ることのできなかった、たった一つの心残りを今生で叶えずにどうしろと言うのだ。


「まあ、焦らず考えよう。何か意味があるのなら運命はきっと向こうからやってくる。私はいま、ルイ、お前と共に過ごす時間を大切にしたい」


 それを聞くとルイは声を出して泣いた。よっぽど嬉しかったのだろう。


 話疲れたルイが眠ってしまうと、私は望月を庭に呼び出して、先ほどの話をどう思うか聞いてみた。


「お二人は生まれる前の話をしてました?」


「そうだ」


「私の故郷には生まれ変わりを信じる風習があります。私はお二人のお話を信じます」


「そうか、それならよかった」


 私は望月に感謝した。


 それからしばらくは何事もなく日々が続いた。

 親族がいろいろうるさかったので、ルイは私の養子として迎えた。


 普段ルイは男装をして過ごしていたが、身も心も完全に男というわけでもないようだった。


 肉体と精神は女として生き、魂の一部に男があるのだ…とルイは言った。

 その複雑な心情は私にもよくわかった。私もまた同じような状態だったのだ。


 ルイは私の現地調査の仕事にも同行するようになった。


 望月にもよく懐き、二人はいつも楽しそうだった。


 ルイは各所で農業の知恵を惜しげもなく人々に伝え、やがて神格化されていった。

 豊作の神がルイを遣わせたのだと人々は信じるようになった。


 一方で、古臭い迷信を信じる者たちはルイの技術を嫌い、汚らわしいとさえ思っているようだった。

 嫌味を言ってくる者もたまにいたが、その度にルイが「うるせぇ、呪うぞ」などとののしるものだから、誰も寄って来なくなった。


 私と望月に「そういうことを言うな」とたしなめられても、ルイは鼻息を荒くする一方で、彼女はまるで態度を変えようとはしなかった。

 ルイとはそういう奴なのだ。


「農業がうまくいけば国が安泰する。俺は俺のやり方でやらせてもらう」


 誰に頼まれたわけでもないのに、ルイは必死でこの地の人々に農業を説いて回った。


 ルイは困っている人たちがいれば、単独で対応にでかけることも増えて行った。

 遠方の人たちほどルイを頼って助けを求めてきた。


 彼女は忙しくなり今までのように行動を共にすることも減って行った。


 そんな生活が続いたある満月の夜。


 久しぶりに仕事が夜までかかり家に戻ると、珍しくルイが女物の着物を着て寝屋で待っていた。


 その美しさに私は息を飲んだ。

 いや、普段から気がついてはいたのだ。


 ルイは美しかった。


「どうしたんだ。珍しいな」


 私は心情を悟られないようにできるかぎりそっけなく言った。

 ルイは、かしこまったように正座をすると真っ直ぐに私の方を見て話しはじめた。


「ここの使用人みたいな人に言われたんだけど。身分の卑しい俺はシマの家族になる資格はないって…」


「誰がそんなこと?」


「誰が…というのはまあ、置いといて。この世界ではそういうことを気にする奴がいるってこと」


「私は気にしてない」


「わかってるよ。あと、望月に相談したら、望月も関係ないって言ってくれた」


「そうか…」


 …望月、グッジョブ!!!


「そんで、さ、俺…自分がどこで生まれて何歳なのかもわからけど…その、とりあえず、女として大人になったみたい…ってことを言っておこうと思って」


 私は急な話の方向転換に、どう反応するのが正解なのか分からず「お、おう…」というバカみたいな返事をしてしまった。


 すると、ルイは三つ指をついて頭を下げ、勢いをつけてこう言った。


「お、俺を妻にしてください!」


 私は唐突な展開に驚き思わず「えっ」と声に出して言ってしまった。


「俺、今の環境に充分満足してるつもりなんだけど、シマの娘でいるのには自分的にもう無理がある。俺を妻にしてほしい」


 ルイは額を床にこすりつけるようにしながら畳みかけるように言った。

 勢いまかせの告白…。いかにもルイらしい…。


 …いや、時が来たら私から言おうと思っていたのに。またルイに先に言われてしまった。


「ルイは、いつも急に言うよね」


 私は彼女の前にかがみ込みながら言った。


 ルイが顔を上げてこちらを見た。不安そうな顔をしていた。

 前に私がプロポーズを断ったことを思い出しているのかもしれなかった。


 私はそんなルイが愛おしくてたまらなかった。

 その気持ちを伝えたくて、彼女をそっと腕に抱いた。


 ルイは震えていた。


「いいよ。夫婦になろう」


 ルイの吸い込む息の音が耳元で聞こえた。


「いいの?」


「いいよ」


「前は断られたからさ…」


「タイミングの問題だよ。今はほら、もう、私にはルイしかいない…」


 私は言いながら彼女に口づけた。

 それは私たちに遠い遠い世界の体育館倉庫を思い起こさせた。


 前世でいろいろタイミングを逃した分、私たちは溺れるほどに愛し合った。


 性別が入れ替わっていることには、不思議と違和感はなかった。

 もしも同性に生まれていたとしてもそれは変わらなかっただろう。


 やがて、ルイは赤子を身ごもり、激しい嵐の夜に男の子を出産した。


 生まれてきた子の左目の周りには大きなアザがついていた。

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