消えた死体

@yuzo82

第1話


「金がいるなら明朝八時ダムへ来な、飛び込んでやる、だがあんたに念を押しておきたいことがある」と言って電話を切った。

 毎日の執拗な督促に疲れ果て、もうどうでもいい、と捨て鉢になってしまっていた。死ねば保険金で借金を払って、残った家族も当座は生活に困らない、と思うと、死の恐怖もあまり感じなかった。

 それにしても人生なんて一寸先は闇だ、正にその例えを地でいっているとしか思えなかった。何十年もお互い信頼していた人の裏切は夢にも思わなかった。

何時ものように借金の保証人を頼まれ、迷う事もなく連帯保証に判を押した。

ところが数日後突然夜中に電話で友人の借金返済を請求された。

眠りから十分覚めていない、ぼんやりした頭の中で何かぐるぐる回っているのだが、それがどういった事なのかよく理解できなかった。

彼が私を騙す事など考えられなかった。

 受話器を握り直して耳へくっつけるようにして、

「あんた誰に電話しているの」と聞き返すと

「浜中太郎よ、わかっているだろう、あんたが連帯保証人になっている浮田吉哉の借金の事だ」と高圧的な物言いが返ってきた。それでも、言われた事が本当かどうか判然としなかった。自分にはそのような不義理な事が起こるなんて到底考えられなかった。

「何がなんだかわからない」と言って受話器を叩き付けるように置いた。

妻が身を起こして怯えるような目付きで私を見ていた。ただならぬ気配に不安を感じて震えているようだった。友人に蒸発された結果だった。まさかヤクザの紐が付いた高利のお金とは知らなかった。

 それにしても何故逃げたのか理解できなかった。会社が倒産する事は周りの者が考える以上に当事者にプレッシャーを与えるのだろう。夜暗闇の中で逼迫する為替の期日と資金繰り難の不安が塊となって正気の居場所を占領してしまって周りの事など見えなくなってしまったのだ、と自分なりに理由を付けても自分の今の立場は少しも変わらない。連帯責任の重圧からは抜け出せない。

軽い気持ちで友人の話を信じた自分の軽率さ加減を何度も悔やんだけれど、後の祭りだった。

 ついには死んで保険金で始末を付けろ、始末を付けろと居場所もないほど責め立てられた。

 ダムにヤクザ本人を呼び出し、死後に何か不都合が起きれば、自分の遺書を警察に届けて、無理矢理殺された経緯を話す、と釘を刺しておきたかった。

 

 ダムで待っていると子分も連れずに一人でやってきた。

 堰堤の反対側にいる私の方へ、手をポケットに突っ込み少し腰を振るようにしながら歩いてきた。

 車を乗り入れて来ればあっという間の距離だが徒歩だと三、四分かかった。

長く感じた。恐らく自殺に立ち会うのは初めてで、心中穏やかでないのだろう、歩き方がぎこちなく、鈍かった。わたしのいる所に来ると、まじまじと顔を見て、

「本当にやるのか、よし見届けてやる」と言った。

「では、踏ん切りを付けるために後ろから押してくれ」

「それはないだろう、押すと俺がお前を殺したことになる、出来ない」

「押してくれないと 飛び込めない、金が欲しいのだろう、思い切って背中を押せ」と押し問答になった。

 すこし考え込んでいたが

「よし どうでもいい、行くぞ」と後ろへ下がって勢いを付けて私を目がけて走り出した。その瞬間死の恐怖が全身を揺さぶり思わず息を止め、拳を握りしめ両足を踏ん張った。

 死にたくはなかった。

「待って!」の声をあげる間もなく背中で足音がした。

おもわず目を閉じた。しかし人影は私の直ぐ脇を揺らぎながら過ぎて、真すぐ虚空に浮かんだかと思うとダム湖へ一直線に落ちて湖面に水しぶきを上げた。

 驚いて堰堤から下を覗くと20メートル下の湖面でばたばたとしたかと思うと直ぐに動かなくなった。どうすることも出来ない一瞬の事だった。

 助けを呼ばなくては、と思ったが怖くて出来なかった。恐る恐るもう一度湖面を覗いたが、沈んでしまっていた。

 一目散に堰堤を駆け抜け、止めていた車に飛び乗って、震える手でエンジンをかけアクセルを力一杯踏み込んだ。シートの背もたれに体がドンと当たるのと同時にタイヤをきしませて飛び出し、ひたすら前方をにらんでアクセルを踏み続けていた。頭の中が真っ白で何が起こったのさえ考えられなかった。頭を振って気持ちを落ち着かせようとしても駄目だった。前方にじっと目を凝らして必死でハンドルを握っていた。

 やっと家にたどり着いてドアをたたくと血相を変えた私の顔にただならぬ気配を感じて、目を大きく開けて息を弾ませながら

「おとうさん 一体どうしたの」と家内がきつい調子で尋ねた。 

直ぐには何も言えなかった。

何が起こって、今ここいるのか、ただ心臓が早鐘のように、どくどくと打って、頭の中は真っ白で、黙ってハアハアと息をするばかりだった。

 

 美波怜は久しぶりに日曜のドライブをして部屋で寛ぎながらデジタルカメラをコンピュータにつなぐと、三十余りのデータが瞬時に取り込まれた。

サムネールを見ながら項目毎に簡単なタイトルを付けていく。

 来島大橋一、ニ・・玉川ダム一、二・・と仕分けして、何気なく玉川ダム三をクリックしてしまった。

 それはダムの隅に集まった流木やゴミが写ったもので、どうしてこれを撮ったのか考えて見たが、思い出せなかった。

何かの拍子にシャッターを押してしまったに違いない、と一人合点しながら、もう一度画面をよく見ると、ゴミは浮かんでいても、山からしみ出た水は流石に澄んでいた。だがそよ風に水面が揺らいで水の中は少しぼやけて見えた。

 いつもの癖で、マウスをダブルクリクすると写真はディスプレイ一杯の画面になって水面に顔をくっ付けたように広がった。

すると、湖面から少し沈んだところで白くぼやけた物体が空気を求めてもがいているように見えた。少し操作するとずっと鮮明さがまして、それは不確かな画像だが人間のようで唖然とした。初めての体験だった。

 どうして今まで誰も気付かなかったのだろうか、と考え始めて、少し落ち着きが戻ってくると、何よりも先に警察へ届けなければいけない、これは事件だ、と思った。しかし、「いやいや」、先ずこの写真を本社に送って、判断を仰ぎ、それからのことだ、と思い直していた。 

 気侭な日曜日のドライブにとんだ厄介な事件が飛び込んでしまった。

それにしてもどうしたのだろう。長閑な山間の湖に死体が沈んでいるなんて。

沈んでいると云うことは、一体どれほどの時間が経過しているのだろうか。

自殺だろうか。

それとも殺人事件で、重りを付けて沈められたのだろうか。

いくら画面を見ていてもいっこうに分からない。

もう一度現場へ行ってよく確認して、矢張り警察へ行かなければ、と思って外に出ると日はすっかり落ちてしまっていた。

これでは現場の確認は覚束ない。

日曜日の昼間でも、堰堤を歩いていたのは私一人であった。  

とても夜間に行く勇気は出ない。

これから警察へ行くとしても、もし間違っていて、死体と思ったものが、腕を上にのばしたように見える、歪んだ倒木だったりすると私の面目が立たない。

もう一度明日の朝一番に確認をしなければ、何事も始まらない。きっと本社の判断は現場を再確認しろ、と返答してくるだろう、と想像しながらベッドに寝そべって天井を見ると、もがき苦しみながら、手をくねらせている人の姿が目の前に現われて、眠ることが出来ない。

このまま眠ると水中に引き込まれるのでは、と心配になって、益々目が冴えてしまう。   

 そこへ子供の頃に漁網に掛かって引き揚げられて水上警察横の空き地に敷かれた筵に寝かされていた土左衛門の凄まじい印象がグワット胸に沸き上がって来て眠るどころではない。

 テレビを付けてみても、目と心は別々で落着かない。

開き直って夜の時間は長いと覚悟を決めて、ビールを勢いよく飲みほすと普段の自分が幾分か戻って来た。すると何故かわからないが、新入社員研修の時、第一線の社会部記者が死体は想像を超えた生々しいもので、想像の世界では血も肉も感触を持たないが、現実には血には温もりがあり、粘りがある。肉には弾力がある。そして時間と共に腐敗するものだ。我々はその事実を伝える責任を持っている、と力説した言葉が浮かんできた。

 それにしてもあれは本当に死体なのだろうか。

又堂々巡りが始まった。

時計が三時を打った。

 明かりを消して目を閉じて、静かな寝息のような呼吸をしてみるが寝付けない。それでも空しい暗示を繰り返していた。

すると、がたがたと窓を震わせて風が渡り、ぱらぱらと音がしたかと思うと、急に叩き付けるような雨音に変わり静寂を破った。

いつの間にかその雨音に誘われて深い眠りに落ちていた。

 

「何をしている、早くカメラを持って現場へ行け」と怒鳴る声でハッとして目覚めたが訳が分からない。辺りを見回したが自分の部屋である。又何時もの悪夢だ、と気付いたその時、問題の写真が脳の中一杯に広がって、気持が急き立てられた。

 

外は昨夜の雨が嘘のように明るかった。

しかし直ぐには起き上がらず少しベッドの中に蹲ったままで、今日の動きをどのように始めるのがよいか頭の整理を始めたが上手く行かない。先ず現場に死体があるかどうかを確認し、あればその経過と様子を一度本社に報告して、その後で警察に届けようと一応の順序が出来上がった。

ようやく寝不足でふらつく体を起こして、ベッドから腰をずらしながら床に降りた。

逸る気持と面倒なことになるのではと云った気持が錯綜して、何か何時もの軽快な動きが戻らない。それでも鏡の前に立ってみると、自分に向かって「よし行くぞ」と声が口をついた。 さっと化粧して、必要道具一式を鞄に入れ、外へ出た。

 時間はまだ七時で、駐車場の車は殆ど動いていなかった。

朝は何か清清しかった。

 私は昨日撮った写真は勘違いで、密かに自分一人で笑って幕引きできないものかと念じながら車へ向かった。ドアを開けると一瞬昨日の淀んだ空気が朝の外気と同化した。

 エンジンをかけて淀んだ空気を振払うように走り出した。角を曲がる時体が捩じれて空腹を覚えた。夕べから食事らしいものをとっていなかった。

走りながら早朝モーニングの喫茶店を探した。少し行くとタクシーが三台止まった喫茶店があった。ウインカーを上げて駐車場へ走り込んだ。

喫茶店はテーブル席が五つとカウンターのコンパクトな店で、常連客の溜まり場なのかタクシーの運転手が一つのテーブル席へ陣取って、昨晩の売上やお客の少なさを愚痴っていた。

 聞くとも無く聞いていると「×××の旦那が一週間以上も行方不明になっているらしい。」と話すのが聞こえ、もしかして、と思ったが、そんなことはないと直ぐ打ち消した。話に割り込んで詳しく聞く訳にも行かず、ガラス越しにタクシー会社の名前を控えた。

 少し厚めのトーストと茹で卵とホットコーヒーが運ばれた。朝は熱いコーヒーとトーストがあればそれだけで十分だ。パッチリとした目と少し自慢の脳細胞がようやく目覚めて来た。

 早朝に女一人で入って来た私を不思議そうに、運転手のグループはかわるがわるチラッチラッと見ていた。急いで食べ終えて六百円を支払ってドアに手をかけるとカランカランと音がした。今度は皆が一斉に私を見た。何か場違いさを感じて車へ飛び乗ってキーを回した。ギアをバックに入れ方向を変え、国道へ走り出していた。

 少し行くと家並が途 切れ、川沿いの道になって、窓から入る風は田園の緑の香りに満ちていた。対向する車も疎らで思わずアクセルを踏み込んでいた。

三叉路を右に切ってダムへの直線に出た。少したじろぐようにスピードをダウンさせた。薄気味悪さが漂って来たようで、一人で来たのを後悔し始めていた。

しかしここまで来れば後戻りは出来ない。思い直してアクセルを踏むとダム湖の入口であった。

 左へ曲がり込むと砂利道で雨に抉られた路面の凸凹で車は前後左右に揺れた。ダムの堰堤に辿り着くと昨晩の雨で流れ出た土砂がコンクリートを被い、ブレーキを踏むとズズッと滑って止まった。

 心を決めて車外へ出た。現場はダムの堰堤を渡り切った向こう側の隅である。水面は薄く靄がかかっているようでぼやけていた。鞄とカメラを抱えて、携帯電話を確認して、歩きはじめた。靴音がコンクリートの側壁にコツコツと響いて、心細さを増幅させた。踵をかえして走り出したくなるのを我慢しながら歩いた。

真中まで来て、側壁越しに水面を見ると、昨夜の雨で水嵩が少し増して濁っていた。頑張れと呟きながら叉歩き始めた。向こう岸を見ると誰か人が歩いてこちらへ向かっていた。急げば現場の辺りで会えるのではと、思わず駆け出して、息を弾ませて一気に堰堤を渡り切った。

「お早うございます」

と声を掛けてみたが挨拶を返すと歩を緩めずそのまま行ってしまった。

何故呼び止めて確認する間、少し一緒に居てもらわなかったのか悔やまれたが、それでも恐る恐る側壁越しに下を見ると、水は少し濁ってはいるけれど水中もよく見えた。しかし例の死体が何処にも無い。ゴミや流木は昨日のままであった。

 鞄からプリントアウトした写真を取り出して見比べてみた。写真には確かに人間とおぼしきものが写っている。いや間違い無く人間である。それにしても不思議である。雨で水嵩が増したと云っても、水面のゴミ等は一向に移動した気配が無い。まだ夢の中に居るのではと、頭をふって自分の状態を確かめてみた。

初夏の雨上がりの湿っぽい空気が頬を撫で間違い無く昨日の現場に立っていた。

 気を取り直して堰堤の側壁に沿って首を突出すような格好で少しずつ湖面を確認しながら蟹歩きを始めた。中央部の水門の放水口の前まで来ても何も見当たらない。ゴミの流入を防ぐ防護ネット用のブイが半円状に設置されているが、その周辺部にも何も見当たらない。胸をなで下ろしつつも割り切れ無さが残った。もう一度写真を取り出して見れば、その姿が消えているのではと非現実的な想像を巡らしながら鞄のチャックを開けた。しかし魔法のようなことが起こるはずも無かった。死体とおぼしきものがハッキリと写っていた。気を取り直して叉首を側壁から持ち出すように突出して何も見逃さないように、自信の目を見開きながら右へ右へと蟹歩きを続けた。時折立ち止まって、爪先立ってよく湖面を確認した。遂に渡り切って入口側の隅に来た。

 写真に写っていたようなものは何も発見出来なかった。それでは昨日のあの物体は一体なにだったのか。ほっとしたと同時に割り切れない疑問が大きく広がったが、私一人の判断で行動するのは避けて、先ず帰って一度本社へあの画像を送って、判断を仰ぎ、指示を受けて動くことにしようと決めた。それにしても五里霧中の何もはっきり見え無い中で、かすかにあの死体が揺れ動いているようで釈然としなかった。

 

 本社の反応は早かった。

「直ぐその写真を持って警察へ行け」

とデスクから電話があった。

 昨夜からのことを思い出しながら一応経過をメモって、狭いマンションの仕事場兼用の部屋を出た。


警察はまだまだ男の職場で、女が仕事をするには苦労があった。

 満杯状態の駐車場へ車を突っ込み空きスペースを探して、止めにくい奥の隅へ停めた。車外へ出ると大きく息を吸ってゆっくりと吐いて、覚悟を決めて、背筋を伸ばして歩き始めた。

 階段を駆け上がるように勢いを付けて二階の刑事課の扉を開けた。部屋はがらんとして、窓辺の机に定年間近の古井警部補がいるだけであった。

 何か事件があったのだ、と気付き恐る恐る近付いて

「お早うございます」と挨拶すると驚いたように顔を上げ、

「おお、お前ここで何をしとるか。昨夜の事件を知らんのか。」と怪訝そうに、恐い目を私に向けた。

「警部補、一体何があったのですか」私は鸚鵡返しに尋ねていた。

「上町で殺人事件があって、五十代の男が殺され、女房が行方不明で、車が馬島入り口の誘導路で見つかった。」

と少し動きの遅い私へ、軽蔑の口調だった。私はすっかり勢い込んで来たことも忘れて、頻りに頭を下げながら情報を聞き出そうと必死になった。

 クエッションマークの付いたあの事より、現実の事件が大切であった。

「今大掛かりな女房の捜索活動と亭主の現場検証をしているぞ。急いで行け。」

と背中を突き飛ばすような語気に思わず踵を返しかけたが、それでも漸く踏み止まって、

「一寸見て頂きたいものがあります」と鞄から写真を取り出して、机上に広げた。

「これは何だ。何の写真だ。」

と云いながら老眼鏡を掛け直して写真を手に取った。

「えっ、これは何だ。人間だぞ。何処で撮った。」

矢継ぎ早に質問し、目に近付けたり、離したりして目を細めて老眼のぼけ気味の焦点を調節しながら観察していた。老練の刑事の目にも間違い無く、死体に見えていた。自分の判断と刑事の判断が合致しているのが分かりひと安堵したが、これは難事件の始まりだと思った。

 私は一応写真の経過を報告して、殺人事件の現場検証が続いている上町へと向かった。上町は瀟洒な建物が並ぶ高台の住宅地で殆どがバブル期に建てられたものだった。そこからは街が一望出来、三年前に架かった世界一と云われる三連吊り橋の来島海峡大橋がフルスパンで見えた。目的の家は奥まった一角にあった。

 警察の車が沢山止まって、人が右往左往しているにも拘らず野次馬が居ない。付近の人は仕事に出かけたのか、それとも関わりを恐れて家の中から密かに覗いているのか姿が見えず不思議だった。それでも聞き込みをして近所の人の評判を確認しておかないと、報告が出来ない。

 先ず行動の精神で、右隣の家のベルを押した。すると意外にも直ぐ応答があった。

私は自分の身分と用件をインターホンに口をくっ付けるような姿勢で話し終えて背を伸ばすと、突然ドアが開いて、

「どうぞお入りなさい。お役に立つかどうか分かりませんが」と銀髪の和服を着た六十過ぎの品の良い婦人が立っていた。私は戸惑いながら招じられるままにサッと玄関へ入った。

 床は小叩きの御影石で、上がり框もずっしりと構えた確りした造りであった。云われるままに靴を脱ぎ、欅の廊下を通って応接室へ入った。畳敷きの上にジュータンを敷き、自然木のテーブルと木製の椅子が整然と並べられていた。私の部屋とは違って全くの異次元空間であった。

生活臭が無かった。

「こちらへどうぞ。」と庭に面した廻り廊下に置かれた椅子に案内された。

 そこからは庭を隔てて殺人事件の起きた家が手にとるように見えた。

もしかして、ここに座って居て、事件の様子を知って居るのでは、と考えたが、庭を隔てた他所の家の中が見える訳が無い。自分の小さなマンションでも隣で何をしているのかなど全然分からない。まして十メートル以上も離れた、大きな造りの家の中の出来事を窺い知るなど不可能だ。

「何かおかしなことでも有りますか。」と私の様子を見て訝るように話し掛けた。

「いいえ、ここからですと余りにもお隣がつぶさに見通せるので、奥様は事件を目撃されたのではないかと有らぬ想像をしてしまいました。絶対にそのようなことはあり得ませんのに。」

「そうね、そのようなことは千里眼でも有りませんから無理でしょう、それでも想像は出来ますのよ」

「想像ってどう云ったことでしょうか」私は疑問を投げかけた、すると笑みを含んだ声で

「そうね、ビデオを編集するように毎日の断片を関係付けながら順々につないで行って、一つのまとまったストーリーが生まれるようなものでしょうか」と目を私から離して、隣の方を見るとも無く見て呟くように云った。

又してもダムの写真のような実体のないものに足を踏み入れたようで、好奇心の高まりと共に焦りを感じた。しかし、話を聞いてみなければ、それが虚構のものかどうかは分からない。最初から想像だと云っているのだからその心積もりで聞けばいい、と自分なりに納得した。

「そう、お隣は二年前にここへ引っ越して来られたの、それまではお年寄りの御夫婦が住んでおられて、私も度々お伺いしてお茶を頂いたり、またこちらでお食事会をしたりと楽しい行き来が有りましたの、ところが三年前に御主人が庭木の手入れをしていて、脚立から落ちて庭石に頭をぶつけて二日程で亡くなったの、御主人に頼りきりだった奥様はその日を境にご自分を見失って、全くの廃人なってしまい、遠くにいるお子さんはどうする事も出来ず、家を売って、お母さんを病院へ入れてしまったのです」

昔のことではなく、今住んでいる方の様子をお聞きしたいのですが、と口にでかかった言葉をぐっとかみ殺して、機嫌を損なわないように相槌をうって、

「ところで現在のお隣付き合いは如何なのですか」と問いかけてみた。

「全くおつき合い有りません。お引越の時も挨拶は有りません、それでも私は先様のことはよく存じ上げておりますの」

辻褄の合わないことを云われて、怪訝そうに首を捻る私に

「亡くなった御主人は不動産会社の経理担当で、一億円の不正経理の責任をとって辞職した人なの、でもバブル期に不動産取引の土地転がしで一山当ててその取引物件だったお隣を、自宅として使っていたらしいのです」

 理由がわかれば付き合いの無さも納得がいった。しかし過去のことをいくら知っていても、昨晩の事件の情景を言い当てることなど不可能だ。「ところで奥様は事件の様子をどのようにお考えでしょうか、宜しければ詳しくお話いただけないでしょうか」と事件の本質に迫ってみた。すると間髪を入れず返辞が帰って来た。

「そうですね。肝心のお話はそのことですものね。」と云って、少し口を狭めて大きく空気を吸って、呼吸を整え、考えを一点に集中して語りはじめた。

「八月の熱帯夜に、クーラー嫌いの私は寝付かれず、三時頃真っ暗がりの中でこの椅子に腰をおろして、網戸越しに微かに動く外気の戦ぎを待っていましたの、すると、何かがどんと倒れ込むような音がしてハッとして顔を上げると、女の人の甲高い笑い声がして、その後は静けさだけの暑い夜でした。音の所在は明かりの位置からするとお隣の台所だったと思います。真夜中に本当に何があったのか不思議でした。明け方になって眠り込んでしまったのか、目が覚めると九時を過ぎていて、翌朝のお隣の様子は分かりませんでした。そのようなことがあって、一寸お隣に興味を持つようになりました。何か覗きをしているようで悪いことかも分かりませんが、夜中に目が覚めたりしますと、お隣の明かりが気掛かりで窓から覗くとも無く見るようになっていました。

 秋になって、まだ宵の口の八時頃でした。車が止まって、ガレージへ入れる音がしたかと思うと、女の人の甲高い声に続いてものの倒れる音がしました。玄関だと思いました。その時もそれだけでした。それにしましても、奥さんが外へ出て庭のお掃除をしているのも、お洗濯物を干しているのも、まして外出されているのも見たことが有りません。本当に変わったおうちです。」

 すこし目を細めて何かを思い出すような仕種をして、体をずらして、

「まだ何のことだかお分かりにはなりませんでよう」

と云って、少し上向き加減の表情で話しはじめた。

「寒くなりかけた初冬の新月の晩でした。お便所に起きて、ベッドから起き上がった時でした。そう、私の寝室は二階のお隣側の庭に面した所です。するとお隣の二階のお部屋に薄明かりがついていて、人影の動くのが見えました。一つの影がダイビングするようにもう一つの影を目指して飛びかかるのが分かりました。女の方が男の方に襲い掛かったのだと思いました。これはあくまでも私の直感ですが、男女の力関係が逆転しているのではないでしょうか。不思議なことですが。私が申し上げられるのはこれくらいです。そのことと殺人の関係は分かりません。」

 私は殺人の様子が想像ではあっても実際に現場に居たように生々しく語られるのでは、と内心思っていたが、それは控えめな、いたって常識的なものであった。しかし一点、男女の力関係の逆転と云う呟きめいた言葉に興味を持った。

 

 礼を述べて外に出ると捜査も一段落して引き上げる準備を始めていた。顔見知りの捜査員に死因を尋ねると、後頭部の脳挫傷だろうと答えてくれた。それ以上の詳しいことは課長の記者会見で確認するようにとのことであった。

 

 記者会見まで二時間程時間があった。

 私は躊躇なく大橋の捜索現場の方へ向かった。

 そこでは又新しい騒ぎが持ち上がっていた。

海陸の大掛かりな体制にも拘らず捜索対象の女性は発見出来ず、別の男性の漂着死体を来島大橋の中程に有る馬島の橋脚付近で発見していた。

 私の脳裏にダム湖の水死体が浮かんで、立ちすくんだ。もしかすると二日間に三つの死体に出会うかも知れない。

 何かやりきれない気持に寝不足が合わさって急に疲労感が襲って来た。

だがそんな弱音は云っておれない。この取材は今始まったばかりだ。

 思い直して捜索活動が続く海辺の方へ滑らないように足腰に力を入れて、少しずつ下っていった。砂浜に降り立つとスニーカーが砂に減り込んだ。水際に近付くにつれて砂が引き締まって、表面に靴跡がハッキリとハンで押したように残った。しかし一面捜索隊員の大きな足跡が幾重にも踏み重なっていて捜索の度合いが推し量られた。

 幾度となくこの波打ち際を大勢の捜索員が彼女を探して、蒸し暑さの中を行き来していた。海上六十メートルの橋上から渦巻く流れへ飛び込んだとすれば、海峡の潮の流れの具合からどこか深みへ引き込まれてずっと遠くへ流されてしまったのかも知れない。ここは日本三大潮流の一つで、干満が始まると十三ノットの速さで島と島の間を潮がごーと音をなして流れる日本屈指の海の難所である。渦に巻き込まれてしまえば発見は困難だ。それでも発見しようと懸命の捜索は海上でも続いていた。

 一日に千隻をこえる数の船が休み無く行き交う海上での捜索は、夏の暑さも加わって限界を超えつつあった。島に沿って隈無く廻り、そして船の行き来を見計らって水道の本線辺りを探し、大橋の橋脚の周囲を巡っていた。

 時間と労力にも拘らずこの大掛かりな捜索は結果を出せずに終わりそうな雲行きであった。しかし今日発見出来なければ、まだ数日続く予定だ。

 

 急遽つくられた講堂の記者会見場には新聞社、テレビ局など報道各社が勢揃いしていた。少し緊張した署長と刑事課長が時計を見て、メモをさっと確認して顔を上げると一斉にフラッシュが光って一瞬たじろいだが、課長がやや伏し目かちに口を開いた。

 「それでは赤目竜二殺人事件と馬島の漂着死体に付いて現在分かっていることを発表致します。赤目邸の現場検証では死因は後頭部の挫傷、凶器の確定は出来ておりません。室内の様子に付きましても強盗等の侵入によるとは考えられません。奥さんが行方不明になっており、自家用車が馬島入り口付近で発見されておりますので、何か夫婦間のトラブルがあったのではと考えております。

そして奥さんの自殺の可能性が有りますので現地での捜索を行ないましたが、関連のものは発見に至っておりません。本件に付きましてはこれからと云ったところです。次に馬島での漂着死体ですが今のところ三十才代の男性といったことしか分かっておりません。解剖をして死因を確認致します。以上です。何かご質問が有ればどうぞ」

 現段階では何も分かっていないので誰も質問をしなかった。私は赤目邸の隣でいろいろと聞いていたので、自分一人が何かを掴んでいるような少し優越感を抱いていた。しかしそれが解決の糸口だとも思えなかった。

末席に座っていた古井警部補に目をやると、ちらっと私の方を見て、あの件はまだまだと云った風に目配せしたようだった。だが今月一杯で定年退職することを考えるとあの件は一体何処へ行くのだろうかと不安になった。このまま不問にふされてしまうのでは無いだろうか。このように事件が立て込んでくると古井警部補も退職を控えて不確定な事件を皆の前に出し辛い心境になってしまっているに違い無かった。私にしても今外の方にもう一度あの写真を見せて相談を持ちかける訳にも行かない。またしてもジレンマが頭をもたげて心が重かった。

 

 記者会見が終わって外に出ると初夏の日も暮れかかっていた。

とにかく今日発表になったことを記事にまとめて車内からメールを入れた。

すると間髪を入れずデスクから顔写真は無いのか、と雷の電話が返って来た。

何故取材の基本を忘れていたのか分らなかったが、思わず車を出していた。

走り出して、先ず同業者に当たることにして不動産業の看板を目標に闇雲に走っていた。少し走ってから思い直してスーパーの駐車場に車を入れて止まった。携帯を取り出して案内から今治地方の不動産情報を開いた。最初に掲載されている愛不動産に電話を入れて事情を話し面談をお願いして又走り出した。

 愛不動産に着くと営業を終わったのか表のシャッターは下りていたが、私を待って人が入れるほど開いていて、中の明かりがもれていた。押し上げて屈むようにして店内へ入ると五十絡みの余り風采の上がらない男の人が一番奥の机に座っていた。

「先程御電話しました毎朝新聞の高林と申しますが」

と名刺を差し出すと

「どうぞ、どうぞ」

と入口の応接に案内され、私は云われるままにソファーに腰を下ろした。店主はさも興味ありげに身を乗り出すようにして

「ところで、どのようなことを知りたいのですか」

「そうですね、先ず第一番には赤目さんの写った写真をお持ちで無いでしょうか、明日の朝刊に載せたいのですが」店主は少し考えて、

「そうですね、先月の業界の慰安旅行の集合写真で良ければありますよ、見てみますか」

と云って後ろの書類庫を開けて書類の間を探しはじめたが、その乱雑さに、見当たらないのではと少し不安になりかけた時

「これこれ」と云いながら一枚の写真を差し出した。沢山の人が写っていたが、専門家の撮った写真なのでこれならいけると思った。

 写真が手に入ると、明日もう一度改めて詳しくお話を聞きに伺いたいとお願いしてそそくさと席を立っていた。御主人は何か呆気にとられたように頷いた。

再び背を屈めてシャッターをくぐって表へ出て、背筋を伸ばして歩き出そうとして、ハッと気が付いた。肝心の赤目さんはどの人だろう。今度はシャッターをぐっと押し上げて、勢い良く店内へ入ると御主人が驚いたように顔を上げて、

「一体どうしました」と怪訝そうに大きな声を上げた。

「申し訳有りません。私赤目さんがどの方か知らないのですが、教えて頂けますか。」

「なんだ、そうでしょう。私も可笑しいとは思っていましたよ。」

写真を差し出すと

「この真中の恰幅のよい方ですよ」

と指差してくれた。照れ笑いをしながら頭を下げて、明日お伺いする旨お願いして、急ぎ通信部へ車を走らせていた。走りながら時計を見ると締切り時間が迫っていた。それにしても被害者の写真は自分が描いていたイメージとは大きく違って、実に温厚そうで、殺人事件に遭遇するなど思いもよらないと云った風貌の人物だった。 

 あの家の中の毎日の暮らしは一体どのようなものだったのだろうか。隣人の話から推し量ると何か外からは窺い知れないことがあったように思えてならない。その闇は何だろうと悩んでいる内に到着した。急ぎ写真をスキャンして赤目氏を切り取って、直ぐ本社で処理できるように加工したデータを送ってしまうと疲れがどっと出た。

 一先ず熱いシャワーを浴びて、バスタオルで汗を拭きながら冷蔵庫を開けたが食べられそうなものは何もなかった。空腹から疲労が増幅して、体が揺れるような錯覚を覚えた。今夜は腹を空かせたまま食事をせずには寝むれそうもなかった。食事、食事と呟きながら簡単に化粧をして夜の街へ出た。

 それにしても不景気の波を諸に被っている街にしては賑わっていた。

 人が居ることで安堵感があった。行きつけの焼鳥屋ののれんをくぐると肉の焼ける匂いが鼻から胃袋へ飛び込んで思わず生唾を飲み込んでいた。

何時もであれば猪突猛進型の私さえもたじろがせるタバコと男と酒と焼鳥の混ざりあった妙な匂いと喧噪が、不思議と気にならなかった。カウンターの一つ空いた席へ両側の人を左右に押しやるようにして割り込んで座った。

「生と皮を下さい」

言い終わって自分の声の大きさに一寸恥ずかしかった。

飲んで食べて話している男達は人のことなど我不関焉でホッとした。

「へい、どうぞ」とビールが目の前に突出されるとぐいっと一気に飲んでいた。空腹のせいで咽を越えると酔いが全身に廻るような感じがした。それでも

「生をもう一杯、それとお任せで適当に出して下さい」

と少し声を落として注文した。今度は皮と一緒にビールが来て、歯応えの有る皮を奥歯で噛み締めながら飲むと格別の味がした。日本一の焼鳥の街の呼称通り一味違っていた。一通り食べ終えると今度は酔いと疲れが合わさって眠気が襲いはじめたが、聞くともなく聞いていると店内の話題はもっぱら赤目氏の殺害の話であった。狭い街だから仕方のないことだとは思っても、皆いろいろな噂をよく知っていた。恰も隣の人のことのように話していた。他所ものの自分には不思議でならなかった。しかしあのように微に入り細にわたって話しているにもかかわらず、殺人の動機や犯人の推理の会話は全く聞こえてこなかった。恐らく外からは見えない複雑な要素の絡まった深みから思わず吹き上がって水面に顔を出した闇に違いなかった。顔写真を頭に浮かべて色々イメージしてみても、笑顔のいい感じの人で、殺人の被害者になるような人には見えなかった。店は鳥の焼ける煙と匂いと酒とビールと男達の饒舌が混ざり合って寝不足の頭をぼやかせて、眠気が瞼を引っ張るのでそれを追い払うように、

「肝とタマネギと皮とビール」

と少し声だかに注文した。眠気を払うように頭を左右に振って周りの様子をみると、一人で淋しく飲んでいるのは自分だけのようだった。みんな隣の人と頻りに話し込んでいた。女一人で飲んでいるなんて、場違いだ、とため息めいた思いが喉から出かけたとき、

「へい、お待ち」

と焼き場越しに注文の品を突き出された。両手で受け取って前に並べると、ちょっと沢山あるのに驚いたが、これだけ食べれば今夜はぐっすり眠れると安堵感をおぼえた。

一気に食べて外へ出ると少し足下が覚束なくてふらふらするので、足の指先に力を入れるようにしてゆっくりと歩いてタクシー乗り場へ向かって行った。

 忙しかった今日のことがすっかり頭から離れていた。

 

 目が覚めると八時になっていた。又忙しい一日が始まった。昨夜の焼き鳥で元気が戻っていた。しばらく手足を広げて天井を見つめながら一日の段取りを考えていた。一番に警察署、次に愛不動産、それとダムの死体の件、と大まかな方向付けをして起き上がって、シャワーを浴びてリフレッシュした。化粧はあまりしないけれど一応鏡で姿の確認をした。携行品を確かめてテーブルの上に置いた。準備はできたが、朝食は何処でしようかと考えたが面倒なので何時もの近所の喫茶店に決めた。外はもういつも通りの喧噪が始まっていた。

いくら忙しくても食欲は衰えない。これが自分の強みに違いなかった。

スクランブルエッグと厚切りのトーストにたっぷりのコーヒーを頼んで朝刊に目を通した。昨日の赤目さんの記事も地方版に写真入りで載っていた。にっこりほほ笑んだ顔からは犯罪に繋がる何かがあるようには思えなかった。するとマスターがテーブルに私の朝食を並べながら、覗き込むように顔を見て、

「今朝はどうかしたのですか」と小声で話しかけた。

「いいえ、何もないですよ、昨夜焼き鳥屋で」

と返したが、ぼやけていた心のうちをかいま見られたようで、顔に血が上ったように感じた。平静を装いながら、赤目さんの記事を指差して、

「マスターは地元の方ですから、もしかしてこの赤目さんのことをご存じないですか」と尋ねた。

「私はよく知りませんが、常連の方のお話には、時々話題になっていたように思います、ですが話題は不動産の売買のようでした、人物に関するお話はあまり聞かなかったように思います」と言うと厨房へ戻った。

 赤目さんは相当なやり手の不動産業者であったことはよくわかった。

朝食をすませてレジで支払いをしながら、マスターに

「何か情報があれば又教えて下さい」とお願いして店を出た。

 

 部屋に戻って持ち物を確認して、裏の車庫へ向かって、歩きながらもう一度段取りを繰り返していた。三メートルほど手前でキーのボタンを押すとガチャと音がして車のドアの施錠が解除された。ドアの取手を手前に引いて、腰を屈めて頭を下げ、左手に持ったカバンを助手席へ無造作に置いて、運転席へ座った。エンジンキーを回すとぶるつっと車体がひと揺れして勢いよく始動した。

 

 警察署へ行って、赤目事件、奥さんの失踪、馬島の橋脚下の漂着死体の情報の収集、それと古井警部補が居ればダム湖の死体の件の情報交換をしなければと急く思いがした。駐車場は相も変わらず一杯で、車を乗り入れながら空きスペースを探していた。止め難い隅が一カ所空いていた。三度ほど切り返しをして何とかバックで入れた。薄らと額に汗が滲んでいた。汗取りティッシュで顔をさっと撫でて車を降りた。署内に入ると免許証書き換えの人で溢れていた。捜査関係の部署は二階にあった。階段の壁面にも撮影待ちの列が出来ていた。二階は下の騒々しさとは打って変わって静かだった。朝の打ち合わせが行なわれているのか、既に現場へ出かけたのだろうと思った。恐る恐る刑事課のドアを開けると、がらんとした部屋で古井警部補が一人書類を書いていた。

「お早うございます」とおかしいぐらい大きな声を出した。

眉をちょっと動かして鋭い目で私を見た。

「遅いなあ、もう皆、夫々の場所へ出向いているぞ」

と相変わらずの檄を貰った。それでも臆せずに

「何か新しいものでも出ましたか」と問うと

「何もないが、どうも赤目の奥さんは何処かへ逃げたのでは」

と言いかけて、今の話はオフレコだぞ、と言われた。

「はい、わかりました」と言って、

「ところで古井警部補さん例の写真の件はどのように対処すればいいでしょうか」と問いかけてみた。

「そのことだが、わしも頭を悩ましているところだ、事件は立込んでいるし、定年の日も迫っている、だが上司に報告をして捜査の目処はつけなければと思っているから、少し待ってくれ」

「わかりました」

と返事して頭を下げてドアを開けようと手を出した時突然戸を押し開けるようにして若い男の人が飛び込んで来た。危うく正面衝突するところだった。

「あっ危ない」と思わず声を出すと

「すすいません」と言いながら警部補の前に進んだ。

「今日の言い訳は何だ、お腹でも痛いのか」と憮然とした表情で見据えていた。「遅刻して申し訳ありません」と言って頭を深く下げた。部長は表情を変えず

「今日はここにいて俺の仕事を手伝え」と強い口調で言った。

ぽかんとその様子を見ている私に、

「彼は新人の粟手君だ、お互い又現場で会うこともあるだろうから名刺でも交わしておけば」と呼びかけてくれた。

彼は不味いところを見られて一寸照れ笑いをしながら名刺を差し出した。私も正視せずに瞼をちらっと動かして彼の顔を見て名刺を渡した。すると警部補が

「彼はこう見えても、次の世代のホープだからね」と口を添えた。

私はもう一度会釈して部屋を出た。廊下は閑散としていた。次は、と段取りを思い出しながら階段を下りると、そこは事件とは関わりのないもう一つの賑やかな警察の現場だった。

 

 愛不動産を訪問すると社長は習慣になっている喫茶店のモーニングに出ているとのことだった。帰って来る時間を尋ねるともう十分もすると帰るらしいので、待たせてもらうことにした。応接へ案内されて腰を下ろして周りを見回すと建物の写真が壁を覆うように掛かっていた。昨日は赤目さんの写真のことで気が急いていたから全く周りの写真など気付かなかった。かなりの商売をしているような雰囲気だった。それにしても事務員さんがいるだけで不動産売買って不思議な商売だと思った。

 膝に両手をあてて頭を小さく何かに頷くような動きをしている自分に気付き、顔を真直ぐに戻すと、事務員さんが「どうぞ」とお茶をテーブルに置いてくれた

「どうもすいません、こちらへは赤目さんはよく見えられていましたか」

「そうですね、内の社長がこの地区の業界の世話をしていますから、赤目さんに限らず皆さん時々見えられます」

「赤目さん個人に付いて何か気になったようなことはありませんでしたか」

「そうですね、柔和なお顔に似合わず、厳しい物言いをされていることはありました」

 礼を言って一口お茶を飲むと、よく冷えていてしゃきっとした。

残りを口に含んだとき表から社長が、

「お話通り来られたのですね」と声をかけながら入って来た。

「昨日は突然無理なお願いをして申し訳ございませんでした、お陰で間に合いました、有り難うございました」と言いながら、写真を取り出して返した。

「今日はどのようなことで来られたのですか」

「赤目さんの情報と言いますか、社長さんの知っておられることをお聞かせ頂ければと思いまして、写真でお顔を拝見すると穏やかそうな方で殺人事件に遭うなど想像できない風貌をされていますが」

「そうだね、確かに顔立ちから判断すると、全くあなたの言われる通りです、私も人様のことはよくわかりませんが、柔和な風貌をしていても心の中に他人では推し量れないものが隠れていたかもしれません」

「そうだとは思いますが、何かその点について思い当たるような出来事とか、変わった様子に気付かれたことはありませんでしょうか」

「そうですね、今思い当たることは無いようですね、ただ彼は見かけと違って、これは言っていいのかどうかわかりませんが、性格はやや傲慢で非常にきついところがありました、それぐらいでしょうか、そのことが事件に繋がっているとは思えませんけれど」

「よくわかりました、ところで社長さん、赤目さんが取引でトラブルを抱えていたようなことは無かったでしょうか、それと贔屓にされていたスナックなどをご存知ありませんか」

「不動産業では時々トラブルはありますが赤目さんが抱えていたかどうかは知りません、行きつけのスナックはレッドローズだと思います」

「お忙しいところ色々お話しを聞かせて頂き有り難うございました」

お礼を言って、店を出た。

 

 漂着死体の捜索が続いている馬島へ向かった。しかし公団の通行許可証が無いと島には降りられないことを思い出して走りながら少し心配になってきた。車をコンビニの駐車場に突っ込んで、公団へ電話をすると北インター入り口の公団事務所で一時的な許可証を貸してくれる、と返事が貰えた。方向転換してエンジンをふかして道路へ出た。インター入り口は二百メートル先を右に曲がると直ぐにあった。カードを借り通行の手順の説明を受けると思い切りアクセルを踏み込んで本線へ飛び出していた。あっという間に馬島の入り口着にいた。公団の指示通り操作してゲートを開け、通路を下ると巨大な橋脚が眼前に迫っていた。昨日死体が発見された場所は橋脚のケーソン部分のコンクリートに沿ったところだった。直ぐ北側には岩場に囲まれた小さな砂浜があり、南側は漁港になっていた。

漂着死体の現場検証は昨日殆ど終わっていたのでもうそこには誰もいなかった。今日は赤目婦人の捜索が行なわれていた。警察と海保の合同捜索だった。

脱いだ靴の真下を中心に捜索を始めたと思うのだが、付近にはもう捜索の人は見えなかった。この付近は潮の満ち引きが始まると渦を巻くほどの流れが起こって往来する船舶も難渋している。もし赤目婦人が潮流に流されたとすれば、渦巻く岩場の海底に留まっているか、ずっと遠くへ流されてしまって見つけ出せないかも知れない。釣り人が流されて発見できないことが今までにも随分あった。

 現場での様子を確認できたのでパーキングエリアに戻ってどの辺りで捜索しているか見て見ようと島を出た。パーキングはレストランや売店に人が溢れていた。車を降りると一直線に海が真下に見える展望台へ向かって馬島の方角を見た。島では見えなかった岩場や捜索船がよく見え、流れの速い海峡で巡視艇や漁船が捜索している様子もはっきりと見て取れた。

 これは警察の発表を待つのが賢明だと考えて一旦帰ることにした。車に乗るとダムの写真のことが思い出された。警察へ行って古井警部補に会ってその後の見解を尋ねることにした。刑事課のドアを開けると今日も古井警部補が一人で机上に書類を広げて仕事をしていた。机に近づくと人の気配に気付いて急に顔を上げ私を見た。

「おう、あんたか、現場へ行ったのではないのか」

「はい、行ってきました、まだ何も上がった様子も見えなかったのでこちらへ帰って、発表を待つことにしました」

「それがいいかも知れないね」と言うとまた書類へ戻っていた。

仕事を邪魔しては迷惑だと思いながらも、どうしてもダムの写真の件を尋ねずにはいられなかった。躊躇をしたが勇気を出して、

「警部補、あのダムの写真の件はどのようになりましたでしょうか」

私がもう帰ったものと思っていたらしくて、声に魂消て書類から目を離すと鋭い眼差しを私に向けた。

「前にもいったように今の事件が解決すれば上司と相談して処置を考える、今はそれだけしか言えない、その後ダムの現場に何か変わったことがあったかね」

「気になるものですからもう一度現場へ行きましたが変わった事はありませんでした。死体が無くなっているので事件として取り上げ難いのではないかと思いまして、警部補のお考えが聞きたくなったものですから」

「わしもそれはよくわかっておるが、あんたもご覧の通りの状態が続いているから、今の段階で確たる返事は出来かねる」

「申し訳ありません」と言って帰りかけると、

「役に立つかどうかわからないけれど、昨日会った粟手君に写真を見せて、一応の経過を話しておいた、定年までに対処できないと困ると思ってなあ、今はお互い進行中の事件に取り組もう」

「有り難うございます」

 再度頭を下げて部屋を出た。内心ではダム湖の死体の件は現場に死体もなくなってしまって、証拠らしいものと言えばあの写真ばかりだから、捜査の対象にはならないかも知れないとの思いが湧いてきて割り切れない気持ちになった。

 気を取り直して赤目さんの行きつけのスナックの場所の確認に向かった。調べた通り飲屋街の狭い路地の二階にあった。通りがかりの人が入ってくるような場所ではなかった。どのようなお客が来るのか夜飲みにこなくては、と思ったが気後れがした。誰かを誘って来なくては入れそうにもなかった。しかし適当な人も思い浮かばなかった。誰かいないかな・・と考えていると、昨日古井警部補に紹介された新入り刑事さんを思い出した。当たって砕けろと名刺を取り出して電話を入れたが捜査中で私用の携帯には出なかった。メールを入れておけば何かの返事が返るだろうと簡単に事情を説明して、スナックへ一緒に行って欲しい、とお願いしておいた。彼の都合もあるだろうから無理強いもできない。期待して待つことにした。

 警察署の会見時間は午後四時過ぎだから時間があるので、赤目さんがどのような人だったかもう少し同業者に尋ねてみようと思って、携帯の案内で電話を調べ、数社に問い合わせると二社で了解が取れた。

 パーキングに車を止めて商店街の入り口の不動屋に向かった。店頭にアパート案内ののぼりのスタンドがあってガラス戸には不動産の格安物件のチラシが一面に貼り出されていた。店に入ると正面にカウンターがあって女の人が座っていた。用件を言おうとすると、立ち上がって

「先程お電話を頂いた記者の方ですね」

と言って奥のソファーに案内された。腰を下ろしかけた時横のドアが開いて五十がらみの、白髪頭の方が出てきた。

「まあどうぞお掛け下さい」と言って向かい側に座った。私は名刺を出して渡した。主人はテーブルに置かれた眼鏡ボックスから眼鏡を取って、名刺を少し手元から離すようにして確りと見ていた。

「それで,どういったようなことを知りたいのですか、同業と言ってもそれ程懇意でもありませんので役に立つかどうかわかりませんが、どのようなことを聞きたいのか言って貰えば、知っていることはお話しますよ」

「では宜しくお願いします、お人柄はいかがでしたか、お顔の写真の印象ですと実に温厚そうで人当たりの良さそうな印象を受けますが」

と言うと暫く考えてから、

「そうですね、個人的にはわかりませんが、こと商売になりますとそれは強行で一歩も後へ引かぬ感じの人でした」

「それでは商売上でトラブルも度々あったのではないでしょうか」

「それはよくわかりません、私共とは一度もありませんでした、今思い出したのですが、赤目さんの贔屓のスナックで飲んだことのある人が面白いことを言っていました、女装の赤目さんらしい人にあったそうです、真偽のほどはわかりませんが」

面白い話を聞いたと思った。

 夜のスナックが楽しみになってきた、しかし、彼からのメールはまだ入っていなかった。礼を言って帰ろうとすると、役立つ情報があれば知らせるから、と言ってくれた。この事件に興味を持っているのがよくわかった。時計を見ると警察の会見の時間までにはまだ十分時間があった。次の店に電話を入れてみると丁度社長が外出から帰ったところで、今なら会えると返事を貰った。

 出かけると商店街の真中にある店舗の両隣も前もシャッターが閉まった空き店舗だった。昼間だと言うのに人通りも殆どなかった。県内二番目の町で人口も二十万近くもあるにも関わらず、商店街は死んでいた。訪ねる店には不動産取引の看板は出ていたが貸家案内のポスターものぼりもなく、普通の住宅を事務所にしていた。戸を開けて声をかけると五十がらみの、頭に少し白髪まじりの、主婦と思える方が応接してくれた。

「先程の電話の方ですね、少々お待ち下さい、主人を呼んで来ます」

と言って奥へ入った。

 事務所は三坪ほどで事務机と小さなテーブルを挟んで向かい合う二人掛けのソファアが二脚あった。壁にも取引物件の写真などはなかった。ただ一つ額に入った土地建物取引業の許可証が掛かっていた。

 これで不動産業者と言えるのだろうか、と疑念が生じた、と、その時奥のドアが開いて恰幅のいい、整髪の行き届いた背広姿の紳士が現れた。以外だった。事務所の雰囲気とは全くイメージが違っていた。

「青井一と言います、店舗を見られて一寸首をひねられていたようでしたね、もっともだと思います、最近は不動産の取引は殆ど副業程度です、本業と言いますか、市会議員の活動をおもにしております、あなたの知りたいことにお答え出来るかどうかわかりませんが」

 自己紹介をする前に一方的に話されて、少したじろいだが、名刺を取り出して渡した。遠近両用の眼鏡のピントを合わせながら、

「どうぞおかけください」

腰を下ろすとクッションがへたってしまっているのか深く落ち込んで、膝がぐっと上に持ち上がったようだった。

「ところで赤目氏についてどのようなことが知りたいのですか」

「どのようなことでも、知っておられる事を話してもらえればありがたいのですが」

「そうですね、昔からよく知ってはいるのですが、最近の事はよくわかりません、ちょくちょく会っていた頃は今不動産の専務だったように記憶していますが、当時の今不動産は地元一番の業者でしたから、羽振りもよく、結構派手にしていました、ところが税務調査が入って、使途不明のお金が出てきて、金庫番もしていた専務の赤目さんに疑いがかかりました、しかし彼は知らないと言い張ってその不明金の行方はわかりませんでした、そして会社と関係がうまくいかなくなって退社したそうです、それでスッキリした訳でなく、今不動産の奥さんは告訴するべきだと強硬だった、と聞いています、二人の間に何かあったのかも知れませんね、それよりも赤目さんの本宅が今さんの隣だそうですよ」

 それを聞いてびっくりした。昨日インタビューした奥さんが赤目さんの勤めていた会社の社長の奥さんだったとは全く知らなかった。彼女は何時も隣の様子を監視するように窺っていたに違いない。私に話したこと以外にもっと詳細に知っているに違いない。もう一度話を聞きに行かなければと思った。私の表情の変化を見て、青井さんが

「どうかしましたか」と聞いてきた。

「はい、私昨日赤目さんの隣の奥さんにいろいろお尋ねしたのですが、今お聞きした事情を全く知らなかったものですから」

「それでは一寸不思議に思われるでしょうね、いろいろ問題のあった人が隣同士になっているなんて、普通ではありえませんでしょうからね、それに、赤目さんの奥さんには結婚する前に産んで養子に出した子がいたのではないかと言われています、詳しいことは知りません、私の知っていることと言えばそれぐらいです」

 

複雑な様相を帯びて、どう纏めれば良いのだろうか、と悩んでいると、携帯が振動した。メールは粟手さんからオーケーの返事だった。礼を言って、店の営業時間を調べて再度メールを入れると伝えた。


 訪問先の店から出て時計を見ると丁度良い時間になっていた。人通りのない大きなアーケード街を少し歩いて地区の生活を支えているスーパーの駐車場に停めていた車に乗り込むと車内のぬくい空気にたじろいでドアーを開けたままエンジを回して窓ガラスを総て全開にした。外気が室内の空気と同化したので座り直して警察の駐車場へ向った。駐車場は相変わらず満杯状態で開きスペースを探していると難しい切替が必要な隅があいていた。気の重い警察署訪問の第一関門だった。免許証書換えに来ている人をすり抜けて二階の会見場へ入ると未だ少し早かったのか担当者も座って居なかった。戸が開くと粟手さんが書類を抱えて入ってきた。続いて刑事課長と古井警部補が席に着いた。粟手さんも離れた席に着いた。いつも怒られている粟手さんが何をするのだろうか、と訝しんでいると立ち上がって、「これから赤目竜二殺人事件と馬島の漂流死体に付いての進捗状況を刑事課長より説明致します」と坦々と述べて席についた。

警部補に叱られていた様子と打って変わって落ち着きはらったベテランの風貌に見えた。

 刑事課長はマイクを手にして資料に目を落としておもむろに話始めた

「赤目竜二殺人事件に付きましては凶器の特定に到っていません、奥さんも行方不明のままで懸命に捜索中です、しまなみ街道馬島の橋脚に漂着した死体につきましても人物の特定に至っておりません、何か解り次第公表致します、今日の報告は以上です」と言って立ち上がるとそそくさと部屋を後にした。

質問を受けるものと思っていたのか粟手さんはきまり悪そうに一礼して出て行った。予想はしていたものの態々来たのに肩透かしに合ってつんのめった感じだった。でも粟手さんを見掛けたので彼の都合のよい日と時間を確かめる事にした。

 急いで追いかけ部屋を出るともういなかった。其れでも折角だから会っておこうと刑事部の部屋の戸を開けると正面の奥に古井警部補が席に着いて書類を調べていた。私に気付いて顔を上げると、またあの件に付いて聞かれるのか、と一瞬顔が曇った様に見えた。しかし直ぐに正面向いて、

「もう少し時間をくれ」と言って書類に向かった。私は慌てて、

「その事ではなくて粟手さんにお会いしたいのですが」

「下へ資料を取りにいかせているのですぐ上がって来るから待って居なさい」

直ぐに戸が開いて資料を抱えて粟手さんが入って来た。私が一礼すると粟手さんも軽く会釈を返してからちょっと訝しがる表情を見せたので

「例の件で粟手さんの都合をお聞きしようと思いまして」

「ああそのことでしたら土曜日で今のところ大丈夫だと思います、時間が決まればラインを下さい」

「分かりました、それではラインをさせてもらいます」

と言って古井警部補に挨拶をして戸を開けようとするとにゃっと笑って、よろしくね、と声を掛けられた。

 意味を測りかねたが会釈して室外へ出た。歩き出して古井警部補が何か勘違いしているのがおかしかった。


 車に戻って座席へ腰を下ろして大きく背伸びして深く息を吸い込んで目をつむり、じっとしていると気持ちがゆったりしてきた。ああ、っと声をだして大きく背伸びして目をあけるとダムの写真が蘇った。思い切ってもう一度現地へ行ってみようと決心してエンジンキーを回した。

 走り出して五分もしない内に無駄な事をしている様な気がして来た。でもあいまいな状態では済まされないと思い直してアクセルに力を入れた。三十分程走るとダム入口に着いた。左に曲って凹凸のある道を百メートル走ると堰堤の入り口だった。車が一台止まって居た。

 誰かいるのか周りを見渡すと男の人が堰堤の隅でが私が写真を撮った辺りの水面を身体を乗り出してしきりに覗き込んでいた。もしかして私の写真と同じ情景を目撃していて、不安な気持になって見直しに来たのかもしれない、と思って鞄をとると思わず走り出していた。

人の気配に気付くと覗き込んでいたのを辞めて遠くを眺める素振りをした、しかし何か不自然なものが感じられた。足を速めて近付くと更に態度にぎこちなさが増したようだった。思わず声を掛けた。

「何が見えるのですか」

「ああ、雨上がりだから魚でも居ないかと思って覗いていたのですが」

その言葉は勢い込んで突き進んで思わず肩透かしにあったようだった。

しかし、どぎまぎした物言いに何か拭いきれないものを感じた。

「日曜日、この下辺りの水中に人の様な物を見て慌てて帰ったのですが、気になって見に来ました、何か見えませんか」すると目を逸らして

「その様な物は見当たりません、沈んだ流木が人の様に見えたのではありませんか、こちらへ来てよく見られたら如何ですか」

今度の言葉は落ち着いていた。直ぐそばへ立って覗き込んだけれど昨日と同じで水中に人影は見えなかった。不思議でならなかった。沈んでいる流木はあの写真の状態と少しも変わっていなかった。私は肩に掛けたカメラを外して写真ロールを開いて、ちょっとこれを見て貰えますかと彼に向けた。覗き込んだ途端に、ギョッとした表情になってカメラを私から取って食い入るように見て

「おっしゃる通り人のようですね」と言って私に返した。その時触れた手が小刻みに震えている様だった。魚を探しているとは思えなかった。水底に沈んだ秘密を探っているのだと確信した。私は呟くように

「本当に変だわ、マジックみたい、水に溶けてしまったのかしら、気持ちが悪いから警察で見てもらおうかしら」

すると彼が、

「今ここに何も無いのですから警察は取り合ってくれないでしょう」

と私の呟きに反応した。

「そうかもしれませんが気になるので行ってスッキリしたいです」

「それもいいでしょう、ごゆっくり、私はこれで」

と言うと足早に堰堤入り口に向かって歩き始めた。私も後を追うように踵を返した。

 彼は魚を見に来たと言ったが迫り出すようにして水面を覗き込む姿はダム湖の底に沈んだ物を必死で探しているようだった。真相を知りたいと思った。追い付こうと急いだが駐車場へ引き返すと車へ乗り込んで発車するところだった。カメラで追い掛けるように狙ってバックウインドウの社名とナンバーを写した。車は飛び出す様に急発進してガタガタ道を抜けて県道へ出て右へ走り去った。益々疑惑が深まった。何かあると思った。


 浜中太郎は朝一番に新聞を隈無く見たがダム湖の記事は何処にも載っていなかった。でも誰かが見つけて引き揚げているかも知れないと思って確認に来ていた。そこでもう一人写真を見て不審に思った女性が確認に来ていて鉢合わせした。写真を見せられても何食わぬ顔をしていたつもりだったが内心ドキドキして顔に現れたのではないかと不安だった。現場の写真を警察に持っていくと聞いて益益々不安になった。でも警察が現場へ来ても何もないのだから事件にはならないだろう、と思ったので少し不安が和らいだ、しかし不思議だ、誰が組長の死体を隠したのか、有りもしない死体の話をしに警察へ行って根掘り葉掘り訊かれて、もしかして殺人犯にでもされると大事になる。黙っている事にした。妻にも未だ事実を打ち明けずにいた。ところが深夜にまた電話で起こされた。

受話器をとると、

「俺はダム湖の出来事を一部始終見ていて、ビデオにも撮っている、

お前は上手く避けて組長をダムへ落して通報もせずに見殺しにした、いいか、俺は自殺など要求しないがどうかして金を工面しろ、また電話する」と言って切れた。

 面倒が増えて頭がこんがらがってしまった。溜息をつきながら寝返りを繰り返す夫の動きで目醒めた妻は起き上がって、どうしたのときつく問いただした。

「お父さん、何が起こっているの、一人で悩まないで教えて、心配でしょうがないの」

次第に涙声になって行った。もう黙っている訳にはいかなくなった。でも顔を見ながら暫く黙っていた。考えがまとまらず言葉にならなかったが妻の顔を見ていると話さない訳にはいかなかった。

「友人の浮田吉哉が資金ショートを起こしかけていたなんて知らないからいつもの様に借り入れの連帯保証人になった、ところが夜逃げをしてしまったんだ、連帯保証だから連帯保証人の私に返済を迫られた、その相手がヤクザの高利貸しでとてもしつこく借金地獄に落とされた様で、金が無いなら死亡保険金で支払え、支払えと迫られ、くり返される強迫に頭が混乱して、自分が直に借金したと錯覚して、もうどうでもいいと思ってしまった、一昨日ダム湖へ呼び出して背中を押させてダムへ落とされて生命保険金で始末して、残りの金で、秋江と子供が生活出来ると思い込んでいた、こんな話はどうしても出来なかった、秋江許してくれ、あの瞬間、目をつぶって、拳を握って、死にたく無いと身構えた、組長がよろけながら傍を通ってそのままダム湖へ落ちた、恐怖は一気に消えたけれど驚きで身体が震え熱くなった、水面を見るとバタバタしていたが直ぐに動かなくなった、救助などおもいもせず無我夢中で車へ走って慌てて帰って来たのだ」

「お父さん、警察へ知らせたの」

「いや未だ知らせていない、現場へ行って見たが組長の死体は幾ら上から見ても無いのだ、偶々現場で写真を撮った女の人が水中に沈んだ人を見付け、不思議に思って確認に来ていた、でも人は沈んでいなかった、何度も怪訝そうに写真を見ていて、警察に見てもらってすっきりしたい、と言ったので警察へ彼女より先に行くべきか悩んでいる、清多商事からの電話もどうすればいいのか、警察へ行って全て話すのがいいのか、どうすればいいのか」

「お父さん警察へ行って、それが一番良い、お願い、もう死ぬなんて」

「どうなるか分からないけど結果を考えずに警察へ行って全部話してみる、悪いことはしていないのだから」

と言って手を探ってギュッと握り締めると握り返してくれた。秋江や子どもにとても酷いことをしていた、許してくれ、と呟いて手に力をいれてそのまま眠りについた。


 美波怜はアパートの自室でプリントアウトしたダムの写真を机に拡げてダムで出逢った男の人の様子をビデオのシーンの様に何度もプレイバックを繰り返してあの時感じた違和感は何だったのか考えあぐねていた。彼は沈んでいた人と関係がある様に思えてならなかった。

 赤目竜二殺人事件に集中しなければならないと思うのだがどうしてもダムに沈んだ人の映像が気になってしまう。赤目事件の方は奥さんの状況が分かれば解決するはずだ。しかし状況通り来島海峡大橋から投身自殺をしていれば解決は難しくなって未解決のままで終わってしまうのではないだろうか、と宙ぶらりんの気持になった。しかし取材したした人の話を繋ぎ合わせて行くと想像が膨んでボンヤリとしているが事件の様相が浮き上がってくるような気がした。明日の定例会見に出席すれば奥さんの行方や凶器の有無や死因などもより詳しく分かって解決へ向かうだろうと気持ちを変えて枕元の電気を消した。


 ぐっすりと眠れた様に思ったのに目覚めると何だか頭が重かった。はっきりしない事件が重なって考えが中々定まらなかった。しばらくベットに座って足をぶらぶらさせながらスケジュールを考えていて、粟手さんに土曜日の時間を知らせていないのに気づいた。朝早過ぎるかなと思ったがメールだからいいだろうと、七時に落ち合って食事して八時頃からスナックへ行こうと打った。眠気も去ってスケジュールも組めた。洗面所で鏡の前に立って自分に向き合って目をぐっと開き口を結んで、笑顔をつくり、がんばるぞ、とつぶやいて朝のルーチーンを終えた。

 するとお腹が小さな悲鳴を上げた。エネルギーの補給をしなければ自慢の脳も働かない。財布と携帯を掴んで外へ出た。未だ街は静かだった。行きつけの喫茶店もマスターがスタンド看板を出して店を開けようとしていた。私に気づいたので、元気の良い声でモーニング定食を頼みサラダの大盛を追加した。母から電話がある度に、野菜を食べているか、と心配されるので気を付けて食べるようにしている。親の注意はありがたいが少し重荷ではある。


 他社の朝刊に目をとおしながらモーニングを食べ終えて余韻を楽しみもせず、立ちあがってレジをすまして店を出た。時計を見るとまだ七時半だった。動き始めるには早すぎる時間だった。

 今日は昨日会った男の人の事で、古井警部補に面会しようと決めていたので確認にもう一度ダムへ行く事にした。部屋に戻りショルダーバッグを背負って気持ちを活動モードに切り替えて車に乗った。窓を全開して出発した。ダムに近づくにつれて沈んでいた人がいなくなった不思議が頭を混乱させ始めた。幾ら考えても分からなかった。駐車場へ入ると車が二台止まっていた。一台は昨日の車だった。ええッと思って堰堤の向こう隅を見ると昨日同様に身を乗り出して水面を見ている様だったので小走りで歩き始めると彼はウォーキングに来ているようにゆっくりと私のほうへ歩いて来た。偶然行き会ったように、

「今日も魚を見にこられたのですか、何かいましたか」と声を掛けた。

「いえいえ何もいなかったです、早朝の湖畔の空気は良いですね」と挨拶を交わすと背を向けて足速に駐車場へ歩いて行った。

 水中は写真と同じ状態で人の姿だけが何処にも見当たらなかった。現場に死体が無い状態で、私の写真だけを見て事件として取り上げるのは難しいのでは、と一枚の写真が招いた混乱を悔やんだけれど人が沈んでいたのは間違い無く事実だ。きっと何かが闇に潜んでいると思った。真相を突き止めないと。


 時計を見ると十時をまわっていた。迷惑でも古井警部補に会ってダムで会った人の事や死体が消えていても事件として取り上げるのかをはっきりしてもらいたかった。

 刑事部のドアを開けると正面奥に古井警部補がいて横の机で粟手さんが書類を熱心に見ていた。おかしな組み合わせに思われた。声を掛けようとした時には二人が同時に顔を上げて私を見た。不意を突かれたようで思わず頭を下げた。すると古井警部補が

「あの件だったら未だ警部に話していない、悪いがもう少し時間をくれ、ハッキリさせなければいけない事案だと分かっている」

「はい、分かりました、ですがご報告しておいた方がよいかと思う事が有ります、昨日今日と念の為ダムへ行きました、そこでしきりに現場の水面を見ている男性に会いました、何を見ているのですかと、最初に声を掛けた時に見せた表情に、何か問題がありそうでした、車のナンバーと店名を写しております、参考になればと思いまして」

「分かった、方針が決まれば連絡を入れるからもう少し待ってくれ」

分かりましたと返事して頭を下げて帰ろうとすると粟手さんが立ち上がってそばへ来て、食事の場所を知らせて下さいと言われた。ラインを入れますと言って戸を開け振り返ると古井部長刑事がにやっとした。


 多勢の免許証書き換えの人を避けながカウンター前を通り抜けて玄関へ出た。もう一度赤目さんの隣の今さんに会って見ようと思った。車へ向って歩き始めて、ダムで会った男性が怖気を振り払うように俯き加減で玄関へ向かうのを目撃した。慌てて踵を返して後を追った。すると本署の受付で口籠もりながら説明を繰り返していた。受付の係員が電話を取って番号をプッシュして二言三言話すと立ち上がって、案内しますのでどうぞ、と免許更新のカウンターの前を抜けて階段を上がり始めた。刑事課へ行くと確信したので気持を落ち着けるように深く呼吸をしてゆっくりと上った。入り口で一寸躊躇していると戸が開いて案内の係員が出て来た。外に立っている私を見た古井警部補が大きな声で

「何か忘れ物でもしたのか」と呼び掛けた。

「いいえ、そうではありません、今居られる人が先程お話ししたダムで会った人です、きっとあの写真の謎をご存じの筈です、」

「本当か」

「間違いありません、詳しく聞き質してください、あの写真が事実だと分かると思います、私も同席させてください」

「取調べではないからいいだろう」と言って、

「お待たせしました、どうぞお掛けください、どの様な御用件で来られたのですか、貴方もダム湖で沈んでいた人の姿を見たのでしょうか」

「いいえ、見たと言うよりも私の横をふらつきながら走り過ぎてダム湖へ落ちて行ったのです、私は動転してしまって助けを呼ぶのも忘れて車へ飛び乗って帰ってしまいました、帰って落ち着くと今度は助けを呼ばずに逃げ帰った事で、とがめられるのではないだろうかと怖くなって、時間が経ってしまいました、気掛かりだったのでダム湖へ行ってみると幾ら探しても、落ちた筈の人は見つかりませんでした、ここにおられる人に会って写真を見せられたのです、確かに沈んでいる人が写っていました、そして警察へ報告に行くと訊いたので私も報告にいくべきだと思った次第です、救援を呼ばなかった事を後悔しています、何か罪になるのでしょうか、心配です」

「罪になるかどうかは今判断できません、貴方が直ぐに連絡を取っていてくれれば落下した人の身元も分かり、そして死体が消える事もなくて、困った事案になっていないのは事実です、その点についてはなんらかの処分があるかもしれません、それにしても消えた死体の行方を捜す厄介な事件がが飛び込んできた事は間違いない」

 古井警部補と私は写真が事件に成ったと確信した。それは消えた死体の捜索と言う捉えどころの無い仕事の始まりだった。警部補は彼の名前、住所、電話番号などを書留て、必要時に連絡するので今日は帰って下さって結構です、と言った。私は彼の言い淀んだ言葉の奥に言い出せない隠されたものが潜んでいる様で、もっと突っ込んで問いただして欲しかった。あきらめきれなかったが私の出る幕ではなかった。


 定例会見で二つの事件の進捗報告があった。漂着死体は清多商事の社長清多元治と判明した。指紋、顔写真データが一致した。検死解剖で死因は心臓発作、そして海水ではなく真水を飲んでいた。川か湖で亡くなって海へ捨てられたと考えられる。赤目竜二に関しては不明の奥さんが発見できていないので報告はありません。会見が済んでしばらく部屋に留まって休んでいると、粟手さんが入って来て食事はどこにするのか未だ知らせて貰っていないといわれた。頭がダム湖のことでゴチャついてすっかり忘れていた。申し訳ありませんと頭を下げて、時折元気づけに行っている海岸通りの浜やが浮かんだのでそこに決めた。そして帰りかけた彼に、今朝告白に来ていた人はダム湖に落下した人と何か関係があるはずです、もう一度つっこんで聞き質して下さいとお願いした。

 私は今日の警察の報告を聞いて、ダム湖で死んだ清多商事の社長を誰かが来島海峡大橋から落として橋脚部へ漂着したのではないかと妄想した。しかし、何故ダム湖へ飛び込んだのか、死体はどうして消えたのか、大橋からの投棄は、謎だ、でも何か引っかかって仕方無かった。


 警察は漂流死体が清多商事の社長だと判明したので原因究明の為事務所へ捜索に入った。会社は五名ほどの貸金と取立てを家業にしているヤクザの事務所だった、社員に聴取しても社長の死につながる話は出なかった、部屋中捜索しても事件に関連するものは出てこなかったが最後に開けた社長の引き出しからプリペイドの携帯電話が二台出てきた。開くと何度も何度も同じ相手に真夜中に電話していた。そして相手から掛かった電話が一度だけあった。

 捜索中の刑事が何度も掛けていた番号に電話を入れると、いきなり

「社長がダムへ落ちたのを知らないのか、もう電話を掛けてこないで、うるさくすると警察へ行くから」と憤りを込めた口調で言うとガチャッと切れた。

おかしな、理解出来ない応答だった。

 従業員の携帯も全て預った。ナンバー2の携帯は最先端製品だった。

薬も銃や凶器も見付からなかった。経済ヤクザだった。それにしても子分も連れずに親分が一人で行動していたのが分からなかった。


 持ち帰った携帯の番号から相手先がすぐに分かった。建築木材店の浜中太郎商店だった。それを聞くと粟手刑事が、

「昨日ダム湖に落ちた人の目撃を告白にきた人だ、彼の話はあやしい、脅迫されていて、上手く連れ出して突き落としたのかも知れない、きっとそうだ」

急いで古井警部補に報告した。

「何、昨日の人が清多商事に脅されていたのか、金を借りていたのか」

「押収した借用書には名前はありません」

「おかしいな、では何故脅迫されていたのか」

「昨日捜索願を見ていてると浮田吉哉の捜索願がありました。そして押収した借用書に浮田吉哉名義のものがありました。どうも脅迫を恐れて逃げたようで、誰が連帯保証人になっているか名前を調べると浜中太郎の名前がありました、借主が逃げたので連帯保証人から回収しようと浜中太朗を脅迫していたのではないでしょうか」

「それで話はつながってきたが清多社長が、突き落とされたのか、自分で間違って落ちたのか、どうして海で見つかったのか、ダムから海へ誰がどのようにして運んだのか、問題だらけだ」

「いいえ、そうでもありません、押収した黒道清造の携帯にダム湖で録ったビデオに社長の清多元治が背を向けて立っている人へ小走りで向って行き、そのままダムへ落ちていった映像がありました、この映像を見ると浜中太郎が突き落した嫌疑は晴れたのですが何故二人が現場に同時にいたのだろうか、解かなければならない謎がまた一つ出て来ました、浜中太朗に再度来てもらって二人の関係を詳しく聞き訊さなければなりません、彼が告白していない事があるはずです、その事が分かれば大きく前進する筈です」

「そうか、私はもう直ぐ退職だから粟手君が芯になって進めるようにしてくれ、ところで赤目竜二の件は少しは進捗があったのか」

「いいえ、奥さんの行方が全く掴めません、とにかく頑張ります、今夜毎朝新聞の美波怜さんと赤目竜二さんの奇行の様子を調べにスナックへ行きますので、何かヒントがあれば報告します」

「よくわかった、課長への報告はしておく、今晩は仕事も大切だが楽しん

でこい」


 浜中太郎は警察でダムから落下した人を目撃しながら救急車を呼ばずに逃げ帰った事を報告したが肝心な二人のやり取りは告白しなかった。

帰宅して妻の秋江に話すと即座にもう一度行って、「死んで払え」とまで脅されていた、と云うべきだと言い張ったが死体もない状態で事件にはならないのでは、と思えて気が進まなかった。ところが今度は清多商事の専務から電話が掛かってきた。やはり週明けに警察へ行って事実をありのままに打ち明けようと決心した。借金は一体どうなるのだろうか、清多商事へ法定金利で支払わなければならないのか、面倒な事が次々と出て来た。浮田吉哉の裏切り行為への鬱憤が募ったが最後に頼られたのが浜中太郎で不運だったと諦めようと決心した。 


 粟手刑事は約束の十分前に御食事処浜やへ着いた。

美波怜は未だ来ていなかった。

店の前の通りを越えて漁船がもやっている護岸に立って船首部分が妙に長く突き出した船形を見て、水の抵抗を押さえてスピードを上げる工夫なのかな、と独り言を言っていると彼女がすぐ後ろに立っていたので驚いた。

「遅くなってすいません、時間があったものですから赤目竜二宅の

お隣の今京子さんにお会いしていました。赤目竜二さんは今不動産の専務をされていたそうです、ああすいませんこの話は後にします、好みも聞かずに和食にしましたが宜しかったですか」

「私は嫌いなものはありませんのでご心配無く、気を使わないで下さい」

「こちらはお魚が美味しいです、粟手さんがどちらのご出身か知りませんから私の一存です、気は使いませんのでよろしくお願いします」

 美波怜は高級な料理は頼まなかったが、聞かれてまずい話でも出るといけないと考えて仕切のある小部屋を予約していた。部屋に上がると準備ができていた。腰を下ろすと軽く会釈して、

「折角のお休みの日に図々しいお願を聞いて頂いて有難うございます」

「いいえ、おやすみと言っても何もすることは有りませんので外へ出るのは有り難かったです」

「それでは宜しくお願いします、私はせっかちで物言いも悪いので不都合があればお許しください、前もってお願いしておきます」

いい終わるとビールの栓を抜きグラスを合わせて食事を始めた。

料理はこの町の定番のメニューだった。

怜は彼のプロフィルが知りたかった。

「ぶしつけですが粟手さんはどちらのご出身ですか、私は京都で大学は東京でした、偶々受けた新聞社に合格したものですから仕事の内容も十分知らないで就職しました、ですがこの仕事が性に合っていると思っています、面白くない話をしてすみません」ビールをぐいと飲んでお刺身を食べると美味しかった。

煮魚をつついていた粟手さんがビールを注いでゆっくりと味わいながらぽつりぽつりと喋りはじめた。

「私は青森生まれの東京育ちで東京の大学の法科を出ました、裁判官や検事や弁護士は性に合わないと思って地方の警察へ就職しました、キャリアは嫌だったのです、変わり者です、よろしくお願いします」

「そうですか、なにか勿体無いような気もしますが」

「そのことは周りの人に散々言われました、でも自分の人生ですから」

「話は変わりますが、今夜の本命の赤目竜二の件で。ご存知かもしれませんが私の取材で気付いた事を少しお話しておこうと思います、赤目邸のお隣は赤目竜二さんの元勤務先の今不動産社長宅です、現在は奥様が独りで棲んでいます、家の中は見えませんが外側はバッチリ見えます、何か変わった家で全く近所付き合いも無く、奥さんが外で掃除をしたり洗濯物のを干すのを見かけた事も無いそうです、それと今さんを再度訪問した際あの晩男の人が周りを窺うようにしながら家に入ったのを見たことを忘れていた、と云われたのですがご存じでしたか、さらに取材をしている時に赤目夫人には里子にだした子がいた、と話す人がいました、そして赤目竜二さんが女装をしてスナックへ出ているとの情報があったので、今夜のスナック・レッド行きを思い付きました、すいません、長々とお喋りしました」

「いえいえ、目線の違ったいい情報です、あの晩は大雨降りだったので目撃情報は皆無だったのです、今さんを訊ねて状況をうかがいます」

 料理もビールもお預けで話し込んでしまった。お腹に催促された。粟手さんの経歴をもう少し知りたかったけれどやめにして、ビールのお酌をした。

見た目と違って結構酒は強そうだった。料理は魚尽くで旨かった、二人とも完食していた。スナックへ出かけてもいい時間になっていた。

 今夜は私がお願いしたことだったので支払いをしようとすると割勘で、と言われるので素直に受け入れた。


 狭い路地にに入ると飲み屋があって暖簾の間からカウンターに被さるようにして焼鳥と酒に酔いしれている男たちが鬱憤を晴らしているような話し声が聞こえていた。焼き鳥の煙の中を通り抜けるとカラオケが響いてきた。

 そこの脇階段を上がるとスナック・レッドだった。事前に調べていて正解だった。下の階段の所にスタンド看板もなかった。目印は入口のドアーの上に黒地に赤のsnack RED の電飾があるだけだった。

 戸を開けても誰も振り返らなかった。室内は年季の入った感じで若者が飲みに来る雰囲気ではなかった。正面のカウンターには常連らしき年分の人が熱燗を呑んでいた。奥には一段高くなったカラオケのステージがあった。

 赤目竜二さんの話をマスターとしたかったのでカウンターに座った。

粟手さんは慣れた様子で焼酎の湯割りにレモンを頼んだ。

私はあまりスナックの経験が無いのでビールを貰った。粟手さんは次にウイスキーの水割りとチーズをとって商売の話や客筋の話しを続けて、カラオケしてもいいのと訊いてステージのマイクの前に立っていた。

 誰の歌をかけましょうか、お好きな曲を言ってくださいと催促されると石川さゆりの、津軽海峡・冬景色を選んだ。其れを聞いて、すこしおっさん臭い選曲の気がしたが歌い始めると惚れ惚れする声に引き込まれた。ほんとうに歌が上手だった。歌い終えて席につくと、マスターが相当歌いこんでいますね、と感心した様子で話しかけた。

「いえいえ、上手くは無いのですが出身が青森ですので時折思い出して歌いたくなります」

「其れにしても本当にお上手ですね、お連れさんも一曲歌って下さい」

おもわず照れ笑いしながら両手をクロスして拒否した。歌なんてとんでもない、一番苦手な事だった。来店の目的から大きくズレてしまった、と思った。

すると粟手さんがウインクの様な仕草を見せてからマスターに女装の方は今夜は居ないのですか、と切り出した。

「そうなんです、とんでも無い出来事があってもう来れません」

「とんでもない事って何んですか」

「自宅で殺されて、奥さんも行方不明になっているらしいです」

「それは大変な出来事ですね、あの方はここで雇われていたのですか」

「いえいえ、常連さんで毎晩のように来ていまして、ある時女装をして来店して接客をボランティアでさせて欲しいと言われ、驚きましたが別に邪魔になる訳でもなく、こちらには好都合だったので軽く認めましたよ、動きもよくて水商売に向いた女性だと思える程でした」

「聞くところによると不動産会社の社長さんだったそうですね、知っておられたのですか」

「勿論ですよ、通い詰められていた常連でしたから」

「そりゃあそうですね、女装される雰囲気の方だったのですか」

「いやいや全然その様な素振りは見たことがありません、私も不思議に思って訊ねた事がありますが、ただ笑っているだけで、一言、衣裳を変えると変身できるのでは、と思ってと言っていた」

私は話を聞きながらいつの間にか瓶ビールを手酌で二杯も呑んでいた。

粟手さんは頭の回転が速くて話し上手な人だった。話に入れなくてじっと聞いていた。するとマスターが赤目竜二さんの事を根掘り葉掘り聞くものだから不思議におもったのか、話を辞めて怪訝そうな顔になった。

「ところで、お客さんは赤目竜二さんに大変興味がおありの様ですがご関係がおありなのですか」

「関係はありませんが、赤目さんのお昼のエネルギッシュな活躍振りを聞いておるものですから夜は女装してこちらでお手伝いしていると聞きましてどのような方か一度お会いして見たかったのです」

「そうですかよく分かります、私は深く考えた事はありませんでしたが不思議な人だと思っていました、ある時、開いたままの奥様のLINEに、また会いしたいです、と会話しているのを見て心が壊れてしまった、とぽつりといった事がありました、女装してここにいると私が私でなくなって、とても落ち着くといっていました」

粟手さんもウヰスキーの水割りをチーズを肴に杯を重ねていた。

話しの内容から推測すると家庭内に複雑な問題を抱えているように思えた。

しかし赤目竜二さんの謎めいた様子は明らかになったが肝心の事件の引き金になったと思われることは何も分からなかった。それでも粟手さんと楽しい息抜きの時間になったのはよかった。酔いがまわって体がフワッとするような感覚になったのでかえりましょう、と立ち上がると食器棚の中に女装した赤目竜二さんの写真が見えた。私の表情に気付いたマスターが

「どなたか常連のファンが写真を持って来て置いているのです」と説明してくれた。ファンがいたなんて、頭がこんがらがってしまった。

階段は粟手さんに支られてやっと下りた。収穫無しで醜態を晒しただけに終わった。


 翌日 昨夜のスナック・レッドのマスターの話に出て来たLINEの「またお会いしたいです」の言葉が気になった。きっと誰か主人の留守に訪ねて来ているのではないかと思った。

 今さんを訪ねてみようと電話するとオーケーの返事がもらえた。伺うと前回同様にお似合いの着物で隣を見渡せる廊下のテーブルへ案内された。

私が話始める前に

「今日はどのような御用件で見えられたのですか」と問われた。

機先を制されたものだからちょっと戸惑ったが昨夜のことを思い出し

「もしかして事件の晩、隣に出入りした男性を見られませんでしたか、夜分で雨も降りはぎめていましたから外を見る事もないと思うのですが、いかがでしょうか」

「そうなの、先日お会いしたとき言い忘れていたのです、外に車は無かったのですが人が慌てた様子で走り出て周りを確かめるようにして足速に去って行きました。外のあわただしい様子に驚いてすっかり忘れていました。動きは若い人のように見えました」

 私は直観的に昨夜の話と不動屋さんの話から噂は事実で、奥さんには里子に出した子が居たと確信した。

LINEの「また会いたいです」の通話もその子とのやり取りだと思った。

何も知らなかった赤目さんは大きな誤解をしてしまったのだ。その辺りにこの事件の解決策が潜んでいる様に思えてきた。

「男の人の出入りは度々見られましたか」

「いいえ、あの晩だけです」

「何故直接家へ来たのでしょうか、LINEで伝へたい事は伝えられますのに、今さんにお訊ねするのは筋違いですね、すみません」

「いいえ、そんな事はありません、きっとどうしても直接会って話したい事があったのでしょう、例えば結婚などの、母親に聞いてもらいたい話が」

「たしかにそのような思いがなければ態々くる事もないでしょうね、其れよりも御主人の不在時に来たのは奥さんが隠し子の事を打ち明けていなかったのではないでしょうか」

「それは分かりませんが赤目さんが奥さんに惚れこんで猛列アタックして結婚されたと聞いた事があります、奥さんの事は全く知りませんが」

「それだったら鉢合わせすると大変なことになりますね」

「でも私にはそうだとは言えません、ここから家を見ているだけですから、みなさんの気持など分かろうはずもありません」

 想像をいくら積み重ねても想像が実像に変わることはない、今さんの目撃情報を粟手さんに伝えて捜査の手助けになればと考えた。

お暇をいって外へ出た。辺りに人影はなかった。


 警察署を訪ねて刑事課へ行くといつもの様に古井警部補が書類とにらめっこしていた。挨拶をしようと近付くと上目使いに私を見て、

「スナックでは何か収穫はあったか」と先に声を掛けられた。

刑事と違って記者の目線に興味があるのかなと思ったが直ぐに若い二人のスナックデイトに関心があるようだと分かった。

「余り成果はありませんでしたが赤目竜二さんの女装の事や奥さんが不倫しているのではないか、疑問を抱いていた様子が分かりました、それよりも今日事件現場の隣の今さんを訪ねて大きな収穫がありました、あの夜若い男の人が走り出て来た、と目撃情報をもらいました、以前にお会いしたときは慌ただしい様子に驚いて思い出さなかったと言っていました、御夫婦だけでなく、もう一人いて揉め事があったのではないかと思います、奥様とその人を探し出せば事件は解決するのではないでしょうか」

「有難う、あんたには言っていないけれどその辺のことは捜査で一応押さえている、しかし奥さんが投身自殺したのか、何処かへ隠れているのかも分からず難しい段階なのだ」

「そうだとは思いますが走り出た男の人は奥さんの隠し子ではないかと思います」

「それはどう言う事だ」

「同業者に取材をしていて何度もその噂を聞きました、そしてスナックで赤目竜二さんの女装の顛末を聞き出そうと粟手さんがマスター話していると男のことで奥さんともめていると言っていました、その男が奥さんの隠し子だと思います、赤目さんは奥さんの隠し子のことは全然知らなかったと話していました、たまたま早く帰宅した主人と隠し子が行き合って、争いが突発して事件が起きたのではないですか、奥さんの行方は不明ですが、調べれば隠し子のことはわかるのでは」

「なんだか、あんたの話を聞いていると一件落着間近に聞こえるが警察は動かぬ事実を積み上げていかなければならないので、情報として頭に入れて置く、ありがとう、そうそう例のダム湖の件は次第に明らかになって来ている、あの浜中太郎さんの名前が清多商事で借金した浮田吉哉の連帯保証人になっていたので呼び出して関係を洗い直して見ようと思っている、それにしてもダムから海へ誰が、どのようにして運んだか、何故ダム湖で見つかってはいけなかったのか、まだまだ疑問点だらけだ、私としてはうやむやではなく、事件になって捜査が始まったので安心して退職の日を迎えられる」

 古井警部補は退職間際に死体の写った一枚の写真を立件するかどうか迷っていたうっとうしい気分から開放されて安心していた。


夜 ビールを飲みながら古井警部補が言った、誰が、どのようにして、何故、の言葉を反芻したが堂々巡りするだけだった。

明日もう一度ダムへ行って現場の様子をよく見て来ようと思った。


 月曜日の九時を待ち兼ねて浜中太郎は警察署へ向かった。

もうこれ以上ヤクザの脅しには耐えられなかった。

先日ありのままを告白しておれば、結果がどうあれ警察とつながっている安心感が生まれていたはずだった。秋枝も自分も少しは気分が楽になっていたはずだ。悔やんでも仕方がない、スッカリ事実を述べて判断をしてもらおう。

 刑事課の部屋の前で一呼吸してノックをすると人の気配がしてドアが開いた。大勢の人が朝の打ち合わせをしていた。皆んなが同時に振りかえった。

圧迫感を受けたが、

「私、浜中太郎と申します、ダム湖の件でもう一度担当の方と話がしたいのですが」

それを聞くと粟手さんの所へ行って耳打ちした。立ち上がって浜中さんを隣りの部屋へ案内した。

「丁度いいタイミングです、もう一度詳しくお聞きしたいことがありまして、ご足労を願おうと思っていたところです、会合がおわり次第参りますので少しお待ち下さい」

 浜中太郎は独りになるとなにかしら心細くなった。

 十分程過ぎると粟手警部補が足早に入ってきた。

「お待たせしました、まず先に浜中さんのお話をして聞かせて下さい、その後でわたしの質問をさせて貰います」言い終えるとノートをだして確りと浜中さんの目をみた。刑事の顔になっていた。

「先日お話ししたときダムへ落下した人を目撃してたまげて逃げ帰った、と言ったのですが、実は知人が清多商事から借金をして夜逃げをしたのです、私が連帯保証をしていたので借金の返済を迫られ、生命保険金で払えとしつこく脅され、頭が混乱してしまってダムへ飛び込むから見に来い、と呼び出したのです、そして決心が鈍るので、背中を押してくれと押し問答になりました、彼は押すと殺人になるから嫌だと中々応じなかったが遂に決心をして、後ろへ下がって駆け出しました、私は目をつぶって手をしっかり握り締め、俺は死ぬと思った瞬間私の脇をふらつく様にして通りすぎてダムへ落下したのです、何が何だか分からず、動転して振り返りもせず車に飛び乗って帰宅しました。ところがその晩今度は清多商事の専務から、自殺は望まないが、兎に角返済をしろと脅されました」

「よく分かりました、清多商事の社長がダムへ落ちた時の様子は専務が携帯でビデオに撮っていたので浜中さんの罪は救命の通報をしなかった事になります、強迫を受けていた時に警察へ通報してくれていればこの事件は起こらなかった筈です、残念です、この事件はまだ解決しておりませんので又ご足労願うかもしれません、有難うございました」

「一つ質問しても宜しいですか、ダムへ落ちて亡くなった人が来島海峡で見つかったのですか」

「私どもにもよく分かりません、それが解決されればこの事件が決着するのですが未だ少し時間が掛かります」

「それと私に対する処分はどの様になるのですか」

「警察としては今のところ立件するつもりはありません、亡くなられた方の身内の方が通報義務を怠ったと民事裁判を起こせばですが、恐らくそれは無いと思います、借用金については弁護士に聞いてください、以上でよろしいですか」

浜中太郎は一と安堵したけれど借金を背負わされている事には変わりなかった。

 

 美波怜は古井警部補の、誰が、どの様にして、何故、の言葉が頭から離れなかった。モーニングの熱いコーヒーを飲み、野菜たっぷりのサラダと半熟卵を食べながらも消えた死体の謎解きを考えていた。

何故清多商事の専務の黒道清造が現場でビデオを撮影していたのだろうか、粟手さんや古井警部補は経緯を聴取しているのだろうか、その結果は、ここに謎の解法があるように思えた。現場へ行けば何かを掴めるような気がした。レジをして外で大きく手を広げ背伸びして深呼吸すると頭の靄が晴れた。車をダム湖へ向けてスタートした。


 ダムは相変わらずひっそりとして人気はなかった。湖面を見下ろしながらゆっくり歩いて堰堤を横断して現場へ着いた。水中はあの写真の状態のままだった。黒道清造は何処にいてビデオを撮ったのだろうかと見回したが分からなかった。空を見上げた時堰堤の上に渡された一本のワイヤが有った。不思議に思ったので携帯で写真を撮った。死体の移動は黒道が画策している筈だ、粟手さんに話して徹底的に調べるように言わなければならない、と急く気持ちだったがルーチンの市役所回りをしてから警察所へ行くことにした。行く先々で二つの事件の捜査状況が話題になった。


 いつもの様に混雑した駐車場の空きを探していると浜中太郎さんが玄関から出て来るのに気付いたので大急ぎで駐車して追いかけた。彼が車を切り替えしているところでやっと会えた。声を掛けると私を見て一瞬顔が曇ったようだった。

 「何か思い出されたことでもあったのですか」

 「そうですね、全て話してきました、失礼します」と言って行ってしまった。

「全てのことを話してきました」の言葉で彼と沈んでいた死体がつながっていた、と確信した。

 古井警部補か粟手さんに聞かなければと弾む足取りで二階へ上がって刑事課のドアをノックした。返事が無いのでノブを回すと古井警部補が一人だった。

「少しお聞きしても宜しいでしょうか、浜中太郎さんと会ったのですが全て話してきました、言っていました、私の予想どおり彼とダムの死体と繋がっていたのですね、どのような関係だったのですか」

「いや、今朝彼がやって来て告白したばかりなのだ、あんたは事件の端緒をつかんだ人だから、オフレコだが一応話してあげよう」と言って概略を教えてくれた。自分の推理に満足した。すると今度は清多商事の黒道が死体を移動したとしか思えなかった。

「古井警部補、問題の死体の移動は清多商事の黒道の仕業としか思えません、尋問は済んでいるのですか」

「言われる通りだが、意図と方法がまだ掴めないのだ、あの豪雨の中でどのような方法だったのか」

「よく分かりました、赤目竜二事件の進展はありましたか」

「貴方の報告にあった奥さんの隠し子を探し当てたので聴取を始めれば何か新しい事実が見えてくるだろうと思っている。奧さんの所在と凶器は未だ分かっていない、期待しておいてくれ」


 捜査陣は清多元治の死因をダム転落死と断定した。

しかしまだ死体がダムから海へ移動した謎は解けなかったが黒道清造の携帯にあった清多元治落下のビデオから、彼を尋問すれば明らかになると確信を持っていた。彼を呼んで強く尋問することになった。

 尋問を始めると、ビデオは社長が何も言わずに出て行ったから心配で後をつけただけで何となく撮っただけだ、と供述した。何故救命しなかったか、と問うと警察には関わりたくなかったと言い張った。死体を動かしただろうと聞くと、何の為にと言い、それ以上進まなかった。


 赤目竜二の妻赤目節子の隠し子が分かり呼び出して聴取することになっていた。しかし凶器も見つからず、奥さんも見つからない状態で強くでる事も難しいが、もし奥さんが生きていて何処かに潜んでいるとすれば、息子が聴取されたと分かれば隠れている訳には行かないはずだ。殺人ではなく事故であっても、息子が疑われないように責任を自分ひとりで取ろうと考えて来島海峡大橋へ向った筈だから。


 赤目節子は事件当夜正気を失なって篠突く雨の中大橋から飛び込もうとした時思いとどまらせてくれた人のアパートに居た。彼は葬祭センターで働く祭田良一だった。あの雨の中でストレッチャーを押していた不思議な人だった。あの様子は死体を橋から投下して急いで車へ戻っているところだった。冷酷なことをした後で何故私を助けたのか分からなかった。気付かないふりをして通り過ぎれば私は橋から飛び降りて居なくなり面倒を背負い込む事もなかった。どうして私を助けたのか、誰を海へ落としたのか、問い正したかったけれど切り出せなかった。このままここで世話になっているわけにもいかなかった。世間では私の生死が大きく取り上げられていた。冷静になってから考えると主人の死は不可抗力で私も息子も関わっていない自傷死だ、と思えるようになって来た。

 警察署へ出頭しようとして彼に告げるとそれは駄目だと強く反対された。理由を問いただすと、それは言えないと繰り返した。赤目節子も何時迄も世話になっておれない、と哀願した。折り合いを付けるには、あの晩の事を教えて貰って彼に影響が及ば無い方策を立てなければ解決しないと分かったが、もしあの夜息子の姿を目撃した人がいて捜査を始めていて私の出頭より先に見つけると息子が殺して逃げた、と判断され殺人容疑者にされてしまえば大変だ。はやく彼の了解を何としても取りつけなければと焦った。そこで祭田良一が登場しないストーリーを警察で告白することを提案した。すると乗ってきたので筋書を話すと了解した。彼の投下した死体が誰だったのかは聞けなかった。

 

 赤目節子は夜人目に付かないように祭田良一の家を出て赤目不動産の持家へ移った。数日間隠れて生活をしていた生活臭を残そうとして水道の水を三十分ほど出しっぱなしにして台所とトイレに使用の跡を残した。暗闇の部屋で蹲るように座りこみ膝を抱いてまんじりもせず朝を迎えた。警察署へ一刻も早く行って、あの夜の出来事の顛末を息子に触れずに話したかった。祈るような気持ちだった。


 九時過ぎに警察署へ着いた。玄関を入ると体が震えた。足を踏みしめるように歩いて受付カウンターへ行くと用件を尋ねられた。ちょっと口籠ったが用件をつげると、一瞬慌てたような仕草で電話機を取ってダイヤルを回した。

直ぐ担当者が降りて来ます、と言ってまじまじと私を見た。

電話機を置く間も無く刑事が下りてきた。

「赤目節子さんですか」

「はいそうです、ご手数を掛けて申し訳ありません」

「いいえ、二階の刑事課へ案内します」

部屋へ入ると粟手警部補が待ち構えていた。

息子と母親を同時に尋問すれば事件の解決は見えた、と確信した。

 今日は忙しい一日になるぞ、と気をひき締めて赤目節子を取調室へ連れて行った。手元の資料は赤目竜二の検死結果だけだった。退職間際の古井警部補が粟手警部捕の取調べを監督する様に横に座った。

粟手警部補が録音のスイッチを入れて、規定の文言を述べ、赤目竜二事件の取り調べが開始した。


「赤目竜二さんが死に至った様子をありのままにお話し下さい、今日は息子さんの取調べも併行してしますので齟齬があれば直ぐ判明しますので事実を言ってください、ではお願いします」

息子も既に呼び出されて尋問を受けていると聞いて、その言葉に胸がつまって言葉が出なかった、黙っていると粟手警部補が急かす様に

「どうかなさいましたか」

「いえ、何もしていない息子が尋問されていると聞いたものですからたまげたのです、なぜですか、誰が、何のつてで捜し出したのですか、無関係な子が可哀想です」

「それは話を聞く過程で私どもが判断して行きます、関係がなければ何も心配することはありません、貴方が心配している、不法に逮捕でもされてはと言う心配は無用です、では肝心の出来事を事実通りに順序を追って話して下さい」

「はい、始めに何故息子が来ていたのか、その訳からお話します、私は大学時代に好きな人がいて、関係を一方的に結ばされて妊娠して生んだ子を直ぐに里子に出しました、以後その子のことは一切分かりませんでした、ところが最近電話が掛かってきて、さがしあぐねてやっと生母を見つけました、と言うのです、確かに里子に出した子はいましたが、果してその子が本当に私が生んだ子かどうか分かりませんので一度郊外の喫茶店で会いました、間違い無いと思いました、でも何故二十五年も経って私に会いたかったのか訊ねると、結婚をするので生母に会いたかったと言われました、ラインを開設して連絡を取り合えるようにして、何度かやり取りをしました、あの晩は主人が接待で遅くなると言っていたので八時までなら家で会えると連絡して来てもらっていたのです、ところが主人が突然帰宅して二人で話し合っている所へ飛び込んで来て私の不貞をなじり、息子を罵倒し、何を思ったかテーブルへ跳び上がった拍子にテーブルクロスが滑って後ろへ倒れて落下時に後頭部をテーブルの角へ打ちつけて動かなくなってしまいました、咄嗟に息子を巻き込んではいけないと思って帰し、119番してから無我夢中で車を走らせていました、気がつくと来島海峡大橋の馬島バス停の所にいました、車を停めて車外に出ると猛烈な雨が降っていました、運転中は動転していて雨にも気付いていませんでした、必至で柵を乗り越えようと身を乗り出し俯いて下を見た時顔を流れ落ちる雨で我に帰りました、すると飛び込もうとしていた興奮が覚めてたじろいでしまったのです、飛び込めませんでした、恐ろしくて震えながとまらず、運転は出来ないので車からバッグをつかんで運動靴を履いて馬島へ下りる道路下の通路で夜明けを待ちました、ヒッチハイクのようにバス停手前で車に手を振って止まってくれる車を探しました、すると一台の車がバスレーンに停まってくれました、市内でタクシーに乗り換えて赤目不動産管理の建物へ行って隠れておりました、そのまま警察署へ行くのが一番良かったのですが主人殺しにされるのではと思うと勇気が出ませんでした」

「それでは何故今出頭されたのですか」

「それは生後直ぐに里子に出し、二十五年も経って結婚を機にようやく探し出してくれた生母として事件に巻き込むことは出来ません、この事件は私が主人に息子の事を告白していなかったことが発端だと思て主人と息子に申し訳がありません、恐らく息子と私のラインのやり取りを置きっぱなしのスマホで見て大変な勘違いをしたんだと思います、私が結婚時に事実を話しておくべきでした」

「私どもの調べでは貴方に隠し子がいる、と言う巷の噂を聞いていました、そしてご主人が急に女装でスナック・レッドへ来るようになって、無償で手伝い始めた事も知っています、その時期に貴方の秘密を知ったのではないでしょうか、帰宅時の服装は女装でしたか」

「いいえ、朝と同じ出社時の服装でした、私は主人の変身は全く知りませんでした」

「スナックのマスターに夜家に居たくない、女装すると現実に煩わせられない、別人になれる、と心情を吐露していた、と聞きました、貴方が赤目竜二さん以外の人の子を生んでいて、その子が突然現れ、貴方を横取りされたような、到底許すことの出来ない気持ちが心の中で渦巻いていたのではないですか、彼が飛び掛かろうとした心情がわかりました、不幸な事です、ところで貴方が隠れていた家は何処にありますか、現場検証をしようと思います」

「私がご案内します」

「住所が分かれば私共が行きます」

赤目節子は現場へ行かれたら嘘がばれるのではと不安になった。でも嘘をつき通さなければ助けてくれた人に迷惑がかかるばかりでなく、彼も逮捕されてしまう、死体遺棄を目撃しておきながら黙っていれば私も罪を重ねることになってしまう、益々不安が募った。

その時聴取していた粟手警部補に連絡があった。すると

「息子さんの聴取が終わって、二人の証言が一致して赤目竜二さんの死は事故死だとおもわれます、しかし貴方には事後の行動を調べて証言通りか確かめる必要がありますのでその検証がすむまでこちらにいてもらいます」

 

 美波怜はルーティーン仕事を済ませて警察署の玄関を入るといつもと違う空気が漂っているような気がした。普段は寄らない受付へ行って、訊ねると赤目節子と里子の二人を聴取していると言われた。あわてて階段を駆けあがり刑事課のドア開けると古井警部補はいつもの席にいた。近寄って挨拶すると顔をあげてにこっとした。解決が近いと感じた。

「今日はどうかわからないが明日には発表があるだろう」と言った。

気になったがここに居ても情報をもらえそうも無いので、もう一度ダム湖の現場へ行ってみようと思った。

 死体をどのようにして移動したのか、誰が、何故、難しい仕事をしたのか、考えれば考える程不可解さが増した。道に慣れたのかあっと言う間に着いた。

 今回は車を堰堤へ乗り入れて堰堤を過ぎて広場へ止めた。現場で水面を見た、変化はなかった。

死体を水中から引き揚げた方法はどうだったのか見当もつかなかった。

思わずため息めいた深呼吸をして空を見上げてじっとしていた。その時空中に大きなワイヤがダム湖を跨いで張られているのが気になった。前回にも見ていたが気にとめもしなかったけれど今度は事件に繋がるものがある様に思えて妙に気になった。

 あの日曜日の夜は遅くなってから豪雨になった。一体誰があのように手際良く死体を運んで海へ流したのか、そして目的は何か、考えると益々こんがらがってきたが、事件当時社長を追って来てビデオ撮っていた清多商事の専務黒道清造が関わっているとしか考えられなかった。黒道の仕業だとすれば社長の後釜は専務に回ってくるのは必定だから態々死体を動かした動機は何処にあるのだろう。

ここで又考えが頓挫した。

 警察は社長を追い掛けた理由やビデオの件を確り聴取をしているだろうけれど情報の発表はまだない。確証を積み上げたものでないと想像と言うよりも妄想でしかない。考えずに居ようと思ったが頭は休んでくれなかった。

ダムを跨いだワイヤーが又思い浮かんだ。頭を冷やすには冷えたビールが薬だと冷蔵庫をあけたが無かった。

 思いきって焼鳥屋へ向かった。店内は焼鳥のにおいが充満し男性の怒鳴るような声が飛びかう別世界で悩みは吹き飛んでしまった。ビール、鶏皮、せせり、つくね、きも、親もも、、旨いけれど食べ過ぎた。

明日は元気が出そうだ。


 ベッドに大の字になって天井を見つめていると赤目竜二の事件は殺人事件ではなく事故死になるだろうと思われた。しかし事故の現場にいた赤目節子と息子が逃走した事実の解明が必要だった。中でも赤目節子が来島海峡大橋上に靴を残していて投身自殺を匂わせた事、車を置き去りにして誰に市内へ運んで貰った貰ったのか疑問解明が残っていた。清多元治の事件も直接手を下して殺害したと言う事実は出てこなかった。しかしダム湖から海への移動の謎を解明しないと解決にならない。これには黒道清造が関わっていると考えるのが妥当だが意図が分からない。粟手警部補に厳しく追求してもらいたい。一度会って気になっているダム湖のワイヤのことも話したかった。


 粟手警部補は赤目節子と向い合って彼女の逃走後の足取りを追求していた。

豪雨の中車を使わずどの様にして市内へ戻ったか、彼女の告白通りだとすれば止まってくれた車を調べなければならない。しかしヒッチハイクに応えてくれた人の名前も住所も車種も分からない、と言うばかりだ。信じることはできなかった。彼女の告白は嘘だと言う疑いが増すばかりだった。隠れていた住宅も捜索をしたが彼女の言う事が事実だと証明出来る状況は無かった。作り話だと結論付けた。

 

 一方清多元治事件で黒道清造に、社長を追いかけてビデオを撮り、ダムへの落下を目撃したにも関わらず救助の通報をしなかった理由を訊ねた。あいも変わらず、警察とは相性が悪くてどうしても通報できなかった、の一点張りで埒が開かなかった。しかし粟手警部補は相性が悪くて、の言葉の裏に彼が明かせない理由があることは明らかだと確信していた。それが判れば一挙にこの事件も解決するのだが、と忸怩たる思いを募らせていた。


 美波怜は二つの事件が凄惨な殺人事件にならなかったのでほっとした。

しかしどちらも何か謎をはらんでいて中々解決にならないのがストレスになっていた。

赤目節子が逃走後の真実を語らないのは何故か、誰かを庇っているのか、そこが解明されれば一件落着になるので粟手さんの手腕に期待した。

清多元治の事件は死体の移動の問題が解ければこの件も解決するはずだと思った。それに関わっているのが誰で、何故、そして実行方法をはやく見つけて欲しかった。その為に私の考を粟手さんに話したかった。警察と違った見方が捜査の突破口になるかも知れない。

警察は解決を目前にして足踏みしていた。


 そこへ自首したいと一人の男が出頭してきた。

受付で、清多元治事件に関連した事を話したい、と言った。

びっくりして受付係は刑事課へ通話すると直ぐに係員が下りてきた。

 刑事課へ案内された男は粟手警部補にダム湖から死体を車で運んで来島海峡大橋から海へ投げ落とした、と驚きの告白を始めた。晴天の霹靂だった。

捜索線上に現れてもいない全くの予想外の人物だった。


「先ずあなたの名前と住所、生年月日、勤務先、年齢、結婚の有無などから、そして事件との関係を時系列に沿って詳しく話して下さい」

「私は新聞で清多商事の社長清多元治が来島海峡大橋の馬島側の橋脚のケーソン部分で見付かった事と赤目竜二事件で妻が行方不明になっている、と言う記事が並んでいるのを見て、赤目節子を助け、更に彼女の息子を事件に巻き込みたく無いと言う説得に負けて安易なアリバイづくりに同意し、彼女が警察へ出頭するのに同意した事を悔やんだが、自分にとっては黒道清造から逃れる良い機会だと考えて自首を決心しました、私は清多商事の社長の死の現場にいた訳ではありません、専務の黒道清造に借金返済の催促で脅迫を受けていました、あの事件が事故か殺人か分かりませんが社長の死体をダムから海へ運んで来島海峡の急潮に落とせば借金を棒引きにすると言われました、私はダイビングの資格を持っています、そして葬祭場勤務ですから死体の扱いには慣れていますから出された好条件をのみました、しかし大きな問題がありました、一人で日曜日の晩に実行するように指示されました、無理だというと黒道が方法を教えてくれました」

「一人で水中から死体を引き上げる方法とは、それはとても無理だろう、天からロープ吊り下げて引き上げるのか」

「私も無理だと思いました、ところが彼の提案を聞くと案外上手くいくのではないかと思ったのです、必要なワイヤは彼の方で準備することになりました」

「よくわからない、レッカーでもチャーターするのか」

「いいえ、ダムを跨ぐ大きなワイヤが空中にありました、ダム建設時に生コンクリートを運んでいた名残りです、そのワイヤ越しに5ミリワイヤ垂らして死体を括り付けて一方の端を車に掛けて車を動かせて引き上げるのでした、不安はありましたが理屈は通っているので引き受けました、その夜は豪雨になりましたが一人でなんとか地上へ引き揚げてストレッチャーへ乗せました、作業跡は何も残りませんでした、直ぐ来島海峡大橋へ向かい、馬島入口前に車を停めてストレッチャーの死体を投下して急いで車へ向かっていると女の人が身を投げようと柵を越えるところに出くわし、思わず抱きかかえて下ろし、兎に角なだめて私の車へ乗せて連れて帰りました、事情を聞くと赤目竜二さんの妻で主人が家で事故死した、と言うのです、里子に出していた息子が現場に居合わせたので帰らせてから119番に電話して直ぐに家を飛び出し、自分が死ねば夫婦間の縺れからの事件で終わり、累が息子に及ぶことはないとだろうと考えた、と言っていました、報道で息子の目撃情報が浮上しているのを知って、警察署へ出頭しなければとはやる気持ちの中で、助けた私に迷惑をかけたくないと、アリバイ工作を提案しました、私はそれを受け入れて彼女は出頭しました、そのアリバイは直ぐ見破られて私は捕まると思いました、それ以上に長い間脅し続けられていた清多商事専務の黒道清造に借金棒引きの条件で死体遺棄持ち掛けられ、遂に悪事に手を染めてしまった自分の不甲斐なさを断ち切ろうと思ったのです」

「よく分かった、二つの事件が来島海峡大橋で交わっていたとは、一挙に謎が解けた、ところで黒道清造が社長の死体遺棄を頼んだ理由を聞いたかね」

「いいえ、それは分かりません、私は彼がダムへ突き落としてその処分を頼まれたと思っていました、ところがそうではなかったので不思議に思っていました」

「そうだよな、あんたに理由を説明する事もないよね、ううん、何故死体遺棄を頼んだのか、疑問だ、解決せねば」

 粟手警部補は赤目節子と祭田良市の出頭で二つの事件の詰めが出来たと思った。あとは黒道清造の死体遺棄に関する自供を引き出せば検察の仕事に移って普段の業務に戻れると楽観していた。ところが黒道の自白は難渋して一向に出口が見えなかった。

息抜に美波怜に連絡を取って食事に誘ってみると二つ返事で快諾した。


粟手警部補と美波怜は波長が会うのか気の置けない友人のように会話がはずんだ。捜査内容は避けてお互の出身地の話しや大学時代の話から趣味の話しになって、美波怜はスキューバダイビングでサンゴ礁に潜ると地上とは違った自然の素晴しさを実感させられると嬉々として話した。

「ダイビングは夜でもするの」

「いいえ、私は恐くてとても出来ません」

「上に灯りがあって限られた場所では如何ですか、例えば美波さんが写真を撮ったダム湖の死体の所では如何ですか」

「あそこであれば出来ると思います、何故その様な事を尋ねられるのですか、死体の移動の方法が分かったのですか、私はずっとその方法を考えていました、あそこにはダムを跨ぐ太いワイヤが頭上にあって、それが妙に気になっていました、ワイヤを利用すれば上手く吊り上げられるのではないかと気付いて、粟手警部補にお話しようと思っていました、方法が分かったのですか」

「ここではお話し出来ませんが素晴らしい推理をされています、脱帽です、新聞記者って美波さんの様に仕事にのめり込むのですか」

「いえ、それは人それぞれだと思います、この事件は日曜日のドライブで偶々立ち寄ったダム湖で写した、と言うよりも無意識に撮っていた写真に死体らしきものが写っていて、古井警部補に見てもらうと、間違い無く死体だ、と言われたのですが丁度赤目竜二事件が発生していて忙しく、撮影翌日に撮影現場へ確認に行ってみると死体が消えてしまったのです、死体の無い状態では事件として扱えないのではと思いました、古井警部補も退職をひかえて上司に報告しづらかったのです、そのような経緯があって宙ぶらりんの状態が続いたものですから絶えず写真の事が気になってずっぷり事件にのめり込んでしまったのです、そして赤目竜二さんの方はお隣の今響子さんのお話に興味をそそられたからです、のめり込んだというよりは事実を追いかけていただけです、記者は粟手警部補さんらが解明した事実を書けば良いのですが、ついつい早く事実を知って読者に届けたい、と勢いこむと知らぬ間にのめり込んでしまうのです、因果な仕事です、そちらは犯人を捕まえると言う厳しいお仕事ですね、粟手警部補はいい大学を出られていますのにキャリアコース選ばずどうして地方へこられたのですか」

「法律に関する勉強は頑張りました、勉強の成果を試そうと司法試験を受けました、運が良かったと言うかまぐれで合格したのです」

「では弁護士か裁判官か検察官になれば良かったのでは無いですか」

「そうすれば両親も喜んだと思います、でも私の夢は現場の警察官になることだったのです、良くても悪くても一度自分の夢を追うことにしたのです、両親の説得は大変でした」

「最初古井警部補に遅刻を注意されているのを見た時失礼かもしれませんが、この人警察官なの、とよくない印象を持ちました」

「あああの時ですか、無様な姿をお見せしました、前夜いろいろ捜査の仕方とか尋問の要領などの勉強をしていて、先程の話ではないですが、すっかりのめり込んでしまって気が付くと朝の四時だったのです、そのまま起きていればよかったのですがついたぶ寝してしまったのです、まずかったです」

「美波さんが新聞記者になった動機はなんですか」

「私は国語が好きで国文学を学びました、新聞記者など全然思ってもいませんでした、大企業の広報関係を何社も受けましたが上手くいきませんでした、高校の国語教師の資格も取って採用試験にも通っていましたが教育実習を体験した時教師は向いていないと自覚しました、偶々新聞社の記者募集の広告を見て受検すると合格したので入社したのです、実社会、それも新聞記者の仕事は大変でした、寝坊助が二十四時間体制のような仕事に飛び込んだものですから超大変でした、そして警察廻りは女性記者には本当に大変な仕事でした、地方にいると一人舞台の様な仕事ですから気が抜けません」

「警察は女性記者には厳しいのですか」

「そう言う訳ではありませんが私の駆け出し時代は男社会で警官の方も女性の対応に不慣れだったのでしょう、今はその様な事はありません、それよりも清多元治の件で黒道清造が死体遺棄を指示した意図についてはどの様にお考えですか」

「美波さん、事件については話せません」

「すいません、うっかりしておりました、それでは私の見解を噂話として聞き流して下さい、清多元治の死には関係ありませんが、死体が消えたとき、私は黒道清造が噛んでいると直感しました、彼に利権が思わぬ形で転げ込んできたのですもの、もしダムで死体が見つかれば警察が清多商事を調べると読んで棋戦を制したのです、ダイビングの出来る人を脅すかどうかして死体を夜陰んに乗じて海へ捨てさせたのです、来島海峡大橋からだと急潮に運ばれて殆ど見つからないのです、そうなれば清多商事に捜索も入らず安泰だと思ったのでしょう、彼は沢山悪辣なことをしているでしょう、白状させてください、長々とお喋りしてすいません、折角の食事が不味くなりましたね」

「いいえ、その様な事は有りません、大変楽しい時間でした、二つの事件は同時に解決できる様な気がします、一両日中には発表があると思います、古井警部補も安堵して退職出来るでしょう、楽しかったです、事件の無い時に焼鳥にでも行きましょう」


 黒道清造の聴取はまだ続いていた。押収品に浮田吉哉の家と土地の権利書が黒道清造名義に書き換えられているものが出て来た。社長が連帯保証人の浜中太郎に支払を迫っている裏で黒道清造は内緒で不動産の掠取をしていた。この様なあこぎな事がなければ不動産を手放せば夜逃げせずに浜中太郎に迷惑をかける事もなかった。

 捜査の過程で浮田吉哉の居場所が分り連絡がついて帰ってきて出頭することになった。浜中太郎にも知らされた。それを知って動揺した。彼の責任転嫁で一度は自殺まで強要された切迫した気持の混乱を思い出して体験させられた重圧の鬱憤を彼にぶっつけたい高ぶりを覚えた。しかし追い詰められた状態を親友にも言い出せなかった彼の辛さを思うと厳しい気持ちも萎えてしまった。警察の話だと彼の借金は無登録の金融業者が高利を要求しているので法定金利にされ、黒道清造の不当な不動産の名義変更も元に戻され、最悪不動産の処分で決着するだろうといわれていた。浜中太郎は割切れなさは残るが得心せざるを得なかった。自分の人生を棒に振りかけた事件だったから浮田吉哉との関係が元に戻ることはない。人間関係の難しさ、複雑さを思い知った出来事だった。


 赤目竜二事件は祭田良市の自白で赤目節子の事件後の足取りが分かった。現場に留まって状況を説明してくれていれば難しい事件ではなかった。二十五年ぶりに再会した息子に嫌疑が掛かるのを恐れて、動転した精神状態で、自分が居なくなれば彼に累が及ばないと考えたのだろうが、まさか死体遺棄実行犯に命を救われるとは思いもしなかったはずだ。運命って予想出来ない現実の結果だ。

それにしても赤目竜二は何故あのような行動に出たのか、彼を妻節子の愛人と思ったのか、隠し子と思ったのかはもう聞き出せない。しかし彼が変節を来して女装を始めて、家に帰りたくない、と言っていた時期から考えると妻節子に抱いていた愛情が疑心に蝕まれはじめた時だったのだろう。難しくても真実を節子は夫にハッキリと里子に出した息子の事を打ち明けるべきだった。そうしておれば何事も起こらなかった。


 美波怜は日曜日のドライブで撮った一枚の写真が巻き起こした事件をベットで眠れぬままに思い返していた。殺人事件ではなかったが現実の社会では想像できないようなことが日々何処かで起きているのだ。私はその事実を社会に伝える仕事をしているんだ、と言葉に出して自分を励まして天井に向かって深呼吸を繰り返していると眠りこんでいた。


「何して居る、早く起きろ」の声で目が覚めた。

また例の夢を見ていた。




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消えた死体 @yuzo82

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