呼井亭の秘密

ハナビシトモエ

裏通りの屋敷

「昨日さ、裏通りの筋に入ったんだ。古びた屋敷からスーッと人影が」


「タンちゃん裏通りは行くなって先生言ってたじゃん」

 タンちゃんはむくれている。


 高校生の彼女に会いに行く為には裏通りを抜けるのが早いのだ。


「でもさ、人影はいたんだよ」


「またまたぁ」

 裕一郎ゆういちろうはおどけてタンちゃんの肩を後ろから叩いた。


「本当だって! いたんだよ。女が」


「彼女がいるからって偉いんじゃないんだぞ」


嫉妬しっとか? 裕一郎」


「冗談だよ。裏通りに屋敷なんてあったか?」

 今、知らないふりをした。


「古びたやつあるじゃん。よーし、見に行こう。かっちゃんも行くだろ」


「うん、まぁ」

 正直なところ、あまり行きたくはない。


 僕はその建物が『呼井亭よびいてい』であることを知っていた。小さな川の橋の水路の横にポツンとある無人の木造二階建ての建物が呼井亭だ。


 裏通りは繁華街で夕方になると明かりがつきだす。子供の行く町では無いとよく言い聞かせられる。


 それに呼井亭がも知っている上で行かないといけない。試しに。


「正直、変な噂もあるし僕は不安だな」

 と、言ってみた。


「かっちゃん、中三になってまだお化けとか信じているの?」

 タンちゃんは呆れた顔で首を横に振った。

「いいか、かっちゃん。男は一度探究心を持ったら追い求めないといけない生き物なんだ」

 分かってたよ。無駄って事は。


「今日はやめにして、土曜日にしない?」


「なんで?」


「都合が悪い。じいちゃんが泊まりに来る」

 腰が悪い爺ちゃんは週に一度、母の車で金曜日にやってくる。


 爺ちゃんの住んでいる町には整骨院や整体は無いのだ。


 痛い腰をどうにかする為には僕の家族の存在は不可欠だし、我慢し過ぎて生活の質が落ちると、もう八十過ぎなのでボケ一直線だ。


 兄は来年大学受験、父は接待で夜に帰ることも多い。

 朝、昼、夕方を主婦の母が回している。僕だって中学生だし、兄も食べ盛りだ。

 この過密スケジュールのどこに爺ちゃんの介護時間を増やせると言うのか。


 結局、何か出来るわけではない。さっき食べたご飯をもう一度出すわけにはいかないし、帰りたいと言われたからといって一緒に散歩も出来ない。


 僕はただ毎日を過ごして、たまに爺ちゃんに会う。それだけの日常だ。そうだ、爺ちゃんなら呼井亭の事を何か知っているかもしれない。


「ただいま」

 平屋なので、他の団地住みの多い友人のよりは階段に苦労せずに済んでいる。


「おぉ、勝也かつやもまた大きくなったか」


「何回目だよ。爺ちゃんも若くなったな」


「全くいつも良いように言うなぁ」


「母さんは?」


「肉屋でステーキを買ってくるとさ、お父さんは遅いし、お兄ちゃんは塾の補講だから、三人でステーキだって」


 くすくす笑う爺ちゃんから老いは感じられない。それでも噛む力は弱く、飲み込む力も若い頃よりはずいぶん落ちた。


 俺ははししか、使わんと頑固な事を言ったこともあった。

 そしてその日の晩御飯で母さんは大きなステーキを出して、これを箸で食ってみろと言い、それから爺ちゃんはナイフとフォークを使うようになった。


「爺ちゃん、呼井亭の」


 言うと一瞬。

「あそこは行くな」

 珍しく静かに怒気をはらめて言った。机を叩いたかもしれない。


「行きたくはないさ、でも友達がどうしても行くって言うんだ。行ってはいけないことは僕でも知っている。なぜ?」

 女の人の幽霊が出る。それくらいしか知らない。


「いいか。前に言ってもけして二階を見上げてはならないよ。連れて行かれる」


「何に?」


「嗚呼、恐ろしい恐ろしい。二階の窓に見た男が一番欲しい女が映る。それを一度見てしまったら、通い詰めて、そのうち一階の戸が開き入っていく。恐ろしい恐ろしい」


 呼井亭には女がいるのは真実で本当ではない。けして行ってはいけないよ。行くのはいけない。この辺の子供はそう言われて育った。


「呼井亭はなんでこんな名前なの?」


「売春宿だったんだ。あそこはそれをお偉い方々がこんな町に売春宿なんてあってはならんと思って売春婦を全部クビにした」


「その霊が出るの?」


「どうだろうな。残滓ざんしたたりになったのかいなか行くんじゃない。お前だけでも行くな」


 

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