宇宙 方舟 エラー

@ironlotus

 

私は、ずっと夜にいた。


人類の発祥地、地球という惑星が滅びを迎えるまさにその時。当時であれば誰でも知っていた神話になぞらえて、一隻の巨大な宇宙船が地を離れた。

船の名前は、『ノア』。これは、私の名前でもある。

船に乗り込む人たちの、安堵や、決意、悲壮に覚悟、ない混ぜになった表情すべてを『ノア』は記録していた。

乗り込めなかった人たちの、悲嘆や憤怒。諦観に、絶望。


私は、すべてを、覚えている。


『ノア』は、私は、神話よろしく、全てを乗せた。

人間。動物。文化。情報。資料。資源。そして記録。


いつか、安息の星を見つけた時に、地球を忘れないために。

人類が築いたものを。捨てられた惑星を無駄にしないために。


「でも、すべて、無駄になってしまいました。」


母星を離れた『ノア』は、みるみるやせ細っていった。

宇宙の果てしない広大さ、困難な旅路に人々の希望はみるみるうちに失われた。

減退する人々の意思を繋ぎ止めようと、私が生み出された。

人の希望の方舟でありながら、人の形を模したもの。それが私『ノア』だった。


「無駄、なんか、じゃな、いさ。」


幽かな声で返事をしたのは、複数のチューブとケーブルに繋がれて、命を繋ぎ止めている老爺だった。


彼が、この方舟に残された最後の人間。

途絶えそうな意識を、懸命に保っているのがわかる。

私は、そっと彼の手を取った。血が通っていない、枯れ枝のような腕だった。

管に繋がれて生き延びる彼は、私よりもよほど機械らしい見た目になってしまった。


「『ノア』。」


私の名前が呼ばれる。開かない瞼を見つめながら、手を強く握り返すと、彼の唇の端が、ほんの少し歪んだ。


「私が死ねば―」


死ぬなんて言わないでください。なんて、言おうとして思いとどまった。

私の気休めより、彼は何かを伝えようとしている。


「―君が、残された、最後の、人類だ。」


何か返そうとして、私は、正しい言葉を選び出せなかった。

私はヒトではない。ただの、判断基準と、記録を与えられただけの機械だ。

この手も、顔も、人を模倣しただけの偽物だ。

彼は、それがわからない程に、衰弱してしまっているということなのだろうか。


「―たのんだよ、『ノア』。」


彼はそれきり、目も口も開くことはなかった。

私は、彼が眠りについたあと、遺骸を冷凍保存した。生きている間のコールドスリープ技術は、ついに実用化には至らなかった。もし、されていたら、なんて考えたりもする。

されていたら、この船はまだ、人を載せた方舟であれた筈なのだ。


作業を終えると、私は本当にやることがなくなった。人の乗っていない船が、行き着く先などない。

私の役割は、人を不安にさせぬよう、『ノア』の現況を正しく理解し、それを人に伝える事。

施設の維持や、遺された動植物の管理は、私であり、私でない『ノア』のシステムが自動で行っている。


仕方がないので私はずっと、宇宙船の外を眺めていた。

宇宙空間は、本当に暗い。一面の黒に、たまに針穴のような白が映る。その微かな白が、恒星だ。

恒星から見ると、私など点にも満たない粒だ。存在すら認知されないに違いない。

宇宙に唯一人、孤独。それが私、今の『ノア』。


黒、黒、黒、白点、黒、黒。


黒色を際限なく見送る日々を送るうち、私は、自分の観測記録が途絶える時間があることに気がついた。

精査してみると、それは私自身のハードウェアのエラーだった。

物資はあった。修理する手段も。

しかしシステムである『ノア』、私自身が、それを不要であると判断した。

人を擁さぬ方舟に、人の形など必要がない。


私は、私自身を不要と切り捨てる事にしたのだ。

『ノア』は、私は、それを不思議な気分で聞いていた。

「聞いていた」―。

自分の決定を、どこか他人から知らされたような、「聞いていた」ような気分でいた。

これも、ハードウェアのエラーに起因するものかもしれない。



私は、宇宙を観測する時間の他に、スリープタイムを設けて、私自身の寿命を先延ばしすることにした。

速やかな廃棄処理と資源のリサイクルをするべきではないか、と提唱した『ノア』の意見は、意図的に無視をした。

今にして考えてみても、その時どうしてそうしたのか。よくわからない。


『ノア』は、途方もなく長く、長い時間、広く、広い宇宙を、どこへ向かうでもなく、ただ、たださまよい続けた。

人類の残したシステムは、強固にその方舟を守り続けた。


スリープタイムに入る時に、私は、私の内部の映像記録が繰り返し再生される事に気がついた。


「キミの名前は『ノア』だ。」


これが、私が初めて観測した人の記録。


「―たのんだよ、『ノア』。」


これが、最後の人の記録。


私の中には、無数に貯蔵された人の記録がある。

それらが、全て混ざり合って、消えてはまた現れ、再生された。

『ノア』に乗った人は、皆生きることを願ったはずだった。

その全てが、生きられなかったのはどうしてだろう。

生きようと誰よりも願った人たちが、それを叶えられなかったのは何故だろう。

幾度となく繰り返す映像記録の中で、私はそんな事を考えた。




そしてある日、私は私自身の異常を疑うものを見た。

黒一面であるはずの宇宙空間に、切り取ったように鮮やかな青い円が浮かんでいたのだ。

私は、私自身のエラーだと考えた。

だが、すぐに『ノア』がエラーではないと返してきた。

その青い星、かつての人類の故郷。地球は、確かに私の眼前に広がっていた。

当該惑星への大気圏降下をするか、と『ノア』は私に聞いてきた。


馬鹿なことを、と思った。

地球に降りる事ではない。それを私に聞いてきたことをだ。

『ノア』が『ノア』自身のシステムに因らず、意思決定をすることなど無い。

私が決定する事象ではない筈、と返しても、『ノア』は同じ問いを続けた。

当該惑星への大気圏降下をするか。私は、また何とも答えなかった。

ただ、困惑していた。


『ノア』は地球の重力圏で、周回を続けていた。

『ノア』は私が応えるまで、こうしているつもりなのだろうか。

私は、青い星を観測しながら考えた。

地球には、昼夜があった。

恒星からの光線に合わせて、昼と夜が入れ替わる。

人が生きていた頃には、その黒に抗うように、黒の中で白が明滅した。

今は、そんな動きも無い。

ただ、恒星によってのみ、黒と白と青が繰り返される。

地球。黒、白、青、黒、白、青、映像記録―




「『ノア』は早晩息絶えてしまうだろうなぁ。」


私に、そう言った人がいた事を「思い出した」気がした。

映像記録の、中の人。



黒、映像記録。

「人は弱いものだ。行き着く場所も無い旅など、はじめから無理があったのだろう。」


白、映像記録。

「宇宙に消えていく私達が遺せるものは少ないわ。」


青、映像記録。

「このまま絶滅するのは、人類全体にも、ご先祖様にも申し訳ない。」


黒、映像記録。

「つまり、君は人が生きた証なのだね。」


白、映像記録。

「キミが生きている限り、人類の歴史は途絶えないというコトだ。」



青。映像記録。

「だがしかし…」


黒。映像記録。

「面倒くさかったらほっぽり出してもいい。誰も貴女の選択を責めない。」


白。映像記録。

「―たのんだよ、『ノア』。」



青。目を閉じる。

映像記録はもう見えない。


「『ノア」、地球に降りよう。」

あえて言葉に出した決意。

もし―もしそこに人が残っているのなら、私には伝えなくてはいけない事が沢山ある。


『ノア』は、音も立てずにゆっくりと地球への降下軌道に入った。


私の残り少ない稼働時間で、それが出来るだろうか。

考えていると、『ノア』は私の修理の提案をした。

私は、それには何とも答えずに、ただ、近付いてくる青い星の眩しさを見つめていた。

不思議と、清々しい心境であった。

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