死神の印
混乱から
噛み付いているのだ。ペンが。
ペンの持ち手部分が真っ二つに裂けており、そこからノコギリのようなギザギザの歯が生えている。
ペンに添えていた親指は、その上下のギザギザに挟み込まれ、いくつかの先端部分に関してはそれはもうぶっすりと突き刺さっていた。
衝撃的な光景に、ただ見つめることしかできない。
「インクはペンが自給するので必要ないんですよ。便利でしょう?」
こいつ、わざと言わなかったな。
微動だにしない私を見て、男は「おや?」と首を
「そんなに驚かなかったようですね。少し残念です。ああ、そのまま動かないように。すぐに終わりますよ」
よく見ると、先ほどは白かった羽の部分が真っ赤に染まっている。
おそらく、噛み付かれた部分から血が吸い上げられているのだろう。
「そろそろ良さそうですね。どうぞサインの方を」
胡散臭い笑みを深めてこちらを見てくる男に、ここで全てを無かったことにできたらどんなにいいかと思えてならない。
しかし、男の後ろからはこちらを一心に見やる少年の
契約が終わるまでは何もするなと言われていたが、その言葉を守っているのだろう。
私がペンに噛まれた時は、物凄い表情でこちらを……いや、正確にはペンを
私の手が止まったのを見て、不安げな表情を浮かべながらもじっとこちらを見続けてくる少年に、ほんの一瞬、あの子の面影が重なったような気がした。
そんな一瞬の出来事でも、私を動かすには充分な理由だったらしい。
ペンを持つ手がすべるように契約書の上を走る。
真っ赤な
最後の一文字を書き終わると同時に顔を上げ、男に向かって勢いよく契約書とペンを突き返した。
「書けました」
男は契約書を受け取ると、そのまま書面に目を通している。
「はい、確かに。では早いとこ、印を刻んでしまいましょうか」
特に問題もなかったのだろう。
契約書をくるりと丸めると、男は私のてっぺんからつま先までざっと視線を移し、何やら不可解なことを聞いてきた。
「どこがいいんです?」
「はい?」
「印ですよ。どこに入れたいのか。便利なのは手足ですが、その分リスクも高くなりますからねぇ」
何の話をしているのか、さっぱり理解ができない。
思わず目の前にいる少年の方を見ると、少年は私と目が合うなり溶けるように顔を緩ませた。
ゔっ、眩しい。
「死神は身体のどこかに
どうやら印とは、死神になる上で必要不可欠なものらしい。
「それと、印は身体のどこかに触れることで起動が可能になります。右手に刻んだ場合は、左手で触れるか、右手を持ち上げ他の部位に触れさせるかで、起動が可能になると言うことです」
他の部位……。
つまり、右手で頬に触れる、とかでも良いということか。
「手や腕に刻むのは便利ではありますが、印は死神にとってのライフラインでもあります。もし印を刻んだ部分が身体から失われた場合、その死神は一時的に印を使用した行動が大きく制限されます。そして、適切な処置をせず放置した場合については……。まあとにかく、印を刻む位置についてはお任せしますよ」
失うというのはつまり、欠損などのことを言っているようだ。
私の想像してた死神よりも、だいぶバイオレンスで生々しい話を聞かされているわけだが……。
結局のところ、普通の人間がそう簡単に理解出来るようなものでもないのかもしれない。
「むつき」
一滴の水が起こした
「……あ、ごめんね。ちょっと考え込んでて」
「構わない。俺の方こそごめん。むつきの
申し訳なさそうにしょんぼりとする少年に向けて、慌てて声をかける。
「邪魔になんてなってないよ。なかなか決められなくて、悩んでたところだし。……君は、どこがいいと思う?」
「え?」
いきなりの問いかけに、驚きで少年の肩が跳ねる。
困ったような顔で考え始めた少年だったが、真剣に考えようとしてくれているのだろう。
だんだんと眉間に
隣では少年の上司が、これは面白いと言わんばかりの
無茶振りをしてしまった自覚があるだけに、何だか申し訳ない気持ちになってくる。
もう大丈夫だと少年に声をかけようとしたその時、少年の方がパッと顔を上げた。
何かを言おうとしながら右手を上げ、胸元のローブを掴む。
ちょうど心臓の真上くらいの位置だろうか。
「そこにします」
それを見た瞬間、私の口は自然と印の刻む位置を伝えていた。
驚いた顔が年相応に見えて可愛らしい。
視線が合ったため笑いかけると、少年はそれだけでまた嬉しそうに表情を緩ませた。
まるで、雪解け水が心に流れ込んでくるような心地にむず
何かが芽を出しそうな、そんなむず痒さ。
「ここにします」
今度は男の方を向いて、ハッキリと口にした。
私の示す場所を見た男は、何かを考えるように黙っていたが、「分かりました」とだけ口にすると、持っていた契約書の上に手をかざした。
パチパチと弾けるような音が聞こえ、その直後、契約書は炎を吹き出し燃え上がった。
文字通り、それはもう清々しい程に燃え上がっている。
脳内がキャパを超え、現実からの逃避を試み始めた。
頭の中で虚無と混乱が繰り返される中、おそらく外側から見た私はあまり動揺した様子もなく、かなり落ちついて見えることだろう。
昔から私はどんなに焦ったり驚いたりしても、それが態度や表情として出ることが極端に少なかった。
別に感情が無いわけではなく、周りの人ほど大きくないだけで、その都度きちんと感じている。
ただ、生まれてこの方、人形のようだと言われることも幾度かあり、人と関わることを好まなかった私は、まあそれでもいいかと流してきたのだ。
「そろそろ戻ってきてもらえます?」
脱線しかけた思考が引っ張り戻される。
目の前には燃え盛る契約書。
それと、そんな契約書を持っている男の姿が見えた。
「……どうして分かったんですか?」
さっきの思考回路から、思わずそう聞き返してしまった。
「この状況で最初に聞くことがそれですか。やはり、あなたの根幹についてはそのままだったようですね」
「それはどう言う──」
意味が分からず問いかけようとするも、男はあろうことか、燃え盛る契約書を私の胸元に向かって押し付けてきた。
ペシっと鳴った軽快な音に反して、炎は顔の前スレスレで燃え
いや、普通に顔にもかかってた。
「あつ、……くない?」
「これは貴女の力になる
確かに、炎は燃え盛っているのに、全く熱さを感じない。
「はい、終わりましたよ」
その言葉を合図にしたように、燃え盛っていた炎が急速に小さくなっていく。
あんなに燃えていたにも関わらず、契約書は綺麗な状態のまま男の手に収まっている。
何だか不思議な心地で見ていると、契約書は黒い霧のような形状に変わり、そのまま男の手から消え去っていった。
契約書が消えると、男は何故か私に向けて手を伸ばしてくる。
そして、服の首元に指をかけると、あろうことか手前に引き、平然と中を
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